春明譚 1 克明親王第一皇子 稀代の陰陽師に名を与うるのこと 階の陰に隠れて、童子は腕に負った傷の具合を確かめた。 丹精な顔をした子供であった。 年の頃は十を少し過ぎたくらいか、顎の辺りにはまだ幼さが残っている。けれど。 切れ長の目。紅を差したかのような赤い唇。意志の強そうな細い眉。 それらを留める顔色は雪のような白さを帯び、およそ人の子が持つ愛らしさというものからはかけ離れた容貌を備えていた。 冴えた冷たさがある。 身を包む空気に清しい香りがある。 この子供を前にすれば、どれほど強く心を鍛えた武士といえど思わず怯む凍えたなにかを抱えている。 童子は、年相応の子供どころか人として見られることも稀有な妖しのものとして扱われていた。 暗がりで確かめた傷は深くはない。ただ、投げつけられた石の表面が刺だらけだったことでひどい出血を伴い彼の気持ちを落ち込ませた。 これでは師匠に気付かれてしまう。師匠に気付かれるということは、彼を招いた者の耳にも入るやも知れぬ。それだけは避けたいが彼には傷を負おう布切れさえ持ち合わせはなかった。 仕方ない、単でも裂いてこの場をしのごうか。 そう思ったところで彼はただならぬ視線が背中に浴びせられていることに気付いた。 常の彼ならば有り得ない失態だった。 童子は人の目から身を隠すようにして生きてきた。彼の余人を寄せ付けぬ雰囲気は身を守るためのものであり、特にこのようなところを見せれば相手が増長することは嫌というほど分かりきったことであった。 だから童子は身を固くし、背後の視線から逃れる算段を素早く立て始めた。 「なにをしておるのだ」 舌足らずな声だった。 感じる視線は確かに鋭いものではなかった。童子を見る大人たちのそれと違うことは気付いていたが、相手が子供だからと言って彼が気を許すことはない。振り返るべきか、暫く逡巡していると再度幼子の声が彼を呼んだ。 「そこでなにをしておるのだ?ねずみでもおったか」 彼より随分小さな子供の気配だった。 しゃがみ込み、童子が振り向くのを待っている。握り締めた両の拳が膝の辺りを軽く叩いている。まるで猫が獲物を見つけたような仕草ではないか。童子は大きな溜息を、しかしそれとは気付かせぬよう吐き出すと意を決したように振り向いた。 子供は、一目で分かる高貴な身分を示すような衣を身に付けていた。 ふくよかな顔に大きな目をもっている。子供ながら高い鼻筋と柔らかな頬のふくらみが、都のものからすればいささか敬遠されるような造作であったが、童子は内面を写すようにはっきりとした顔立ちの方が好ましく思うので、彼の顔にも嫌悪は微塵も感じなかった。 血色のいい顔色をしている。 振り向いた童子に益々興味をそそられたのか、しゃがんだまま彼に向けにじり寄ってくる。 引こうにも後がないため、仕方なく子供を見据える目を冷たく冴えたものに切り替えた。 「なにをしておるのだ?お主はどこの童だ」 「私は賀茂忠行様にお仕えするものにございます」 「かも?はて、それはどなたであろうか」 大人びた口調で首を傾げるが、自らの言葉の意味も判じているのか妖しい口ぶりであった。子供は、五つになるかならずかといったところだ。 「本日、藤原忠平様のお召しにより参上されておられます賀茂忠行は、陰陽寮にて務めます陰陽師でございます。私はその供を勤めておりまする」 「そうか、大臣 (おとど)さまの客人か」 納得したのか、嬉しそうに幾度か頷く。頷きはしたが興味は失せるどころか更に募っていくらしい。にじり寄る子供に後のない童子はさすがに途方に暮れ始める。大抵の大人は童子の冷たい目に晒されればいやな顔をして遠ざかったし、子供であれば泣きべそをかいて逃げ出すのが常だった。 