反魂歌 3 よしみさま 1000hit Request 「こら、足下が危ういぞ。掴まれ」 「結構ですよ。さあ、博雅様は疾くお屋敷にお戻りなされませ」 すい、と戸口を指さす仕草に彼は顔を顰めてみせる。慇懃な態度が気にくわないこともあるが、好意を無碍にする男がもどかしくもあるのだろう。 「かような刻限に身分あるお方の一人歩きは今後慎まれるがよろしいでしょう」 「大きな世話だ」 「はは、確かに」 博雅が動かないので、彼は自ら足を進め先にその屋の外に出た。博雅とて鬼のいたような場所にいつまでもいたい訳ではないから後を追って小走りに抜け出ると、にやりと笑った男の顔を睨み付けそれからゆっくり社へと振り返る。 「これは――――」 彼が足を踏み入れたとき社もかなり傷みの激しいものだったのに、いまはすべてが朽ち果て、雨に濡れた戸板は不気味に苔むし崩れている。 いつの間にやら雨は上がり、そして陰陽師の手には松明が携えられている。火の勢いは緩く、ぼんやり明かりを放っているがその中に見る光景はさらに恐ろしげに揺れていて、博雅は思わず彼の傷付いていない方の肩に身を寄せてしまった。 「鬼に…化かされていたのか」 「あなたを化かそうとした訳ではありません。そう…博雅様にはもとよりこういった力がおありだったのでしょうね。偶然、私の仕事の最中にこれを"見て"しまわれる程度には」 「なんだ、それはどういうことだ」 「滅多なことではこの晴明、このような場を見せることはございません。それが殿上人であるあなた様に、いとも容易く見破られるとは…」 ばかにした物言いではあるが気分を害している様子はない。彼という人間は根本からひねくれているのだろう、それは博雅にも察せられた。 「さあ、お戻りなされませ。今宵のことは今宵限り、お忘れになられるのがよいでしょう」 「忘れろと」 「はい」 「あのような恐ろしげなものを見て、いまもこうして傷付いたそなたを見ておるというのに、それを忘れよと言うのか」 「人には住まうべき世界というものがございます。博雅様がお暮らしになるのは日の光の中、私の住まう闇とは異なるもの」 「やみ?安部殿は都に暮らしているのではないのか」 きょろりと目をむいた博雅に彼は束の間答えることができなかった。 「どこに暮らそうが構わぬが、このように傷付いたものを一人帰すほど虚けではないよ。俺が送って行こう」 「…恐れ多きこと」 「遠慮するな。大体、先ほどは俺のことを頭ごなしに怒鳴りつけたではないか。今更よい言葉など使ってみせても遅いぞ」 ふわりと笑う博雅に、言葉に詰まる彼は居心地悪そうに俯いた。どのような顔でなにを言って返せばよいのか、正直彼には分からなかったのだ。 常に恐れられ、忌み嫌われる存在であった己を衒い(てらい)もなく受け入れることの出来るものがいることなど俄には信じがたい。博雅の天真爛漫なその人柄は耳にしていたものだが、それでも身分違いの陰陽師に対してまでそのような優しげな顔で微笑むとは思わなかったのだ。 「お前…俺が怖くはないのか」 「怖いぞ」 言いながら、言葉とは裏腹に彼の手を取るとしっかり指を絡め引いてくる。 「痛まぬか?では参ろう。…と言っても、どちらに向かえばよいのか」 はて"やみ"などという辻などあったであろうか。首を傾げる様はまるで子供で、呆れる心の中に確かに灯った温みを自覚せずにはいられなくなる。 「おかしな漢だ」 「うん?俺のことを言っておるのか」 「ああ、お前のことだ」 「俺はおかしいか」 「おかしいさ。だがよい漢でもあるな」 「…バカにしているのか」 「いや、褒めたのさ」 「褒められた気などせぬぞ」 「だが褒めたのだ。おい、俺の屋敷は一条堀川だ。送るなら早くしてくれ」 「ああすまん、痛むか」 「少しな」 松明を受け取ると、博雅は彼の手を握ったまま歩き始めた。途中幾度も振り返り"痛まぬか"と尋ねてくるので、そのたび首を横に振り大事ない旨を伝えてやる。子供のように純真な目が覗き込んでくることには些かの抵抗があったが、それでもこの暖かな心は幻ではないし勿論不快でもない。 「月が出てきたな」 博雅の見上げる先には黄色く細い下弦の月が見えている。雲の裂け目から控えめに覗く、まるでその姿を自ら晒そうとするようなそれに目を細め、彼は小さく笑った。 