夕凪

 
 凪いだ波の上に月が光を映し、ゆらゆらと揺れる。
 日の入りを待たずに止んだ風は、そのまま少しも吹く様子を見せない。
 おそらく翌朝まではこのままだろうと役に立たない帆は巻かれ、夜も深まった海の上を、船はゆっくりと進んでいた。
 
 皆が寝静まり、寝息だけが船室の中に響いていた。
 灯りが落とされ暗い室内に、毛布を手繰り寄せる音がする。しつらえられたソファからそっと身を起こして、足音を立てないようにルフィが船室を出て行った。
 ぱたり、と入り口を閉める小さな音が響く。
 「止めねェんだな」
 その音を黙って聞いてから、小さくサンジは声をかける。
 問われた相手は、部屋の隅に敷かれた毛布に身体を起こして溜息をついた。
 「止めないよ」
 「へえ?」
 サンジが眉を上げるのが、暗い中でもチョッパーにはよく見えた。
 「怒ってたろ、緑頭の事」
 甲板の方に目を向けて、また一つ、チョッパーが溜息をついた。
 「だって、ルフィにはゾロに近寄っちゃダメだって言ってないし」
 補給のために船を止めた昼間、まだ病み上がりのルフィは無理に出かけて帰ってくるなり熱を出した。面倒を見る約束のゾロに無理をさせた罰として、「ルフィに近づかない事」とチョッパーが言い渡したのは夕方の事だった。
 あのふてぶてしいまでに豪胆な男の気落ちのしようが、ちょっとした見物であったのだが。
 「ホントはルフィには、ゾロが傍に居た方がいいんだって知ってるし」
 チョッパーが独り言のように、言葉を落とした。
 まだ時折、ルフィはあんなふうに熱を出す。
 ……それほどの大怪我だったのだ。死んでいてもおかしくは無いほどに。
 だから、それがルフィに必要な事なら何でもいいとチョッパーは思う。自分に治せるのは怪我や病気だけだと分かっているから。
 「早くいつも通りになればいいんだけどな」
 「そうだな」
 船長の足音に耳を澄ませて呟くチョッパーに、サンジが小さく笑いながら答えた。
 
