月下星群
 〜孤高の昴

          其の七 花の名前


「…ビビ様。」
 明るい陽光あふれるテラス。頭上に広々と広がるからりと晴れた空の青に拮抗した、白い離宮や瑞々しいまでの緑の茂みが美しく整えられた庭の様子が見下ろせる、アイビーが這う白い石の手摺り…の上へ、すらりとした脚を危なげなく伸ばして乗せて、日光浴でも楽しんでいるかのようにゆったりと寛いでいるのは誰あろう、悠久の歴史と砂漠の国、アラバスタ王国の誇る可憐な宝珠、ネフェルタリ=ビビ皇女である。そして、
「どうかしたの? イガラム。」
 そんな彼女へと、室内の端、窓辺の刳り貫きに控えるように、恭しく片膝をついて声をおかけした人物は、恰幅の良い体格と、見事なまでの横ロールカールが波打つ、長い長い髪を背中まで垂らした、王宮の守備を担当する護衛隊長殿である。この重臣、確かに皇女の近衛でもあるが、日頃のお傍づき、身の回りの世話をするところの、所謂"小間使い"では勿論なく、皇女の日常の生活にまではあまり顔を出さない立場にあるのだが、
「私の耳にまで届いておりますぞ? 昨日今日と、突然のようにはしたない言動がお増えになられた姫様だと。」
 曰く、木陰の芝に長々と寝そべり、焼き菓子をほお張りながら本を読んでいたり、カルーに乗って中庭をバタバタと駆け回ってみたり。確かに快活であられた皇女ではあったが、それは気品と落ち着きに満ちた、理知的な闊達さであって、蓮っ葉な…下町の娘御のような行儀の悪さとは縁遠い方であった筈。苦しい歳月を乗り越えて、辛い戦いの末に豊かな雨と共に取り戻した安息と平和。環境厳しい国ならではの知恵や文明、英知を結集し、何よりも人心の一致団結の元に、復興目指しての様々な事業も着々と進行中で。それまでの数々の苦難を払拭するほど何もかもが順調であるがため、張り詰めておられた気がふと緩まれてのことだろうか? それにしたって、おはしたな真似をなさるというのは羽目の外しすぎ。言いたくはないが…下賎の者たちとの旅の影響だろうかと、あまり詳しくまでは事情を知らない官女たちが眉をひそめる中、
「このままでは彼らが悪く言われますぞ?」
「ええ。それが嫌だったから尚のこと、気を遣って来たのだけれど、考えてみれば悪し様に言われる方が、彼らも望むところなのではないかと思って。」
 さらっと言ってのけたビビだったが、
「…ビビ様。」
 もう一度、あらためてお尋ねしますと言いたげなイガラムの語調には、笑っていた皇女の顔に、ふっと仄かな影が差した。
「ごめんなさい。あなたには誤間化しは利かないわよね。」
 自分の次の誰よりも、あの、無頼と噂されている彼らのことを知っている。ただ腕っ節が頼もしいだけでなく、誇り高く、仁に厚く、海賊にあるまじくも"利他的"で、本当の意味でやさしかった、逞しき海の住人たち。そんな彼らの本心に、彼らからの期待に応えたいなら、このような小さなことに構けている場合ではなくて…立派な王族の人間としての成長を遂げねばならない筈。そこは聡明な皇女のこと、誰に忠告されずとも、重々判っているのだが。
「お淋しいのですか?」
 本当はまだ少し、彼らと共に過ごしたかったのではないか。元はといえば、単なる通りすがりも良いところ。いやいやそれどころか、賞金目当てに殺そうと襲い掛かって来た一味の人間だったのに。そういった切っ掛けはともかく、縁もゆかりもなかった自分のため、アラバスタのために、命を張って粉骨砕身頑張ってくれた頼もしい人たち。依頼されたからではなく、大切な仲間のためだからと、死線を越えて全力で立ち向かってくれた、心優しき強者たち。振り返ってみれば…一緒に居たのは案外と短い間だったけれど、それまでじっと耐えて耐えて来た2年もの日々を埋めて余りあるほどに、前向きで上向きで充実していた数週間だった。そして、