隠れることばかりうまくなったが、夜の中にいてもこうして光は感じられるものなのだ。博雅を日の光の住人と喩えたことも、こうなると関わりのないことではないのかもしれない。 「なにがおかしい」 「おかしなことなどないさ。おい、お前、酒は飲めるか」 「笛に次いで好きだ。…いや、時には笛よりも好きだな」 「そうか。よい酒があるのだ、ちと付き合わぬか」 「そのような話であればいつでも、…いや、だめだ。ならぬぞ」 「なんだ、やはり博雅様はお屋敷にお戻りになり、早おねむの刻限であられるか」 「違う。こら、いちいち俺の揚げ足を取ったりばかにした物言いをするな。不愉快だぞ」 「はは、それはすまん。しかしなぜだ、狐の子と酒を飲むのはやはり恐ろしいか」 「…まこと、狐の子であるのか?」 上目遣いで振り向いた彼は、けれどその手を離すことはない。きゅ、と握られた指がますます子供染みていて笑いがこみ上げる。 幸せな心持ちとは、こういうことを言うのかもしれない。 「狐であれば、ふっさりとした尾など見せてやれるのだがな」 「見せずともよい。なんだ、まこと主が狐であるのかと肝を冷やしたではないか。人をからかいおって、だから陰陽師などというのは信用ならぬのだ」 「ほほう、陰陽師は信用なりませぬか」 「ああ、ならぬ」 ふい、と顔を戻し、それでも繋いだ指を強く引き歩いていく。彼には疑いや恨みなどと言う負の感情がないのかもしれない。類い希なる楽を奏でる、源博雅という、この漢は。 「なぜ酒をくろうてはならぬのだ」 「傷を負っているからだ」 「大事ない」 「だめだ」 「どうしてもか」 「どうしてもだ」 「ケチ」 「けち?けちとはなんだ、けちとはっ」 「ケチだからケチと申した。博雅はケチだ」 「貴様、ようよう考えてみれば俺のことを呼びつけにしたり偉そうな物言いをして、無礼なやつだ」 「はは、無礼か。よう言われる」 「そうだろう。お前は…晴明は無礼だ」 口を曲げ不満を表す。けれど"晴明"が肩の痛みを誇張するように顔を顰めてみせると途端に案ずる仕草で身を寄せてくる。 「痛むか?人を呼ぼうか」 「いや、大事ない」 まるで子供の、心根のそのままに怒ったり、笑ったり拗ねたりと表情を変える彼がとてもくすぐったく感じられ嬉しささえこみ上げてくる。 傍らには誰も求めたことのない晴明が初めて、生まれて初めて肩を並べるぬくもりを知りそれを心地よいと感じた。正直なその思いに自身で驚くけれど、いまこのときは確かに穏やかで満ち足りた気持ちを彼の胸に広げている。 「今宵、飲んではならぬと言うなら明日はどうだ」 「明日か。まあ明日になればよいだろうか」 「では明日、この俺と酒を飲もう」 「それは構わぬが、どこで飲む」 「うちへ来い。四位の博雅様のお屋敷など、恐れ多くて踏み入れぬ故」 「いちいち腹立たしい物言いをするやつだ」 「怒ったか」 「怒らぬ」 「そうか。では来るか」 「むむ」 「来いよ」 「行こうか」 「来い」 「…ゆく」 紅潮した頬が、頷く。 夜の中を、二人の男が歩いていく。 月の光を受け、それは鬼神の行進にも神仙の道行きにも見えたであろう。彼らを包む柔らかな光は靄のように、霞のようにゆったり流れていくようだった。 手を繋ぎ進むその影は長い時を経て馴染んだかのようで、良しと見るものも、悪しと見るものもその一対が悠久をともに過ごしたもののように感じられたであろうことは確かであった。 晴明と。 博雅と。 これから始まる二人の物語はいまこのときに産声を上げた。互いのことなど何も知らぬ彼らに、これから起こる沢山のことをまだまだ知る由はなかったけれど。 交わり、一つになったその道の先は明るく、どこまでも続いていくことになる。 幾千の夜を越えた、それは遠い昔の、物語。 ************************************************************* よしみさんのリクエストは「二人の出会い」ということでした。 イメージ的には原作の二人に近い辺りを目指しました。付き合いが 微妙な感情を重ね合う二人って、とても色っぽくて好きなのです。 なんだか長くなってしまったこの物語を、よしみさんに捧げたいと思います。 |
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