いぢと読む。六識のうちの第六意識のこと。
「一味の智水を注ぎ、意地の妄塵を洗う」と『宗鏡録(すきょうろく)二』にある。
意味は研ぎ澄まされた智慧の水で、心の塵を洗うということ。
参考文献 中村元著『仏教語辞典』 『大正新修大蔵経四八』
意地という言葉を聞いて、まず頭にうかぶことはあまり良い意味には使われていないということです。例えば意地がきたない、意地を張る、意地が悪い、という具合である。この心の作用は生まれてから一生をつかさどっているように思われます。この心の作用がよくないと思いながらも、なかなか簡単には変えることの出来にくい作用であろう。
私の息子が中学二年生のとき、「高校は京都の禅寺に下宿してそこから学校に通うように希望しているから、そのつもりでいるように」と話しをした。それから三年生の卒業までそれまで短くしていた髪の毛を伸ばしだした。ムースをつけて髪の毛をカチンカチンに固めたり、自由にした。そして三年生の卒業式も終わりその晩に家族そろって食事に外出をした。彼の好きなすき焼きを四人で一緒に食べて、次の日は晴れて京都へ出発を迎えるべき送別の宴である。次々と運ばれてくる食事に彼は一切手をつけずに無言で下を向いたままである。家内が「熱いうちに食べよしや」と声をかけるが一切無視をとうした。まわりの人の声だけがいかにもにぎやかに聞こえてくる。自分は行きたくない、何故ぼくだけ京都へ行くのか、皆とわかれるのも嫌だし、全く知らない土地へ一人で行くのも嫌だ。私にはつらいまでに聞こえてくる。
私は寺に生まれていながら小僧としての生活をしたことがない。子供のころは当院の隣に本寺があり、本寺で行われる行事には手伝いには行っていたが、本寺の小僧さん等と寝食を共にしたことはない。しかし私が修行道場に行ったおりに感じたことは、小僧生活をしていた者とはいろんな面でハンディーをおったのである。例えば長いお経を読むにのに慣れていない、行事があっても要領が悪く、叱られることもしばしばであった。修行に出るまでに、ある程度の行事とかお経の準備が出来ておれば、嫌な思いもしないですむのである。息子にはそんな思いをさせたくなかった。しかし今の彼にはそのようなことは通じるはずもないのである。精一杯親に対する抵抗である。京都へ行きたくない意地をそこで張ったのである。
その晩に髪の毛を短くし、翌朝出立のために京都の寺の住所と地図で確認をした。京都へ行くのは初めてのことである。「かわいい子には旅をさせよ」ということばがあるが、今の彼を見るとつらいものがある。いよいよ出立の朝が来た。終始うつむいたまま大きな荷物を肩にかけて無言である。「行ってらっしゃい」の声を彼はどう聞いたか、角を曲がって後ろ姿が消えるまで家内と娘の三人で見送った。
六月のある日、京都へ行く用事があったので、息子の世話になっているお寺へ挨拶を兼ねて訪ねた。空はよく晴れていたが私の心中は複雑だった。無言の出立をした彼は今どうしているだろうか。親を恨んでいるのだろうか、しかし出て来た息子を一見して不安は一変に飛んだ。ニコニコと朗らかに話す彼には、以前の心配は微塵も感じられなかった。ひと安心である。伸び伸びとしているその明るさはどこから来るのか、親元を離れた解放感か、同年配の仲間がいるからだろうか、私の先程までの心配は何だったのか。肩の荷がすーっと下りるのを感じた。
意地の意とは意識のことである。この意識が個人存在の全体を支配し、認識作用の根源であり万事を成立させる場所であるがゆえに地という(仏教語辞典)この意地がしっかりと整えられていれば良い意地となり、逆に良く整えられていなければ悪い意地となってしまうのである。息子の意地は良いも悪いもない状態で働いていたのか、我々が勝手に意地を張っていると悪い方向に取ってしまったのであろうか。
それではどうすれば意地が整えられるか考えてみると、「身口意の三業を清浄に」という言葉がある。業とは何か悪いイメージがありますが、本来の意味は単に行為、行ないである。したがって身業、口業、意業の三つの行ないが清浄であるという。身のふるまい、口の動き、心に意志する考えが清浄であること、というのである。
身のふるまいが清浄というのは、身のこなしがよいことである。息子が年一回帰京する。三泊四日と短期間ではあるが、久しぶりの家族との時間である。朝は庭掃除にホウキをもって体が動いて行く、雑巾掛けも動きがよい。以前の彼でしたら一々口に出して指図をしなければ動かなかったが、身のこなしが良くなったのである。口の働きが清浄というのは、口は災いのもとといわれるように、口の働きをつつしむことである。こうして身のふるまいを良くし、口のはたらきを慎むことによって、意の働き、つまり心の働きも清らかになるのである。
『宗鏡録』に「研ぎ澄まされた智慧の水で、心のちりを洗う」とありますように、身口意の三つの働きを清らかにすることによって、意地の働きも清らかになるのである。息子が今大学で茶道を習っている。勉学に茶道に仏道修行を通おして、意地を整えられるように、日常を大事にしてもらいたいものである。
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