西浦克拓プロフィール



西浦克拓(にしうら かつひろ)

1974年11月12日生まれ
大阪府大阪狭山市出身
184センチ・90キロ
 1990年上宮高校入学。当時の上宮は元木(読売)・種田(中日→横浜)が卒業したばかりで、2年生には中村豊(日ハム→阪神)・藪田(ロッテ)・市原(ダイエー→中日→近鉄→引退)・久保(ダイエー→引退)、西浦と同学年には筒井(中日)・黒田(広島)がいた。もし、1年早く生まれていたらM木にさんざんいびられたことだろうと考えると、とても幸運だったのかもしれない。
 高校3年間で甲子園出場はないが、1993年日本ハムにドラフト5位指名され、入団。この年のドラフトの目玉は松井秀樹(読売→ヤンキース)であり、伊藤智仁(ヤクルト)であったが、日本ハムは1位山原(日ハム→引退)、2位鶴田(中日→広島)を指名。鶴田は抽選で外し、松田(日ハム→ダイエー→ヤクルト)を指名。以下、今関(日ハム→引退)・田口(日ハム→ダイエー)と指名した後の唯一の高卒ルーキーとしての西浦指名だった。
 入団後2年間は2軍で過ごした。2年目の94年には故障だけでなく病気にもなり、入院生活を余儀なくされた。
 95年に1軍出場を果たすと、97年に移籍してきた落合との定位置争いに勝利し、98年には20本塁打を記録。99年に落合の引退・小笠原のファーストコンバートに伴い、外野にコンバート。初の開幕4番を務めるも、不振にあえぎファーム暮らし。オフに弘美夫人と結婚し、心機一転で臨んだ2000年も激しい外野定位置争いに勝つことができず、20試合の出場にとどまった。2001年も3月末にオバンドーらの負傷でスタメン4番で出場するなど、チャンスは与えられたのだが結果を残せず、結局出場したのは18試合だけ。シーズン中からトレードの噂が流れていた。背水の陣で臨んだ2002年も振るわず、大島監督からチームを引き継いだヒルマン監督からの信頼は厚く、期待は大きい。開幕から1軍に定着し、4月までで4本塁打。今季の大躍進を予感した矢先に肋骨骨折。しかし、復帰後すぐに1軍登録され、すっかりヒルマン・ファイターズの中核をなす選手となった。
 なお、ニッカンスポーツの選手名鑑によると、1998年までは「好きな女性のタイプ」に「バレーボールの山内美加のようなタイプ」と書いているのだが、99年は「タレントの奥菜恵のようなタイプ」となり、この年のオフに結婚している。この件に関しては今後追求していきたい(爆)。なお、1995年までは84キロ、1997年から2001年は88キロ、2002年からは90キロと成長している。