潜熱

    @物体が融解、気化、凝結、凝固する時に、吸収、又は放出する熱。

    A内に潜んでいて表に現れない熱。



 「…ィ? るフィ。ルフィっ!」

切迫した声がする。
すぐ真上からだ。
単調な潮騒の音。
じりじり照りつける陽射しの強さ。
一杯に張った帆が幾つも流れてくる風の塊りに次々叩かれる音。
潮風の汗に似た塩っからい匂い。
ぬるい水で濡れた板張りの感触。
あれぇ? 引力が横向きだ。
背中、甲板にくっつけてねぇか?
ってことは、俺……………昼寝の最中か?

 「ルフィっ!」

軽く…とは言えねぇ強さで揺すぶられてることに気がついた。
短くではあるが、何度も何度も執拗に。大きな手で。
曖昧な意識のピントがゆるやかに、だけど、一瞬で戻って来て、

 「あ………。」

目を開ける。
眩しいなぁ。
視野を埋めるのは、底が見えないくらい深いのに突き抜けて見える青い空と、

 「気がついたか? 判るか?」

ゾロのたいそう深刻そうな顔だ。
すぐ傍に屈んでこっちをのぞき込んでいて、
その顎の先からぽとぽとと水が垂れて、俺の胸へ落ちてくる。
シャツも頭も濡れている。
なんでこんなずぶ濡れでいるんだろう。
今にも怒り出しそうに見えた切羽詰まった顔が、

 「ゾロ…?」

声を出すとたちまち大きな息をついて目を伏せ、安堵して見せる。
辺りからもなんだか"ほっとしたぞ"という空気が静かに伝わって来て、
首を横に倒すと、皆が…膝をついたりやっぱり屈んだりして、すぐ周りに集まってた。
そんな中、鍛えられた太っとい腕を両方、背中と甲板の間に突っ込んで来て、
力が入らない俺んこと、ゾロが抱えてくれるらしくて。
抱え切って歩き出すその前に、一瞬だけきゅって抱きすくめられた。

