記憶の中響く、あれは誰の声だったろう。
砂色に古びたモルタルの壁に軽く手を触れた。かつて真白く夏の陽射しを跳ね返していたその面影はひび割れてひどく微かだ。平日の昼間とはいえ家族連れの多い動物園に比べ、隣接したその水族館はあまり人気のない建物独特の静けさに包まれている。一歩足を踏み入れれば途端に夏の気配を排した硬質な空気にひやりと肌を嬲られる。剥き出しのコンクリートに敷き詰められた水槽の厚いガラスは、無秩序に放置され時の流れのままに水垢で汚れている。そのガラスに眼を近づけて緑色がった水の中を覗きこんでみると、乱雑に散らばらせた水草や石の陰に時折魚の影が掠める。だが気配さえまるで見せない魚も多く、魚が一匹もいないように見える水槽もあった。あるいは、本当にいないのかもしれないが。
薄暗い照明の中、独特の黴と埃の入り混じった冷たい空気に包まれているとまるで、世界は停滞しているかのような印象を受ける。澱んだ水と空気。循環していない時間。前に訪れたのは随分昔で、そのときはまだ真新しかった建物をよく覚えているのに、もうずっと前から今のこの空間を知っているような気になる。高いところに登った時のように、耳の奥できーんと高く軋んだ音をたてて空気が揺らぐ。
どれくらいそこに立っていたのだったか。振り返ったのは足音がしたからだった。やはり魚の見えない水槽の中を、同じように覗きこんでいる人影がある。どこか小柄な、黒髪の。あまり熱心に眺めているから、つられるように覗き込んだ。
「魚、いねェな」
独り言かと見やれば、視線は向けられている。
「そうだな」
頷くと、人懐こい顔をして屈託なく笑う。辺りに他に人影はなかった。そのうちここも潰れるかもしれないなとぼんやりと思う。少年がまた口を開く。
「よく、来るのか?」
「いや」
「そっか、よかった」
笑顔。いまいち会話が噛みあっていないような気がした。よかった?
「…何が?」
「今日来なかったら会えなかったかもだろ?」
「誰が」
「お前が」
「誰に」
「俺に」
ゆっくりと瞬きをする。言い渡された言葉は不可解な内容であるように思われた。けれど、何か。澱んだ空気のせいか、思考は遠くノイズがかかったかのように曖昧になっている。唯一音として認識できる水の中に酸素を送り込むポンプの低い振動が耳にこもる、反響する。
「俺は、会いたかったよ」
――ずっと
ひどく穏やかに笑んで、ささやくような小さな声に遠く声が重なる。子供の、声だ。不意に目の奥が痛んで目をつぶった。瞼の遠く、映像がかすめる。安っぽい映画のように古びてミュートがかった音、水しぶき、目がくらむような太陽、それから、笑っている、あれは、
『ゾロ!』
「………ルフィ?」
目を開けて、視界には誰もいない。
いる、はずがなかった。ルフィは、幼なじみは、10年前、17歳の夏に死んだ。川で溺れたのだ。カナヅチだったくせに、流されて溺れかけていた野良猫を助けようとしたのだと聞いた。水族館に行った帰り、別れたすぐ後だった。葬式に行かないと言ったとき、ルフィとも仲のよかった少女はひどく怒って、それから泣いた。それでも行かなかった、行けなかった。瞬きもできずにいた、乾いた目からは涙も出なかった。あれから一度も名前を口にしたことはない。
忘れようとしたのだ。もう一度来ようなんて約束も全部。
ここへ来ようと思えるようになるまで、10年かかった。
『泣くなよ』
遠くでかすかに声が聞こえたような気がしてもう目を開けることはできなかった。泣いてねェよ、呟いて、押さえた目はどうしようもなく熱い。
Morlin.さまよりキリリク、名前さえも愛しいゾロル。
ゆうひかく様より頂きました。
もう随分と前のキリリクで、サイトを新たに立ち上げられた事ですし、
なかった事にされても良かったものですのに、
きっちりと、こんな切ないお話を書いて下さいました。
実を言うと“死にネタ”はあまり好きではないのですが、
こんな風に美しいものならば、
何よりもキャラたちへの歪んではいない愛情から発したものであるのなら。
全然OKですので、どうかご安心くださいませです。
大切に読みますね? 本当にありがとうございました。
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