厨房のある中央キャビンから出て、一息つく。とっくに陽は傾いていて、頭上には満天の星明かりと、それらをしたがえて静謐な威容を見せている上弦の月。陽が沈んでからは下のキャビンで時間を潰すかとっとと寝るのが皆のなんとなくの習慣になっていて、煙草に火をつけながら見下ろした甲板で夜陰に紛れて遊んでいるのは、冴えた夜風と潮騒だけだ。静かな波の音に耳を傾けながら、手摺りに凭れ、片手でコルクの栓を軋ませると、
「………?」
丁度向かい合う格好になったキャビンの屋根の上で、むっくりと誰かが起き上がる気配がした。見上げれば、月光の手前、ナミが故郷の村から離れる時に持ち込んだ、みかんの大鉢の傍らに見慣れたシルエットがいて、片方の膝を半端に立てた恰好でこちらを見下ろしている。それは丁度…密林の中、樹上にうずくまる精悍な黒豹のようにも見えた。その影へと"にやっ"と笑いかけ、
「いい鼻してやがんな。やるか?」
ボトルをかざすと、
「ああ。」
張りのある声が応じて頷いて見せる。厨房へ取って返し、ワイングラスをもう一つ手に取ると、同じタイミングで屋根から降りた気配がかすかにあった。本人はきっと何とも気を遣わず、たいそう無造作に動き回っているのだろうに、さして音も立てずに済ます。あれもまた、日頃の鍛練の賜物というやつなのだろうか。外へ戻るとグラスを手渡し、
「ちゃんと味わって飲めよ。
でなきゃ分けてやらんからな、ザル野郎。」
一応は念を押す。いくら飲んでもけろっとしていて酔いもしない。そういう奴と呑むのはちょっと野暮ったらしくて味気無い。いい酒であれば尚更で、相手がこいつでないなら誘うどころじゃないだろう。そこいらを言いつのろうとするより先に"判ってるよ"と口の端で笑って催促するようにグラスの口をこちらへ傾ける。こういう時だけ変にかわいい兄ちゃんになる剣豪。これが、その筋で"海賊狩り"として恐れられているロロノア=ゾロである。短く刈った淡い緑色の髪に、まだ十代とは思えぬいかにもな筋肉質の体躯。無駄肉はつけてない分、暑苦しくはないが、時々鬱陶しい物言いをしやがるのが気に入らねぇ。
「あんなとこで寝てやがったのか。
一体、一日何時間寝れば気が済むんだ? お前。」
「さぁな。ここんとこは暇なんで体がなまってるのは確かだな。」
世間で言うほど寝てばかりという訳でもなく、ルフィに勝るとも劣らぬ人間離れしたクソ力をつけるための鍛練は欠かさないようだが、そこはやっぱり"単なる鍛錬"で、気持ちの上での緊張感たらいうものが随分と違うらしい。
「…ん。旨いな、これ。」
一口目を口唇に含んだだけだのに、そんな一端いっぱしな言いようをするものだから、
「判んのか? 寝起きの水と一緒にしてんだろ。」
ついつい茶化すと、平然と言い返してくる。
「判るさ。誰かさんのせいで随分と舌が肥えたんだぜ? これでもな。」
たまにしゃれたことを言う。いや…しゃれたことなら結構言ってやがるかな? 問題は…本人にそういう自覚がなくって、堂々と胸を張ってやがるもんだから、却ってこっちが照れたり脱力させられたりするところだろうな。
◇
〈海賊王になるのは俺だっ!〉
海上レストラン"バラティエ"でルフィの決まり文句を初めて聞いたその同じ時、世界一の剣豪の話が出た。グランドラインという魔の洋上で、五十隻もの海賊艦隊をたった一人で薙ぎ払った鷹の目の男・ジェラキュール=ミホーク。ゾロが探していた男であり、目指していた目標でもあったという。そんな化け物にわざわざこっちから逢いたいなんてほざくもんだから、
〈馬鹿じゃねぇのか。お前ら真っ先に死ぬタイプだな。〉
そうクサすと、
〈当たってるけどな、馬鹿は余計だ。〉
強靭な光をたたえた眸が真っ直ぐに見据え返して来た。
〈剣士として最強を目指すと決めた時から命なんて既とうに捨ててる。この俺を"馬鹿"と呼んでいいのは、それを決めたこの俺だけだ。〉
ご立派な理屈に、だが、無性に向かっ腹が立った。生きることを放棄するかのように命を無為に捨てるような奴はもともと気に喰わなかったし、そこに加えてあの頃は…俺の腹ん中でとあるジレンマが燻ってたからなのかも知れない。自惚れ抜きに自分が一番腕っ節が強いという現状では到底ここから離れる訳にはいかない。自分がいなくなって、何かあったら誰が店を…クソジジイを守る? 認めたかねぇが、俺にとってどっちも大切な宝だった。命の恩人であるジジイから全てを奪ってしまった以上、もう何も失くしてほしくなかったから。だから…あそこから離れて自分の夢を追っかける訳にはいかない。どうしようもない、動かせない事実だ。ジジイ本人までが気ィ遣って追ん出そうとしてやがったもんだから、そういう想いが少しずつ重荷になりかかっていて、そろそろ腹を決めてすっぱり諦めないと、どんどんみじめになってダメになると…そんな風に考えていた。時折胸の奧の方から引っ張り出して眺めてはため息混じりに大事にしまい直す想い。そういうのは金輪際やめなければとだ。そんな時だったから、野望だの信念だの、現実を度外視した事を平気で口にし、本当に生命を懸けて実行している奴らを見て、堪らなく苦々しくなった。
