「萌え」考察

〜日本は萌えているか〜


 この数年の間に、日本のオタク文化は急速な成長と変質を遂げた。それを最も端的に表しているのが、「萌え」という言葉である。
 今回は、議論され尽くした感もあるこの、「萌え」の定義について考えて行きたいと思う。

 さて、言うまでも無く「萌え」はオタクの間で生まれ育った言葉であり、そして私はオタクである。オタクである筆者がオタク言葉を考察するからには、それは内部からの視点でなされるべきだと考えた。
 そうでなく、非オタク的な視点に立ってのアプローチ(とはいえ書いているのはやはりオタクだろうと思うのだが)は、多数の辞書サイトで試みられており、概ね成功しているように思われる。例えばWikipediaからの引用はこうだ。

「主にアニメや漫画、ゲームなどの架空の登場人物(美少女キャラクター等)に対する恋愛感情の芽生え、および、フェティシズム的な嗜好、特に何らかの特異性(猫耳、ツンデレ等)に対する愛着や執着などを指す言葉で、元々はオタクの間で使われていたスラング、ジャーゴンの類」 

 上記の説明、「ツンデレって何?」などとさらに深い疑問が湧いてしまうのが玉に瑕だが、これはまあ辞書の運命というか特性のようなものである。それよりも注目すべきは、「フェティシズム」「執着」という単語の使い方だろう。特に前者は「萌え」という感情の一面をかなり鋭く、正確に突いていると思う。そう、「萌え」を語るに際して、「変態的要素」というのは絶対に外せない。

 この何とも表現しがたいフェティシズム的感情というのは、オタク集団の間ではずっと以前から当たり前のものだった。アニメ・ゲーム・漫画に傾倒する者にとって、それは初期装備であり標準装備であり、決して捨てることの出来ない最終装備である。これを捨てるときはオタクをやめるときだ。「萌え」という単語自体は1990年代に現れたらしいが、その言葉の示す内容は既に存在していたということである。

 そもそも「萌え」の語源は何で、どこから発生したのか。これにはいくつか説があって、どれが本当かはっきりした証拠はないようだが、エロゲーもしくはエロ同人、或いはその一歩手前の周辺から生まれたものであることはほぼ間違いない。元々は可愛らしい女の子(や猫娘やメイドロボット)に対して使われる表現だった。
 だが「萌え」はその後オタク内で徐々に普及するにつれ、架空キャラクター全般からドラマや映画、果ては身の周りの実在するものに対してさえ使われるようになって来た。そしていつしか非オタクの目にも触れるようになり、メディアの力も借りて爆発的に知名度を得たのである。
 では、以前はこの感情はどのように呼ばれていたのだろうか。

 私の属するサークルである「はにげぼ」のメンバー、ぴっ太の言によれば、「萌え」とは「ヨコシマな好き」だそうである。短く、かつ真実であり、大変よい説明だと思う。一つ問題があるとするなら、「ヨコシマ」が既にオタク用語であることだ。この「ヨコシマ」は、「萌え」そのものではないが、「萌え」の非オタクに説明しづらい部分の中核を成している。Wikipediaで言うところの「フェティシズム的な執着」、もっと生温い表現の辞書では「恋愛感情に似たもの」などとされている、まあ言わば欲望である。純愛ではない、という意味で「ヨコシマ」という単語を使うわけで、「ヨコシマな妄想」という風に使う。少女マンガにでも端を発したものだろうか、古風でよろしい。
 では、極一般的な「邪」とは何が違うのかというと、それは欲望の方向性だ。オタク心理の特徴の一つに、共有願望というのがある。素敵で可愛いキャラクターに対して抱いたヨコシマなる感情を、誰かと共有したいのである。もしも純愛映画の主人公が、ヒロインを相手にあらぬ妄想を繰り広げたとして、それは邪ではあるかもしれないが、ヨコシマではない。誰かとその妄想を共有したい、という意識が無ければ駄目なのである。

 「ヨコシマ」以上に古風かつ文学的だが広く(オタク内で)使われていた言い方に、「煩悩」というのがある。これも、一般的な煩悩の意味から区別するために「ボンノー」と書いたりしていたものだ。「○○(というキャラクター)にボンノーする」というように、動詞形で使われることが多かった気がする。
 語源は言うまでも無く仏教の、108個もあるという人生の様々な迷いを指す言葉である(これ以上のことはよく知らないので聞かないでください、あしからず)。このいかにも悪しき物、悟りを妨げる物、しかし追い払うのがとても困難な物、という感じが、実際の感情にピッタリすぎて、誰が考えたのか知らないが素晴らしい流用の仕方である。「悩」という字面もいい。「萌え」はまさに悩みである。