このように親しげな…まるで無防備な仕草で近付いてこられても、童子には成す術がないばかりか恐怖心まで沸いてくる。 「その賀茂どのの従者が、なぜにかようなところにおるのか」 ねずみか? 子供の関心は童子の向こうに広がる暗闇に向いているらしい。床下には冷やりと湿った空気が澱のように溜まっていて、清潔に磨き上げられた屋敷深くに暮らす子供であれば嫌うことの方が当然だと思っていたがどうやらこの子供は違うようだ。 「あなた様はねずみがお好きですか」 「好きではない。ちゅーちゅーと鳴くであろう、あれを聞くとおたあさまもお泣きあそばすのだ。だから好きではないぞ」 おたあさま。 不躾ながら子供の顔をしげしげと見直す。 「なんだ。博将の顔になにかついておるか」 ひろまさ。 再度心の中で呟いてから、童子は自らの不運を呪った。とんでもないことになった。 「私は師の元へ戻りまするゆえ、博将様におかれましても御(おん)速やかにお戻りあそばされませ」 「賀茂どののところへ参るのか。では博将もゆこう」 「師は右大臣様と大切なお話をしておられまする。私は牛車の元にて控えておりますれば、博将様は疾く、女房殿のもとなどお戻りになられまして」 「つまらぬ」 「は」 「つまらぬ。博将は大臣さまの元へ参ったに、客人のお相手をなされて構うてくださらぬのだ。お主がその客人の供であるならお主が博将の相手をせよ」 「恐れ多いことを」 平伏す。 内心の動揺を顔には出すまいとするが、それでも彼は腕の痛みを抱えた上での突然の事態に柄にもなく緊張し、軽い恐慌状態にも陥っていた。 無理もない。 いま彼の前にしゃがみ込み無垢な瞳で語りかけてくる子供は今上醍醐天皇の第一皇子、克明親王の第一皇子である博将であった。母親は藤原時平の末娘であり、右大臣にとっては姪御に当たる。身分が更衣と低くまた祖父である時平が薨られてからは確とした後ろ盾もなく、こうして大叔父であり右大臣でもある忠平の元に度々身を寄せていると聞いていた。 今日、師匠に道すがら聞かされた身の上は決してめでたいものではなかったが、それでも我が身からすれば端かに寄ることさえ許されぬ高貴すぎる子供であった。 「それはなんぞ?」 「は、」 逃げ延びる先に博将がいては動くに動けぬ。童子は平伏したまま状況打破の糸口を考えていたため、声とともに膝頭まで迫っていた博将に気付くのが遅れた。 小さな手が童子の腕を掴む。 「怪我をしておるのか」 「お放しくださいませ」 「血であろう。転んだのか?」 「お放しくださりませ、博将様」 「ならぬ。これ、誰ぞおらぬか。賀茂どのの従者が怪我をしておるぞ。これ、小萩」 「おやめくださりませ、博将様、お放しくださりませ」 必死に逃げようとする童子の思いも虚しく、頭上の縁をさやさやとした衣擦れの音が近付いてくる。痛みも恐慌も極限に達し、常に冷静を絵に描いたようだと評される童子の額に冷たい汗が流れ落ちた。 「博将様、お探し申し上げました。殿が参られますまでお部屋にてお待ちくださりますよう、あれほどお願い申し上げましたのに」 「蝶が飛んでおった。博将は蝶を見たことがなかったのだ。許せ」 「御身がご無事であられれば。さ、こちらへ」 「うむ。小萩、賀茂殿の従者が怪我をしておられる。手当を頼むぞ」 「賀茂殿の?」 拒む童子の抵抗に構わず、博将は掴んだ腕を無理やりに引き上げる。この子供相手に無体は許されぬと嫌というほど知らされている童子は諦めたように立ち上がった。 「あれっ」 小萩と呼ばれる女房は、童子の顔を見るなりさっと袂で顔を覆うと悲鳴を上げた。 「たれぞ、たれぞおらぬかっ、博将様を、親王様をお連れ申せ!」 「いかがなさいまして、あれっ」 奥から出てきた女房たちは、小萩と同じように袂で顔を覆いその場に蹲った。 