〈ここを一歩でも引いちまうと、
なんか大事な…これまでの誓いとか約束とか、
色んなもんがへし折れて、もう二度とここへ戻って来れねぇような気がする。〉
〈引けねぇな。死んだ方がマシだ。〉
〈背中の傷は剣士の恥だ。〉
…なんでだ。イカレてるぜ、あの野郎。相手は本物の世界一だぞ、結果は見えてた筈だ。死ぬくらいなら野望を捨てろよ。
〈簡単だろうっっ! 野望を捨てるくらいっっ!〉
死んだ方がマシだと? そんな言いようがあるか、何だって生きててこそだろうがよ。こっちも…何の覚悟もないままに死線というものを味わったことがあるだけに、ただの気概のためだけに死に急ぐ奴の気が知れないと、本気で怒りさえ感じた。だが、
〈死ぬことは恩返しじゃねぇぞっ。そんなつもりで助けてくれたんじゃねぇ。生かしてもらって死ぬなんてのは、弱い奴のすることだっ!〉
選りにも選ってルフィから説教を喰らってしまった。後で聞いた話じゃあ、ルフィにもまた、左腕を失ってまでして助けてくれた恩人が居るという。あの麦ワラ帽子を奴に預けた男。今もどこかの海で仲間たちと共に航海している大海賊。
〈…っ! じゃあ他にケジメつける方法があんのかっ!〉
確かに恩を意識してはいたが、だからと言って忍従していたとは思わない。喧嘩腰が当たり前、他人同士の寄せ集まり。だのに、十年近くもの歳月を面白おかしく過ごしていた第二の故郷。最初に乗ってたオービット号よりも懐かしい…あのレストランはそういう場所でもあった。俺がいなくなったら困るだろうから…という想いと同じくらい、自分の方からもずっとあそこに居たいという気持ちがあったのかも知れない。
―― 死なねぇよ。ここは俺の死に場所じゃねぇ。
〈全身に何百の武器を仕込んでも、
腹にくくった一本の槍には敵わねぇこともある。〉
生き残るための装備となりふり構わぬ戦略が頑強な"盾"なら、死をも恐れぬ信念と高潔な矜持は小細工のない真っ直ぐな"槍"。その場にいた全員が、世界最強の盾が、太くはないが果敢な槍に貫かれた瞬間を見た。
〈下らねぇ理由でその槍をかみ殺してる馬鹿を、俺は知ってるがね。〉
どいつもこいつも、人がせっかく諦めようとしていたものをわざわざ煽り立ててくれやがって…。
◇
「信念か…。」
ふと…口を衝いて出ていた。ため息にも似た呟きは、潮騒が邪魔をすることもなく届いたらしく、ゾロが怪訝そうに眉を顰める。
「何だよ、唐突に。」
口に出して言うつもりはなかったが、拾われたのならしようがない。
「いや…ルフィといいお前といい、たった一つしかない命をよくもまああっさりと危険に晒せるのなと思ってさ。戦う生きざまを選んだ奴の信念ってのは、そんなに頑丈なものなのかってな。」
その信念に引き寄せられた格好で今ここにいる自分だというのも判っている。そうまでの影響力がありながら、日頃は呆れ返るほどお馬鹿な奴だと判るにつけ、ちょっと腹立たしいがちょっと安心するのも本当だから複雑なもんだが。相手のグラスへボトルを傾けると、空になってたことに気づかなかったらしいほどキョトンとして見せている眼とぶつかった。
「何を他人事みたいな言い方してやがる。」
「?」
「お前だって"信念"から無謀なことをやっとったろうが。あのドン・クリークにまで飯を喰わせてやったのは、理屈はよくは判らんが…奴を信じたからじゃなく、お前の側の信念からじゃねぇのか?」
ああ、そんなこともあったかなと苦笑が洩れる。食えない苦しさと絶望は、人から何もかも剥ぎ取る。誇りも矜持も信頼もない、ただの浅ましい生き物になってしまう。そういう自分が切なくなる感情だけは生き残ってて、そんなせいで精神力が強きゃ強いでやっぱりダメージは大きい。
「そうかな。あれも"信念"なのかなぁ。」
どんなに強靭な男の、矜持や生命を懸けた誇りでさえ、有無をも言わせず呑まれるほどの飢えと乾きの恐ろしさ。本当に生命を持って行かれる…それもじわじわと苦しめられる恐怖。それをこの身で体験したことがあるから、食べ物を楯に取るのは人として一番卑怯だというような感覚が備わってしまっているのかも知れない。紙巻タバコに火をつけて、最初の紫煙をため息のように吐き出すと、
