葱嶺に立ちて (龍峰創刊号平成4年より) <戻る>
 「北魏の官人宋雲が頼命により仏僧恵生・法力等と共に西域を越え、天竺諸国を歴訪して仏典を採集して帰った。この旅行記は『宋雲行紀』といわれる貴重な文献である。宋雲が旅行の途中葱嶺=パミール高原に於て、隻履を携えて西に向かって行く祖達磨大師に会ったという説話が行われている。」これは先住職山本禅登師の遺稿をまとめた『葱頴集』の一節である。先住は臨済会より発行されている『法光』に好んで「葱嶺生・葱嶺子」というペンネームを使って原稿を書いていた。寺名宋雲院の宋雲と、求法僧の名前とを掛けてペンネームに葱嶺を使ったのはすばらしい発想である。その葱嶺=パミール高原を訪ねてみないか、という誘いを松原哲明師よりもらったのは平成3年の5月であった。是非行きたい。行くからには先住の写真を携えて追善の旅行として行こう。翌年は先住の十七年忌でもある。すぐにOKの返事をした。
 しかし届いた行程表を見て驚いた。パキスタンよりパミール高原を通過し、国境を越えて中国に入るコースである。途中には5000メートル近いフンジュラブ峠を越えねばならない。私は高地の訓練は受けてないし、空気も薄いだろう。気温はどのくらいだろうか、不安な点が多く出てきた。
 8月下旬、松原師を団長とする一行は成田を立ち、北京で早大の長沢和俊教授と合流し我々と同行して下さることになった。イスラマバードに着いた頃は夜も更けていた。日本と同様大変ムシ暑い。次の日よりガンダーラ仏教の遺跡を見学した。この地は中国からの求法憎が多く学んだウジャーナ国のあった所である。天竺へ向う玄装三蔵も途中ここに滞在している。ここスワート河流域は緑も多く、木影は涼しいが、樹木から離れると日ぎしは強く、暑い。気温46度を経験したのもこの地である。当時の隆盛を偲ばせる多くの遺跡が残っている。パキスタンはイスラム教圏ではあるが、仏教遺跡をよく保存し、各地の博物館には仏像が多数蒐集されている。ギリシャの影響を受けた仏像が多い。
 5日目パキスタン北部の都市、ギルギットを立ちベシャムよりカラコルムハイウェーに入る。パキスタンと中国を結ぶ道路で、13年前に中国の援助により全面開通した。眼下にはインダス河がゴーゴーと音をたてて流れている。雪どけ水が増水し、流れも早い。落ちたら助からないだろう。すでに目差すパミール高原に入っており、せまる山々は険しく雪をいただいている。フンザを越えるとインダス河は上流のフンガ河となり、河幅は狭く、対岸もより追ってくる。見える山々は六千メートルを越えている。実にすばらしい景色である。しかし左右の断崖はいよいよ険しくなり、対岸に目をやると、黒く細い筋がどこまでも続いている。シルクロードの旧道である。四世妃末にここを通過した法顕はこう記している。

 「山なみに従って西南方に十五日進んだ、その道は峻岨で断崖絶壁ばかり、その山は石ばかりで壁の如く千仭(せんじん)の谷をなし、見下すと 目がくらむほどで、進もうと思っても足をふむ処もない。限下に川が流れ、・インダス河(新頭河)という。ここには昔の人が右を刻んで道を作り、傍梯(はしご)を作ってある。およそ渡ること七百箇所、傍梯を渡り、吊橋を踏んで河を渡った」(法顕伝・長沢和俊訳・平凡社)現在では使われていないのだろう、途中で崩れたままの所も見られる。
 高山病のせいだろうか、しきりとあくびは出るし眠くなる。高度が富士山を越えた時は一同歓声が上った。9月1日いよいよ国境を越える日である。フンジエラプ峠は4934メートルある。空気は薄いのであまり早足で歩かないよう注意を受ける。天気は快晴、風もなく気温は十八度、大変恵まれた峠越えである。宋雲もこの近くを通過しており、宋雲行紀によると「八月の初め、漢盤陀(かんばんだ)国の境界に入り、西行すること六日で葱嶺山に登り、また西行三日で鉢盂(はちう)国に至った。さらに三日進むと不可依(ふかい)山に至った。そこは非常に寒く冬も夏も雪が積っている。」(長沢和俊訳・平凡社)
 翌日、ここを通過した日本人のグループにカシュガルで会った。峠ではあられが降り大変寒かったということを聞いた時、我々はなんと幸運であったのか。しかし求法憎がこの葱嶺を通過するのにいかに苦労したのか片隣を知ることが出来、無事峠を越えることが出来たことを感謝しなければならない。
 中国側に入り、タシユクルガンとカシュガルの間にカラクリ湖がある。標高3800メートルの高地である。宋雲行紀の中に、「山中に池があり、そこに毒龍が住んでいる。」と出る。法顕伝にもこの毒龍のことは出てくる。パミール山中では暴風雪や高山病が多いせいか、古来しばしば山中に毒龍が住むと考えられてきたようだ。このカラクリ湖は波ひとつ立たず澄みきっている。湖面には四千メートルを越える山々をはっきり写している。天気は快晴ですばらしいが、ひとたび天気が悪くなれば、毒龍も暴れまわることだろう。ここの湖水を持参した容器に2リットルほど汲んで持ち帰った。帰国して先住の墓前でパミール高原の感激を語り掛けた。そしてカラクリ湖の水をおしげもなくたっぶり掛けて大悲呪一巻読誦した。先住の代では成し遂げられなかった葱嶺への旅も、今出来たことに感謝し追善の旅行とさせてもらった。
  葱嶺に立ちて偲びぬ宋雲の
       写真を携さえ父と偲びぬ