 
 ひたひたと裸足で歩くような足音が、格納庫の外でしたような気がした。
 同時に開けられた入り口から月明かりが射し込み、そこに立つ小柄な人影を浮かび上がらせる。
 暗さに慣れた目にはそれが誰かすぐ分かった。もっとも、たとえ目が見えないとしてもゾロはルフィの気配を追うことが出来るだろう。
 ドアを閉めるなり、ルフィが巻きつけた毛布ごと腹の上に飛び込んできた。
 「どうした」
 何となく予想していた行動だっただけに、余裕を持って細い身体を受け止めるとゾロは穏やかに声を掛ける。
 「ここで寝る」
 「チョッパーは」
 「寝てる」
 悪戯っぽく笑う声に少し安堵して、身体を入れ替えルフィを寝かせた。
 「……まだ、あるな」
 丸い額に手を当ててまだ熱があるのを確認すると、巻きつけた毛布ごとルフィを自分の毛布に入れてやった。
 肘を突いた姿勢で、蓑虫のようになった子供を自分の傍らに引き寄せる。
 「寝れねえのか」
 「ん。目え覚めた」
 「しんどいか?」
 「じゃなくて。スゲエ静かだろ。なんかヘンな感じで寝れなくなった」
 いつもなら、波が船体を叩く音やマストが風で軋む音が船のどこにいても耳に聞こえる。それは意識しなければ気付かないほどに、既に感覚に染み付いてしまっている。
 こんな凪いだ夜はそれらの音も絶えて、静けさの方が耳についてしまうくらいだった。
 ルフィは、「まるで砂漠の夜みたいだ」と言って小さく笑う。
 確かに、静か過ぎて眠れないような気がすることもあるかもしれない。
 けれど日の出と同時に起きて日の入りと同時に寝る、と言っても過言ではないようなルフィが、眠れないなどと言うのはあまり無いことだ。
 いつでもどこでも気持ちよさそうに眠っていた姿しか思い浮かべる事が出来ずに、ゾロはどこか痛ましいような気持ちになる。
 「寝ろよ。……こうしててやるから」
 小さな頭を胸に抱え込み、子供に言い聞かせるように言った。
 「ん。……なあ」
 「うん?」
 シャツの胸元を引っ張り、ルフィが甘えるような声を出した。
 「なんか歌って」
 「……歌?」
 「ん。歌。寝れそうなやつ」
 そう言って腕の中から見上げてくるルフィの目を、思わず瞬きながら見返した。夜と同じ色の目に、微かに洩れ入る月明かりが映っている。
 「……子守唄?」
 「それ」
 「それ、って……なんだって突然」
 「よく寝れそうな気がするし」
 少々面食らいながら訊き返したゾロは、ルフィを抱えたままで溜息をついた。
 「そう言われてもな……」
 「ゾロが歌ってんのって聴いた事ないし」
 「歌ってるだろ、宴会のとき」
 「声出してないじゃん。手拍子するだけで」
 バレていたのか、とゾロは肩を竦めた。
 宴会の時には何時も、ルフィの好きな船乗りがよく歌う曲を全員で賑やかに歌って盛り上がっていた。もっぱら歌うのはルフィとウソップだったが、その他のメンバーもそれなりに歌う。
 ただゾロだけは、いつも手拍子や掛け声だけで済ませて積極的に歌う事はしなかった。今まで歌を歌う機会などなかったから慣れていない、というのもあるし……。
 しばらく視線を彷徨わせると腕の中に目を向け、まだこちらを見上げていた目元に口付けを落とした。
 くすくすと笑う柔らかな頬に、きゅっと閉じる瞼に唇を寄せ、最近ようやくさせてもらえるようになった深い口付けを唇にする。
 唇をなぞり、辿辿しく応える小さな舌を絡めとるようにしてキスを繰り返した。
 小さな頭をまた胸に抱き寄せ、黒い髪に顔を寄せる。
 吐息を零して、ルフィがゾロの胸に顔を擦り付けた。
 「…ぞろ」
 「…ん?」
 回らない舌で名を呼ばれて、額に口付けながら聞き返した。
 「うた」
 「……」
 忘れなかったか、とがくりと力を落として仰向けにひっくり返った。
 ずるずると這い上がってきたルフィがゾロの胸にあごを乗せる。
 「なあって」
 「子守唄なんて知らねえよ」
 「なんでもいいから」
 そう言われて遠い記憶を手繰り寄せようとしても、ゾロは子守唄など少しも想い出す事が出来なかった。
 おぼろげな記憶の片隅にそんなものを聴いた覚えもあるような気がしたが、口ずさめるほど確かなものにはならずに手繰る指の間を滑り落ちていってしまう。
 「……歌は、苦手なんだよ」
 「でも楽しいよな?」
 「ああ。聴くのは好きだな。……お前の声は悪くねえよ」
 「悪くねえ、の?」
 何を聞きたいかが良く分かって、ゾロは小さく笑いを溢した。
 「お前の声は、好きだ」
 きれいな声だと思う。まだ声変わりも迎えていないような声だが、耳あたりの良い、気持ちのいい声。
 「おれも、ゾロの声スキだ」
 そう言いながらゾロの胸に顔を寄せて、くすくすと笑う。
 こんな風に満足げに笑う声も好きだと思う。
 「気持ちイイし。スゲエ安心するし。……歌とか聴いたら、きっともっと気持ちイイと思う」
 胸に顔を乗せぺたりとくっつくと、何かが足りないような気持ちを声に滲ませてゾロに歌をねだった。
 「……なんかたまに、すげえドキドキするし。でもゾロ、あんまりしゃべんないしな」
 だから歌が聴きたいんだと、分かるような分からないような理屈を捏ねてしつこく歌をねだるルフィに肩で息を吐く。
 「……何が、足りねえんだ?」
 「別に、足りなくなんかないぞ?」
 何を言われたのか分からずに、ルフィがきょとんとした声を上げた。
 声の中に少しだけ混ざる違和感は、本人にも気付けないようなものなのかもしれない。
 歌をねだるようにしていながら本当に聴きたいと言っているのはゾロの声だ。
 音が欲しいのかもしれない、とも思う。
 ゾロは少しだけ考え込むと、くるまっていた毛布をルフィにすっぽりと被せてその小さな頭を抱え込んだ。
 「んあ?」
 「黙ってろ」
 毛布の中でもがく子供の耳の辺りに、口を近づける。
 「いっぺんしか歌わねえから」
 「……ん」
 大人しく力を抜いた子供の頭を抱いて、小さく歌を口ずさんだ。
 船乗りが好んで歌う歌だ。風を呼ぶ歌。航海の始まりや凪いだ夜に歌われる、誰もが知っている歌。
 ………良い風が吹いて航海が楽に出来るように、楽しい旅が出来るように、無事に帰る事が出来るように。
 短いフレーズを繰り返して歌う歌だった。ひとつの歌詞は、とても短い。
 あっという間に歌い終わって、短く息をつく。
 「……そんだけ?」
 「これだけだ」
 毛布の中で首をかしげるのが分かった。
 「…………ゾロ、歌ヘタなんだな」
 「……………………お前な」
 歌わせといて何を言うかと、抱え込んだ頭をコブシでぐりぐりとする。
 けらけらと笑いながら毛布を抜け出したルフィが、ゾロの胸に頭を押し付けるようにしてしがみついてきた。
 「すげえドキドキいってるな、ゾロ」
 「悪かったな。歌は苦手だって言っただろ」
 「悪いなんて言ってないじゃん」
 「いいから寝ろ、もう」
 憮然として、笑い続ける子供に背を向けて毛布を被った。機嫌の良い子供の声が、後ろから響く。
 「吹くかなー、風」
 「……んな都合良くいかねえよ」
 ルフィはぺたりと座りゾロの背中に首をかしげて、しししと悪戯っぽく笑い声を上げるとゾロの毛布に潜り込む。
 背中を乗り越えて前に回り、腕の中にすっぽりとはまり込んで毛布から顔を出した。
 嬉しげに腕の中に収まった子供の顔に、溜息をつく。
 「何やってんだか」
 「寝ようゾロ」
 「だから寝ろって言ってるだろさっきから」
 しょうのない子供を毛布でくるんでやって、ぽんぽんと背中を叩く。
 「ゾロの心臓の音が聞こえるし」
 胸に顔を寄せ、寝れそうだと閉じた瞼に軽く唇を寄せておやすみ、と言ってやる。
 そして、寝心地の良い位置を探して少しだけ身体を動かしたあと、すぐの間に聞こえてきた寝息にゾロは目を細めた。
 まだいつもよりも少しだけ高い体温に気を使って、寒くないようにと抱え込む。
 ……どんな事でもいい。ルフィがこんなふうにいつも笑っていられるように、それが必要な事なら何でもいい、とゾロは思う。
 怪我や病気を治してやる事は、自分には出来ないから。
 急がずに、けれど出来るだけ早く。
 また元の通りになればいいと、心から思う。
 