「俺はコックとか料理人とかいうものを"単なるおさんどん(賄い係)"だって思ったことはないぜ。」
そう言ってにやっと笑う。
「こっちにしてみりゃ"食わせて"やってんだ。乗組員や客を満足させるため、極端な非常時なら殺さねぇために、なくちゃならねぇポジションだ。」
誇りなんてなカッコのいいもんじゃない。そう…、
「妙な言いようだが、自分の快楽のためかもな。相手を間違いなく幸せにしてやれるんだぜ? 戦って、少なからず相手を傷つけて、膝を折らせてなんぼってのより幾らか上等だろう?」
そんな気はなかったが当てこすりのように聞こえたのか、剣豪が少々ムッとして眉を顰めて見せる。だが、照れ隠しににんまりと笑うと、向こうの"瞬間湯沸かし器"も作動しなかったのか…その場は"なんだとコラ"といういつもの盛り上がりには向かわなかったが。その代わり、
「今のお前にゃ、それの他に"騎士道精神"ってのもあるんだろ?」
冗談めかした突っ込みが入って、
「おうよ。か弱い子供とそこに居るだけで幸せな美しい女性は守らなきゃなぁ。」
こっちもほろ酔いが手伝って軽く応じた。他愛のないことを語り合い、いい酒の酔いが時間を夜の静寂の中へと蕩かしてゆく。そのまま夜更けまでグラスを傾け合う彼らだった。
◇
「あんたたちっ、昨夜、二人で酒盛りしてたでしょ。」
翌日の朝一番のキッチンで、ナミがややもすると非難の混じった声を放ったものの、
「何だ? 誘った方が良かったのか?」
きょとんとしているゾロと、
「なんだ〜、言ってくれれば良かったのに、ナミさんっ。」
にぃっこりと笑み崩れるサンジとで。二人ともけろりとした顔でいるのさえ忌ま忌ましいらしく、それでもどこか"済んだこと"という諦めもあるのだろう。出端を挫かれたそのまま、大きなため息と共に肩を落とした彼女から、怒りのボルテージは少々下がった模様。
「バっカねぇ。そうじゃなくて…ああ、やっぱり"キャデリーノ"を空けたのね。それも5本も(泣)」
空き瓶を確かめ、愛しい者の亡骸のように頬擦りをして見せる彼女に、
「それがどうかしたのか?」
ゾロが呑気そうな声をかけてくる。こっちがこんなにも切なさで胸を潰しかかっているのに、向こうは特に変わらぬ泰然とした様子であるのが、そこはやっぱり収まらないのか、
「先に言っとくべきだったわね。」
空いたボトルをテーブルの上に並べたナミは、その態度を物々しい…鹿爪らしいものにあらためて見せた。そして曰く、
「いぃい? この"キャデリーノ"は、先月シャトーが封鎖されたもんだから今べらぼうな値がついているのよ。一本三十万ベリー。このビンテージものなら、一本五十万ベリーは下らないんだって。」
途端に、
「ごっ…五十万ベリーっっ!?」
男二人の上げた頓狂な声が見事なほどぴったり重なった。ビンテージものは2本あったので、合計二百万ベリー弱。えらいもんを飲み干したんだね、あんたたち。
「逸品だってことは知ってたが、そんな値がついてようとは。」
いくら凄腕コックでも、そういう投機的な価値にまでは関心が向かないことだろうから、知らなくても仕方がない。サンジが冷や汗をかいている一方で、
「…腹、壊さねぇかな、そんなもん飲んで。」
腹巻きの上から自分のお腹をさすって見せるゾロだが…って、おいおい似合わんぞ、そんな殊勝そうな言いようは。やっと話が通じて、呑んべたちを多少は慌てさせられたことでナミの機嫌も少しは…晴れないかな、やっぱり。朝っぱらからなかなか趣き深い会話になってる一団を見やって、
「なあウソップ、酒って旨いのか?」
不思議そうに訊いたのがルフィである。途端に、
「なんだ、ルフィ。お前、飲んだことないのか?」
ウソップがこちらも少々頓狂な声を上げた。けど、あんたも偉そうに語れるほど蓄積がありそうには思えんのだが…。それへのルフィからの応じはといえば、
「ずっと小さい頃に一遍舐めたことがあっけどよ。ヒリヒリ辛いばっかで旨いどころじゃなかったぜ?」
二人のやり取りが耳に入ったのだろう。ナミがようやく眉尻を下げ、クスクスと可笑しそうな笑い声を上げる。
「子供ねぇ〜。」
「だから、子供ん時って言ってんだろが。」
それこそ小さな子供がささやかな自尊心を笑われたような顔になって、ぷうっと頬を膨らませる船長さんである。うんうん、平和よね。
〜Fine〜 01.6.19.

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