「…判っているの。」
 あの別れの日。お前のことなんか知らないとそっぽを向いて。そのくせ、海軍の精鋭に囲まれるという危険を冒してまで迎えに来てくれて。去り行く船上。背中を向けたまま、だが、頭上に高々と掲げてくれたのは、上陸前に銘々で描いた"仲間の印"。自分の左腕をそっと見下ろしたビビは、肘のそばをそっと撫でると、小さな声で呟いた。
「だけど…消えちゃったのが寂しかったの。」
 日中は絹を巻き、腕飾りで隠していた。湯浴みのたび、そっと確かめていた藍色の染料の跡。係の女官たちが消そうとするのを断って、出来るだけ長く長く保
つようにと大切にして来たのに。とうとう"ここにあった筈"という記憶に重ねても見えなくなるほど、影も形も無くなった×印。
「私のために、私という"仲間"の悲しみを拭うために、力を尽くしてくれた人たちだったから、忘れたくはなくて。だのに、時間が過ぎるだけでも、何かが少しずつ薄くなってゆくのが…辛いの。」
 今でも仲間ではあるけれど、こんなもの、形に過ぎないと判ってはいるけれど、それが消えたのはやはり悲しい。
「私の方からも何かしたかった。おこがましいことだけれど、何かしてあげたかったのに。」
 国に残るという決意を、彼らも理解してくれた。だからこそのあの決別だった。
「判っていても辛い、判りたくないってこと、ホント、一杯あるのね。」
 切なげに笑って見せる皇女へ、あまりにも痛ましいと思ってだろうか、護衛隊長はさりげなく窓の外へと視線を投げる。これが単なる市井の一少女であるのなら、彼女の意思というもの、多少の我儘であれ尊重されてしかるべきなところだが、国を救ったというその多大なる功績をもってしても、彼女の皇女という地位や立場がそんな気儘を許さない。国王が許しても、また、例え国民が理解したとしても、彼女自身が自分へ許しはしなかっただろう。聡明で誇り高く、行動力があって責任感が強い。お傍に仕える身であることを誇りに出来る、それは立派な皇女。悲しくてもそれを飲み込んで、これまで以上に切ない気持ちを押し殺して。ちょっと気まぐれな素行を見せてしまったけれど、すぐにも落ち着く彼女だろうと思うと、それもまたお気の毒でならない。どこから聞こえてくるのだろうか、小刻みに泣き続ける小鳥の声が遠ざかって。ふわっと吹きつけた風が、窓辺に垂らされた陽避けのための薄布を揺らす。そんな間合いを数えて、ふと、
「そうそう。お伝えするのを忘れておりました。」
 イガラムは話題を変えたくてか、唐突に何事かを思いついたように語り始めた。
「いつぞや客人をお泊めした医療房の中庭の一角に、なんだか珍しい花が咲いておりましてな。」
「…花?」
 それに…医療房に泊めた客人たちとは? キョトンとする皇女へ、彼は言葉を続ける。
「庭師が申すに、我が国のような灼熱の土地には自生せぬ花。丈夫な種ではありますが、放っておいては枯れてしまうやも知れません。続いて手入れをした方がよろしいでしょうかと…。」
 何だか、そう…何だか覚えのあるものなような気がする。
「それって…どのような花なの?」
 訊くと、護衛隊長はにっこりと笑って見せた。
「淡いピンクの、カモミールとかいうのに似た花だそうですよ?」
「………っ!」