 僅かに船が揺れて、風が出てきたことを知る。
 まるでさっきの歌が風を呼んだみたいじゃないかと、妙な偶然に苦笑しながらゾロは目を閉じた。
 
 
 
 
 END                        2002.1.6


□ 9999get のMorin.さんへのリクSS
頂いたお題は「ゾロに子守唄をねだるルフィ」でした。
だからなんなんだ、という感じで相変わらずヘボヘボで大変申し訳ないです(><)

ええと。186.5話の補足の186・75話の続きです。
あれを書いたときに、続きを予想してくださった方々ありがとうございました。これがオチになりますv
アラバスタ編の途中でフライングして書いたものだけに、色々ヘンなのですけれど・・・・
原作でもルフィが熱を出していてくれて、とりあえずそこだけは合っていて良かったな。

歌わせようかどうしようか、歌わせるにしても子守唄なんか知らなそうだしー、
などといろいろ考えて時間が掛かったのですが、いざその場面になると勝手に歌いやがりました・・・・・・
いっそラブソングでも歌わせようかと思ったりしていたのになー。(それは変だよ)

ゾロの歌ってどうなんでしょうねー。
ソングコレクション、なんてCDも出ているようですが、聞いたことないし。
熱く男の生きざまとか歌ってたりしたらちょっと嫌かも・・・・


*素敵です、もうもうもう!
 このお話は、是非とも
 トリコ様のサイトにUPされてある186.5話をお読みいただいてから
 じっくりと味わっていただきたいです。(素敵なんですよぅvv)
 静かな凪の夜の中、
 ルフィのおねだりの仕方が何とも無邪気で、それにしては誤魔化されてなくて、
 そういうところが、何とも“らしく”てvv
 ゾロさんは、音痴ではないけれど慣れがないからヘタではありそうですね。
 いい声をしているのに、囁かせたら右に出る者なしだろうに、
 唄となると、微妙に別な要素というか技術というか慣れというか、
 それと、別腹?の度胸みたいなもの(厚顔さとか)も要るから、
 照れて言を左右にし、さりげなく何とか誤魔化そうとしているのが
 可愛いぞ、剣豪っ!!
 このような素晴らしいお年玉を貰ってしまって、
 これから始まるこの一年がいい年でなくてどうするという感じでvv
 トリコ様、本当に本当にありがとうございましたvv
 今年も宜しくお願い致しますvv

トリコ様のサイト『Sundays CHILD』へGO! ⇒



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