「みな、なにを騒いでおるのだ」 一人置き去りにされたように唇を尖らせた博将は、掴んだままの童子の腕を放すことなく階の上に上がろうとした。 「なりませぬ、なりませぬ博将様」 「あな恐ろしや、親王様、こちらへ、生駒の元へお戻りくださりませ」 「戻るぞ、だが従者殿の手当をしてくれ。血が出ておるのだ」 「なりませぬ、ああ博将様、どうぞこちらへ参られて」 震える女房に首を傾げ、自分より長身の童子を振り返る。彼は先ほどまでの混乱を既に超えているのか、初めに博将に見せた冷たい顔で女たちを見据えている。 「なにを恐れておるのだ?小萩、申してみよ」 「博将様、それは狐にございます」 「きつね?けーんけーんと鳴くという、あの狐か」 「はい」 ひいい、と震え上がる女房と、自分が腕を掴んだままの子供の顔を交互に見る。 「お主は狐か?」 「…そのように言うお方もおりますれば、そうなのかも知れませぬ」 「人のことはよい。お主は自らを狐と言うのか」 「いいえ」 「では狐などではあるまい。博将はまだまことの狐を見たことはないが、おもうさまのお言葉によればそれは見事な尾っぽをもっておるそうな。だがお主にかような尾っぽは見えぬ。尾っぽがなければ狐ではないぞ」 「博将様がそのように仰せであれば」 恭しく頭を下げる。隙を突いて逃げ出したいが、奥から聞こえる衣擦れの音が益々増えていくことに半ば諦め腹を括った。 牛車の側で待つといった童子を、師匠はなぜか屋敷の母屋まで伴った。そこで待つように言われたが彼はすぐ屋敷の者たちに見つかり石を投げつけられたのだ。 ここに来るのは初めてではない。もう四度目ほどになるがそのたびこの屋のものからは迫害を受けていた。 安倍益材の子供として生を受けた童子は、幼い頃より人とは違う力を持つためか"狐の子"として忌み嫌われていたのだ。彼の行くところ全てにその噂は広まり、迫害を受けることにより頑なになる童子がその噂を否定せぬどころか自ら煽るように悪しき様を見せたことで、今ではその噂は真実として伝えられている。 勿論、彼のことなど知らぬ家人たちに冗談混じりに聞かせたのはこの屋の主、右大臣忠平であり彼に悪意はなかったのだ。常に大らかで人のよい男は、利発な童子をいたく気に入り忠行を召す場合は必ず彼を伴うようにと命じていたくらいなのだ。 『童子よ、お主の悪食は誠のことか』 そう尋ねられた時、彼はふいと落とした視線の先に丁度みみずを捉えそれを指先で摘み上げた。難なく口に入れ、咀嚼する。 『狐の子であれば、このようなものを食し生き長らえておりまする』 童子の返答に忠平は膝を打って喜び、それから口の中のものを吐き出すように命じた。 噂に聞く右大臣の人柄に触れ、童子は彼の前では自らを鎧う必要のないことを悟った。生まれて初めて彼を認めてくれた師匠と同じように、信じるに価する人物だと見定めた。 しかし大抵の人間が自らと異なるものを相容れぬように、家人どもはその話を間に受け童子を恐れるようになった。気味が悪いと避けるだけならばよいが、彼がいると物陰から石を投げたり突き飛ばしたり、およそ人とは思えぬ扱いをされてきたのだ。 その自分が、天皇の孫である博将に近付いたとなれば許されるはずもない。 つくづく運のない我が身を嘆いたところでもう後の祭りだが、それでも誰ともなく悪態をつきたくなる心のまま童子はそこに立ち尽くしていた。 「これ、そのように取り乱してなにごとか」 「大臣さまっ」 勢いよく駆け出した博将が右大臣の足元に飛びつく。 小さな体が全身で喜びを表すさまを、童子は羨ましく、このような事態であっても微笑ましく眺めていた。
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