      ***


「1tから1gくらい減っても大差無いんですよね。」
「…そうでしょうね。」
 でも、8人が6人に戻るのはさすがに寂しい…と、言わずもがなな台詞は飲み込んだ。大食いな船長の居る船だから、娘さんが一人とカルガモさんが一羽減ったくらいでは、作る料理の量はさして変わらないが、こうやってテーブルに並べる食器が減ったのは寂しいことですよねと、暗にそう言いたいシェフ殿なのだろう。それが即座に判ったナミもまた、女部屋がいきなりたった一人の空間になった夜が、時々切ないくらい寂しかったりしているらしい。昼食時のキッチンには、グリルサンドとオニオンスープの芳しい香り。付け合わせはフライドポテトとトマトときゅうりのサラダ。デザートはにんじんのシャーベット。全てのセッティングが終わるのを待つこともなく、
「ひゃ〜〜〜。腹減ったぞ、サンジ。」
「いー匂いだなぁvv」
 食べ盛りさんたちな他のクルーたちも勝手に集まってくるから、便利と言えば便利ではある。そんな中、
「なあ、サンジ。これ、今日だけ此処に置いてもらって良いか?」
 一際小さなトナカイドクターがキッチンへ持って来たのは鉢植えで、
「あら、チョッパー。それって確か…。」
「トレスタっつったっけ?」
 淡いピンクの、マーガレットやカモミールに似た可憐な花。いつぞやの遭難者から株を分けてもらったもので(アルバトロス『謎めきの花』)、その後は彼が世話を焼いていたらしい。砂漠の国への上陸後は放ったらかし同然だったにも関わらず、しっかり根付いていたようで、花の時期を迎えたのか、かわいらしい花が幾つも開いている。だが、
「…もう少し、こっちにも枝が張ってなかった?」
 いわゆるスプレータイプの、枝が分かれて沢山の小花が咲く種のもので、だが、株の大きさが小さくなっていることへ気がついたナミであり、言われてみれば何だかバランスが訝
おかしいような。問われた船医殿は、
「うん。半分、置いて来たから。」
 窓辺のベンチへ鉢をことりと乗せると、あっさりとそう答えた。
「置いて…?」
「薬効が多少はある花だから、使うかなと思って株を半分持ってってたんだ。それをあすこに置いて来た。」
 チョッパーの言葉には抜けている部分が多々あったが、
「気がついてくれてたら、今頃は向こうのも咲いてるぞ。誕生日に間に合って良かったぞ。」
 ニコニコ笑う小さなトナカイに、その隠されていた部分が閃くような勢いで判って、
「…あ。」
 皆が皆、一斉に顔を見合わせたのだった。


      ***


 イガラムに案内された中庭の片隅に。確かに見覚えのある可憐な花が咲いていた。
「これは?」
「トレスタという花だそうよ。」
 懐かしい花だ。太洋を航海中の船の上であったにもかかわらず、そこで初めて見た、それだけに感慨も深くなる愛らしい花。白い手でそっと、触れるか触れないかというやさしさでそっと、小さな花弁に触れてみて、
「…うん。この国ではこの花、特別な名前にしちゃいましょう。」
 ビビはそんなことを言い出すと、小さな顎に人差し指の先を当て、何事か考えを巡らせ始める。
「そうね…チョ…ル、ナ、ゾ、サ、ウ、…チョル、謎草。」
「チョ、チョル謎草…ですか。」
「ええそう。」
 ふふふと微笑った笑顔は、久しく見なかったほどにふっ切れたような明るいそれで。
「増えれば良いわね。花壇に一杯。」
 すてきな企みにそれは嬉しそうに笑った皇女は、同じ花が、とある船のクルーたちからは"ビビ"と呼ばれているとは露ほども知らなかったのであった。


   〜Fine〜 02.2.1.

   *な、何とか間に合ったぞ、の、
    "ビビちゃんお誕生日おめでとう"SSです。
    寂しいですね、彼女とカルーが抜けると。
    半分は大仰ですが、それでもかなりの間"仲間"でしたからね。
    グランドラインに入ってすぐに登場した人でしたし。
    何よりも最後に"お誕生日おめでとう"を書くことになろうとは辛すぎる。
    ウチはアニメベースのサイトですから、
    まだ当分は出てくる彼女らだとは思うのですが、
    とりあえず…元気でね? 立派な皇女様になってね?
  

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