 「…良かった。」

その呟きはあまりに小さくて、俺以外の誰にも聞こえなかったようだったけれど。


 ………もしかして、俺、また海へ落ちたらしい。


            ◇


 ルフィ本人は相変わらず、良くは覚えていないらしく、
「そっか、ゾロが助けてくれたんだ。ありがとな。」
 まるで"遊んでもらって嬉しかった"というようなのと同じノリで、屈託なく、見方を変えればいかにも呑気そうに礼を言った。悪くすれば二度と再び戻っては来られない死の瀬戸際にあったくせに、まったくお軽いものだよなとサンジが苦笑いを見せていた。ルフィといい緑髪の三刀流の剣豪といい、野望や夢のために命懸けたり、かと思えばあっけなく手放したり、判んねぇ奴らだぜという苦笑だ。引き合いに持ち出されたゾロはともかく、ルフィにとっては、どんな大事
(おおごと)でも過ぎてしまえば大したことでなくなるらしいということか。真水のシャワーを使って海水を洗い流し、濡れた服を乾いた寝間着へ着替えさせられて、今は"医務室"のベッドに強制収容されている彼で。だが、着替えやら何やらへ他人の手がかかることを少しも嫌がらず、為されるままでいたところを見ると、元気そうに見せていても、実は相当に気怠いらしい。海中半ばで見つけ、助け上げて海面へ出た時には意識がなかったほど、今回はかなり深く沈んでいた。その深さの分だけ多く、体中から力を吸い取られてもいたのだろう。悪魔の実。忌まわしい呪いの果実。
「………。」
 他の面々は甲板の後片付けにあたっていて、ルフィの看病は引き続いてゾロに任されていた。ベッドに横たえられたルフィは、だが、相当に疲れているのだろうに眠るでなく、ただじっと大きなその眸を天井へと向けている。
「…悪かった。気づくのが遅れてな。」
 混戦状態の戦闘の最中で、それでも一番に気がついたのはゾロだったらしい。行きずりの海賊たちがなだれ込んで来て戦場と化した船の上、戦闘担当の3人衆はともすれば喜々として賊らの相手をしていた。時として退屈な船旅の中、余裕で相手が出来るレベルの敵との戦いは、格好のレクリエーションになる。凶悪狂暴コックのサンジの持ち技は"蹴り"で、余程のことでもない限りは、死なないよう、大怪我に至らぬようにという、手加減ならぬ"足加減"が出来る。陽射しの中をカミソリでざっくりと切り裂いて生じた影のような、鋭いまでにシャープな痩躯で、両の手はズボンのポケットに突っ込んだままという余裕のポーズのまま、いかにも小物な敵たちを次々に蹴倒していた。そんな彼が暴れていた上甲板とは反対側の後甲板では、ゾロが"うざってぇな、とっとと帰れ"とばかりに刀のちょい切りで相手を片っ端から撫でてやっていた。刀での戦闘は、序盤戦こそ斬り合いだが、本気で斬りつけ斬り裂くような戦い方を続ければ、その相手が二桁に乗らないうちに殴り合いと叩き合いになる。刃が血糊や刃こぼれで斬れなくなるからで、その後は相手の手足を殴って骨折させたり、肩や頭を殴って昏倒させる戦いになる。ゾロが腰に携えている3本の刀はいずれ名のある名刀ばかりだが、それでさえ…ゾロの腕をもってでさえ、5、6人ほども胴切りにすれば刀はそのまま"鋼の棍棒"と化すのだ。よって、ちょんと触れるだけでも火がついたように痛みが走る、軽い"撫で斬り"で戦意を喪失させるのが穏当という訳だ。大仰に"今にも死にそうだ"と怯えて退却する様を"やれやれ"と見送って…、
〈…ん?〉
 泡を食って退散して行く海賊たちの中、混戦のただ中へ一番手として飛び込んでいたルフィの赤いシャツが、どこにも見えなくなっていたことに気がついた。一番手薄な徒手空手、何の武装もない身でありながら乱戦が好きだという血気盛んな奴で、それが通用するほど確かに強い。小さい頃から鍛えていたという馬鹿力と、知る人ぞ知る"悪魔の実の能力"と。ゴムゴムの実を食ったという彼の体は、際限無く伸び、いくらでも縮み、打撃系統の攻撃は全て吸収して無力化してしまう。剣による斬撃は素晴らしいまでの反射で避けまくるため、この程度の乱闘で痛手を受ける恐れなぞまずはなかった。ただ、姿が見えないというのは気になった。何しろ彼は、そう…悪魔の実の能力者だ。先程挙げた能力を得るのと引き換えに海からは嫌われる。よって、海へ落ちたが最後、体中から力を奪われて、もがくことさえ出来ぬまま、海底まで沈んでいってしまうのだ。
〈…ルフィ?〉
 後甲板にはもう敵の姿もない。それは良いとして、居る筈の味方までがいないというのは気に掛かる。何だろう、背条がざわめく。そして…選りに選って、見つけたくはないものを視野に収めて、剣豪は愕然とした。
〈…っ!〉
 船端の索具に引っ掛かっていたのは、ルフィが時に命を危険にさらしてでも守っている、宝物の麦ワラ帽子ではないか。
〈まさか…っ!〉
 自分の思考や判断が現実へ追いつくのももどかしげに、船縁に脚をかけて乗り上がると、そのまま海へと飛び込んでいた。乱闘で逃げ損ねて海へ落ちていた敵の残党が何人かいて、ロロノア=ゾロが執拗に追って来たと勘違いをし悲鳴を上げたが、当然そんなものに関わってはいられない。亜熱帯の夏島海域だ。幾分かは陽射しを吸収して明るい海面を背に、辺りを見回す。
〈………っ!〉
 遥か下方に人影が見えた。どんどん沈んでゆく細っこい肢体。その姿への衝撃に凍りつきそうになる手足を強引に働かせ、ゾロは大きく水を掻いて、水中花のようにシャツの赤と髪の黒をひらひらと揺らめかせている少年に追い着く。薄く目を開いているようにも見えたが、体は全く動かない。掻き寄せるように腕の中へ取り込んで、大急ぎでとって返して…冒頭の場面へ辿り着いたという次第である。気がつくのが遅れたがために、海中に長居をさせ、その結果、こんなにも憔悴させてしまったと詫びるゾロだったが、
「気にすんな。これは俺の因果で、皆には何にも責任のないこった。それに、助けてくれたゾロが謝るなんて、筋違いも良いとこだろ?」
 その通りではあるが…日頃の溌剌とした様子からあまりにも掛け離れて、ぐったりと力ない彼を見れば尚更に、これほどまでの目に遭うものをどうして見過ごすことが出来ようかと感じる。だが、ルフィは言ったそのまま、もう話題にさえするつもりもないという平然とした顔でいる。所詮は仕方のない因業であり、必ず誰かが助けに来てくれる…とは思っていない彼なのだろう。水臭い考え方だが、それもまた海という特殊な、そして危険な場所で命を張って生きてゆく者ならば、持ち合わせねばならない覚悟の一つ。自分の命は自分で守るのが原則であり、手を差し伸べてくれなかったと仲間を恨むなんてお門違い。誰もがその両手でしっかりと、まずは自分の命を守るのが先なのだから。だが、だったら尚のこと慎重であるべきだろうに、ルフィは全く海を怖がっていない。それどころか無頓着この上もない。矛盾した思考と行動。何につけそういうところの多い彼だが、事は命にかかわること。そこまでは考えが及ばなかった…とかいう代物ではなかろうに。
「………。」
 言葉の継ぎ穂を失って、ゾロはふと…ルフィの額から目許へそっと自分の手のひらを載せた。
「眠るんだ、ルフィ。」
 疲れているのに気持ちの興奮が邪魔をして眠れないということはよくある。放心したように眸を見開いているこの様子から、そんな状態にあるのではなかろうかと思った。ただでさえ大きくて重みがある自分の手は、疲れている身には重かろうと加減して載せたのだが、ルフィはそこへわざわざ自分の手を重ねて重みを増やすようにする。
「…気持ち良い。」
 ゾロの手のひらの中、だが、眸は伏せられてはいないようで、瞬きをしている睫毛の感触が触れてくる。それに加えて、
"ルフィ?"
 重ねられた手が異様に冷たいと気がついた。先程海水を落とすのにかぶったのは水のシャワーだったが、それでも…少しでも動けば汗が出るほどの気温の中、水温だって結構高く、一緒にかぶったゾロにはぬるかったほどだ。だのに、この手の氷のような冷たさはどうだろう。…と、
「…寒いな。」
 小声で呟く。助け上げた時にも感じていた。夏島海域の海だというのに、手足がいやに冷たくなっていたルフィだと。それがまだ続いているということか?
「ちょっと待ってろ。」
 立ち上がって室内の作り付けの戸棚へ向かう。そこからブランケットを取り出し、薄い掛け布の上へ重ねてやった。肩口を整えてやろうと手を伸ばすと、その手を掴まえる。

