微 塵
     みじん 微細な塵、物質の最小単位とされる極微が七個集まってできたもの
     『禅学大辞典』 『金剛般若経』には「三千大千世界のあらゆる微塵、これ
    を多しとなすや否や」
とでる。

 微塵というと、木端微塵とか、みじん切りにするとか、そんなつもりは微塵もないという場合に使われています。日が差す窓辺で塵が浮かんでいるのを見かけることがあります。あれが微塵だろうか、しかし、肉眼では見えないくらいの細かいもの、という訳からすると、肉眼で見えているので微塵ではないのであろう。もっと細かいものを指すようであります。「非常に微細な物質」(『佛教語大辞典』)と出ているので、現代でいうならさしずめ分子にあたるようであります。更にこれは原子に相当するような極微の集まったものとも言われています。
 最近の科学技術の進歩にともない、より大きな数字を扱う必要が出て来たのであります。キロの上がメガ、ギガ、テラ、ゼタ、そして最近は、ヨタという単位までできています。1ヨタメートルは1のあとにゼロが24も付きます。例えば我々の地球を含む銀河系の直径は0.001ヨタメートル、地球からもっとも遠い星は100ヨタメートルというようであります。逆に小さい単位は、センチから、ミリ、マイクロ、ナノ、ピコまで使用されています。ピコは小数点以下ゼロが12付く数字です。最近環境汚染で話題になるダイオキシンの濃度は0.006ピコグラムと使用されています。大きい単位も必要がでて作られ、それと同様に小さな単位も作らなければならない。大きい単位と小さい単位が平行して考えられることを知るとき、仏典でも論議されている箇所があるので興味深く感じられます。
 『金剛般若経』には「三千大千世界のあらゆる微塵、これを多しとなすや否や」とでています。三千大千世界とは、古代インド人の世界観による全宇宙で、今我々がいる太陽系を含む銀河系を千集めたのを、一つの小千世界とよぶ。この小千世界を千集めたものを、一つの中千世界、中千世界をさらに千集めたものを、一つの大千世界とよぶ。小・中・大の三種の世界から成るのが三千大千世界という。(『佛教語大辞典』) とてつもない広大な世界を考えたのであります。その世界と微塵との関係であります。
 大徳寺派管長・福富雪底老師の提唱本には
 「微塵が集まって世界を構成している訳ですから、その数は莫大なものに違いありません。し かし、世界を見るときは微塵は見えず。微塵を見るときは、世界は見えません。木を見て森を見 ずということと同じで、時と処と位に応じて同じものが或いは微塵と名づけられているので、従っ て大小多寡も便宜的にいうに過ぎない。」 といわれております。
 数学の分野で一と多は同じだといったら数学では成り立たないでしょうが、他の分野では充分通用することもありうるのです。どうも今の人々の頭は数学的に訓練されすぎていて、割り切れないと承知しない習慣が身についているようです。
 先日も甥子が緊急入院したと電話が入り驚きました。小学生の本人は大変元気でベッドの上で跳びはねているとのこと。しかし、肝臓の数値が大変高いと先生はいわれるのです。風邪のウイルスが肝臓に入ったらしいとのこと、肝臓の数値だけで廻りのものはあわててしまったが、数字のこわさを知った。そして、一週間の入院で数値も下がったので無事退院することができた。数字で振り回されるとは現代人の弱さというか、視野が狭かったというか、我々は備えができていなかったと言うことでした。
 最近ハワイに世界最大の反射望遠鏡ができてテレビで生中継しているのを見ました。子供のころから天文は好きで、上野の科学博物館にかよって星空を眺めていたのを思い出した。ハワイにできた望遠鏡・スバルでオリオン星座の大星雲を映し出した。新星が誕生しているようすが映しだされた。新しい宇宙の誕生は、塵が集まってできあがるのであると説明されていた。宇宙全体を見ていたのでは塵は見えません。塵だけを見ていたのでは宇宙全体は見えないのです。案外現代の天文学の説と『金剛般若経』で説いている「三千世界のあらゆる微塵、これを多しとなすや否や」のところとよく似ているではないだろうか。
 東京のド真ん中に住んでいると、いろんな人が訪ねてきますので結構おもしろいことがあります。坐禅会を開いていますので、いわゆる歴参底という、あちらこちらの禅会を渡り歩いている人が参りまして、一席ぶって行きました。随分いろんなことを知っているなーと、こちらも関心させられました。時間になったので一同禅堂に入り坐禅が始まりました。さっき弁舌さわやかだった彼の姿勢がどうもよくない。途中で直してみるが、体は正直です。理屈は立派に話ができても、坐禅ができていない。『正法眼蔵』の法華転法華にでる「微塵をみるとき法界をみざるにあらず、法界を証するに微塵を証せざるにあらず」とあるように理屈ばかりでは坐禅は体得できない、逆に坐禅だけでもだめであります。『金剛般若経』も『正法眼蔵』も現代の若者に欠けているところをうまく突いていると思います。

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