「うおー愛しい!! なでたり小突き回したりそれ以上に色々アレコレしたいィィ!」
「いやちょっと待て、こんな妄想して自分は変態じゃなかろうか」
「いやいや、そもそも相手は二次元だぞ、それでいいのか」
「でも可愛いィィィィ!!!!!」

 …こんなもどかしい思いの全て詰め込んだ言葉、それが「煩悩」だ。ちなみに、女性オタクでよく見られるカップリング萌えの場合は、「したい」の代わりに「(○○さんが××ちゃんに)してほしい」辺りを当て嵌めると良いだろう。
 このもどかしい、のた打ち回るような感情を動力源として、オタクは(二次)創作活動にいそしむのである。「萌え」を定義した各辞書には、もどかしさについて述べた文章が見られないが、この板ばさみの狂おしい感じは「萌え」の非常に重要な部分であると思われる。すっきり割り切れる「好き」は「萌え」ではない。

 もう一つ、「愛」というのもある。これは流石に「アイ」と書くことは少なかったようだ(皆無ではないと思う)。
 この言葉も前二者と同様、一般的な意味からは外れてある感情に特化したオタク用語である。使用法は基本的に「ヨコシマ」「ボンノー」と大差ないが、やはり元々の言葉の持つ印象なのか、「愛」と言った方がより包括的な概念であるように感じる。悩み、欲するだけでなく、そうすることによって得られる癒しの部分まで含むという点で、「萌え」にかなり近い単語かもしれない。

 以上を合わせて考えると、「萌え」とは欲望、悩み、癒し等のいくつもの感情が複雑に入り混じったものだと言えるだろう。
 しかし、新しい単語はやはり新しい概念を作る。以前からあった感情でも、新しい言葉で呼ばれれば、別な切り口が見えるようになる。このオタク的な感情に「萌え」という口当たりのいい名をつけて売り出すことによって、それ以前のオタク感情と「萌え」の間には一つ、決定的な差ができつつある。それは、「オタクである」という羞恥心である。共犯者心理と言ってもいい。

 「ヨコシマ」「ボンノー」「愛」はどれも、決して世間に公言できる種類の感情ではなかった。宮崎勤事件からこちら、オタクは長年周囲の冷たい視線から隠れて生きるものだった。恐らくはあの事件が無くとも、オタク(それ以前にそういう言葉は無かったので、オタク的な人)というのはそれだけで恥ずべきものと思われておかしくない、寧ろ自分でもそう思っているものだったに違いない。だからこそ上記の3例はどれも、普通に使える言葉を借りてきて当て嵌めてあるのである。オタク同士にはそれこそ共犯者めいた、後ろめたくも心地よい繋がりのようなものがあり、そこに身を浸すのがオタクであることの快感とさえ言えた。
 だが、今やオタクは一つの産業だ。オタクのオタクによるオタクのための商品が、これでもかとばかり市場に出回っている。本屋に行けばボーイズラブ小説が普通の本を押しのけて平積みになり、ネットを見れば『萌え萌えジャパン』とかいう本の広告がドーンと掲載されている時代である。「萌え」を口にすることにためらいなど誰も覚えていない。

 以上を踏まえて、このように結論付けよう。
 「萌えー!」とは、「○○っていうキャラ(または属性)が大好きで大好きで、そりゃもうあれこれ妄想しちゃうんだけど、それを言ったら変態扱いされるから代わりにこう叫ぶ!」という心の悶えから、「オタクであるとバレてはいけないから、こんな感情を叫んではいけない」という屈折感を取り除いたものである。
 私自身は非オタクが「萌え」を口にするのが未だに耐えられないオールドタイプであるが、昨今の「萌え」事情を見るにつけ、このような答えが正しいのではないかと思うようになった。

 海外で日本の心を語るのに、「ワビ」「サビ」と並んで「モエ」が取り上げられる時代である。最早オタクとは人目を忍ぶ者ではないのかもしれない。私のような(自称)隠れオタクは差し詰め、終戦を知らなかった南の島の日本兵であろうか。


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