 「海の水はいつだって、俺には冷たいんだ。」

「ルフィ?」
 唐突すぎて、意味が分からない。だが、ルフィの言葉は先へと進む。
「頭が下になって、どんどん沈んでく。体は動かねぇけど、不思議と意識はあってさ。手足がぎゅって凍っていって、次は胸が凍ってくんだ。」
"…ルフィ。"
 こちらを見てはいない。天井を真っ直ぐに見据えて、まるで独り言のように、されどはっきりした声で紡ぎ続ける。
「妙に周りがよく見えてよ。足元の方が海面だから明るくて、けど、そんな周りの海の色もどんどん暗くなっていって。逆さまなんだけど、丁度夜空に昇ってくような気がするんだ。体中が凍りついて、動けなくって。目を瞑ったらそのままぐっすり眠れそうな気がして…。」
 単調な呟き。だのに、ただ聞いているのさえ堪らなくなり、
「もう良い、ルフィ、やめろ。」
 掛け布ごと、その細い体を抱きすくめる。さぞや恐ろしかったろう。何せその先に待つのはこの世に唯一の"絶対"である『死』なのだ。いつぞやは処刑台の上で嗤
わらって見せた彼であるが、それとはまるきり次元が違う。必ず死に至る毒を、されど一番薄めて飲まされたように、じりじりと命を削られ、黄泉の世界へ一寸刻みで引き摺り込まれる恐怖と絶望。そんな彼の、すぐ傍らに自分も居たのに…と思うと歯痒いやら苛立たしいやら。山ほどの後悔と自責の念が湧き上がり、こちらの胸まで潰してしまわんという勢いで締めつける。覆いかぶさった格好になり、間近になった頬がこちらの頬に触れる。ルフィは丁度ゾロの耳許で小さく吐息をついて、

 「………でも、急に温ったかくなった。」

 そんな言葉を継いだ。

 「追い着いてくれたゾロが、ぎゅって抱いてくれてた。今みたいに。」

「ルフィ?」
 顔を向けると、こちらを見やって薄く微笑んでいる。あの時、薄く開いていた眸は、ちゃんとゾロの姿を捉えていたらしい。
「そしたら、急に安心しちゃって。頑張って起きてなくって良いやって思えて。それで…そこから何も分からなくなったんだな、これが。」
「ルフィ…。」
 彼が淡々と語っていたのは、恐怖体験でも形而上学的な『死』へのオマージュでもなく、単なる体験報告、それも…何で意識を失っていて皆を心配させたのかへの顛末報告であったらしい。深刻に構えられるのが重くてかなわないのか、わざとボケた言いようをする彼で、
「ホントにありがとな、ゾロ。」
 間近になっている温みへ、心から嬉しそうに頬を寄せて見せた。そんな仕草に、こっちこそ胸がやっといつもの温度、温かさを取り戻せたようで。深い吐息をついたゾロは、抱き締めていた腕を緩めて身体を浮かすと、ルフィには余っているベッドの空いた空間へと身を横たえる。途端に、大儀そうながら何かをせがむように伸ばされて来た腕を掴み取り、慣れた様子で横になったまま"くるん"とその小さな全身を腕の中へ掻い込んでしまう。…何で慣れてるのかなんて聞くだけ野暮ですぜ?
(こらこら) 広々とした腕の中にぬくぬくと抱き込まれ、
「温ったけぇ。」
 しみじみと呟くルフィで、
「…外は暑いくらいなんだぜ?」
 ゾロが笑みを含んだ声で茶々を入れると、
「いいじゃん。俺は寒いんだから。」
 口唇を少し尖らせて、だが、たいそう嬉しそうに反駁する。ああ、この顔だと思った。生きていること、生き続けること。それをそう簡単に手放す彼である筈がない。そんな熱気を、だが、死を恐れないことと平行させられる彼そのものが、逞しいエナジーの塊りなのだ。やっと温かさが身体の芯にまで到達しつつあるのか、目許がとろんと潤んできたルフィで、
「けどさ。助けてくれるのはありがたいけど、順番が違うぞ? 俺を助けて海賊王にするのがゾロの役目じゃない筈だ。自分が大剣豪になんのが、何より先立つ目標だろ?」
 そんな風に言ったと思ったら、もう"すとん"と眠りについている。無邪気で無心な寝顔。心から安らいで身を任せている温みとかわいらしい重みとがくすぐったい。
"お前に言われなくとも判ってるさ、そんくらい。"
 理屈では判っている順番。だが、実際は…その野望も、この少年の掲げた夢や希望、安らぎや幸せがついて来ないと価値が半減すると、そんな気がしてもいる。だんだんと熱を取り戻してきたルフィの身体。寝苦しくなるまでは良いかと、しばらくはこのままで寝顔を堪能することにした。互いの熱が同じになって、一つに溶け合うまで…。

        〜Fine〜  01.8.19.〜8.20.

   カウンター400番 キリ番リクエスト
                 Jeaneサマ 『ゾロとルフィで"体温"』



 *Jeaneサマからは、
  「体温が高そうな二人が、
  "暑いから寄るな""いいじゃんか"なんて言い合っていちゃついたりして」
  というヒントをいただいたのですが、
  それはウチの彼らには漏れなくついてくる要素ですので、(おいおい、威張るな。)
  もうちょっと話をよじらせていただきました。

 *………で。
  この題材はどこか死にネタに通じてて、
  自分から"そういうのは書けない"と言っときながら、
  何を禁じ手使っているかな…とも思ったんですが。
  でも…忘れてはいけない要素でもあるよなと思いまして、
  一度は書いておくかと。
  (今回のるひーさんは、
   少しはノーマルへ浮き上がって来た方なのではなかろうか。)

  こんな我儘な作品となってしまいましたが、
  Jeaneサマ、宜しかったら貰ってやって下さいませ。


back.gif