春明譚 1 克明親王第一皇子 稀代の陰陽師に名を与うるのこと 2 「博将、また小萩の言いつけを破ったのか」 「蝶がおりました。蝶が博将に、こちらへ参らせと申したのです」 足元でじゃれる狗のような子供を抱き上げる。 顔をくしゃくしゃにして博将に頬を寄せると、博将もさも嬉しげにしがみつく。兄の孫とはいえ、肉親であっても政敵としていがみ合う世にあってその光景は奇異にすら映る。生まれにより全てを定められることが嫌というほど身に染みている童子にとっては、先ほどまでの心地を越えなんとも座りの悪い光景にしか見えなかった。 「この屋敷におるうちはよいが、博将はすこうしばかり用心が足りぬぞ」 「なぜですか?」 「それは博将の生まれが定めたこと。大臣の言を違えてはならぬ」 やんわりとした口調であっても、彼には叱られたことが理解できたらしい。急にしゅんと項垂れると、忠平の襟首に顔を埋めて"はい"と小さく呟いた。 「して、お前たちはなにを騒ぎ立てておる」 「殿、そこな小物の穢れた身にて、親王様の端かにあるはこの小萩の至らぬ所為にてござりまする」 数人の女房は小萩が泣き崩れるのを見ると次々に平伏しすすり泣き始める。童子はそれを視界の端に捉えながら、ゆっくりとした足取りで階を降りた。 「おお、お前の弟子が穢れた身と蔑まれておる。弁明せぬか、忠行」 「は、しかして我が不肖の弟子のしでかしたは確かに不始末。いかようにもお叱りを受けますれば」 忠平の後ろに控えていた賀茂忠行は、童子のことを視線で諌めつつ階を降り、隣へ並ぶと彼を即し平伏せた。 「ほれ博将、お前の軽率さが忠行を困らせておるぞ」 「なぜにございますか?博将はなにかいけないことをしたのですか」 「分からぬか。まこと博将は世の理を解さぬな。そのようなことでは立派な…」 言葉を切る。 そこに伏せられた意味を童子は正しく理解した。 親王の皇子であればいずれは立太子となりうる。そして天皇の御位に昇ることも夢ではない話なのだ。 博将が、親王として揺るぎない位置に存在していれば。 父である克明の母は更衣であり、博将自身の母親もまた更衣だ。祖父である時平が存命ならばまた望みもあっただろうが今となってはそれも潰えた。 早々に親王の座を辞し、臣下に下る方が彼のためにはいいのだろう。 童子にとっては所詮雲の上の話だが、それでも身分というものが全てを左右するということを知り尽くしているからこそ、この幼子の行く末を思えば周囲の者の憂いも分かる。 没落貴族の末路は、それは寂しく惨めなものであったから。 「まあよい。して博将、童子とは何を話しておった」 「はい。ねずみがおったかどうかを尋ねておりました」 「ねずみ?」 きゃあ、とまた女房たちの口から悲鳴が漏れる。 この頃になると粗方の落ち着きを取り戻していた童子は、人に向かい石を投げつける女たちがねずみ如きを恐れるならいっそ大量に導いてけしかけてやろうかと算段していた。実際にするかどうかはともかく、彼にはそれを実行させられるだけの力がある。 鬼を見た。 人の目に映らぬ妖しのものを見た。 常人にはない不思議な力を持っていた。 それは全て童子を守るものではなく、この世で生き続けるためには辛く苦しいばかりの試練でしかなかった。 持て余した父親に打ち捨てられるようにして潜った師匠の屋敷の門を、今も童子は鮮明に覚えている。二度とここから出ることは叶わないと、またここで生きる術を見出さねば自らに残された道はないと、たかが十にもならぬ子供が固く心に誓ったことなど誰も思いも寄らぬことであった。 童子は、我が身の特異さを身に染みて知っていたので、周囲はいつも穏やかで目立つところのないよう気を配っていた。そんな折にこの騒ぎだ、ありがたいはずもない。 どうにかしてここから逃げ出す手はないものかと思案しているうち、抱き上げられた博将の足元に黒い影が蟠っているのを見つけた。 「お師匠様」 「黙っていなさい」 「ですが、親王様のお足元になにやら不吉な陰がございます」 「なんと。…おお、確かに」 黒い影はゆらゆらと揺れて、博将のかわいらしい足の甲辺りを包み込もうとしている。瑞兆ではない。明らかに不穏な気配を含んでいる。 「恐れながら右大臣様、博将親王様のお足元によからぬ気配を見受けまする」 「なにっ」 「この童子がお側に参りましたのもその所為やもしれませぬ」 「そうか。噂通りの童子であったな。よし、博将の身に大事があってはならぬ、即刻祓いをせよ」 「は、畏まりまして」 深く頭を下げる師匠の詭弁に童子は低く唸った。別に、彼は博将の身に対し悪しきものなど感じはしなかった。今初めて気付いたのだ。もしそこに作為が働くとすれば近付いてきたのは博将の方であったから、彼が自ら童子を求めたといえるだろう。 童子は、人の身に迫る危機を感じることもあった。 師匠を乗せた牛車が百鬼夜行に行き会った際、早くに知らせ無事を守ったのはあまりに知られた話となっていた。 師匠や家人が忙しく立ち働く間、童子は怪我の手当を施され今は屋敷に上げられていた。 女房たちは口々に彼を謗ったが傍らにいる博将に遠慮してか声は小さなものだった。 なぜ。 童子は口の中で呟く。 なぜ自分がここにいるのか。 「なにが始まるのだ?」 「祓いでございます。博将様の御身に穢れなきようにと、私の師が祓いを執り行うのでございます」 「博将は鬼に憑かれたのか?」 「いえ、そういうわけではございませぬ。ただよからぬ気配を感じまするゆえ、大事を取りそのようにするのだとお思い下さりませ」 「そうか。お主が致すのか?」 「…師匠が」 そう言っただろう。子供相手にむきになることもないが、どうも博将といると調子が狂う。大体彼に見つからなければ、女房などを呼ばれなければこのような騒ぎにはならなかったのだ。石をぶつけられることなど珍しいことではない、師匠とて気付いているし隠しておきたい童子の心も察している。だからそれを見咎められることもなく、いつも通りに過ぎていくはずだったのだ。 生きる場所が違いすぎる。交わるはずのないそれに関わらねばならぬのは彼が目指す道の先に確かに見えているものだが、それでも彼の目を見ていると心の中がざわつくのを静める術さえないことに気付かされる。 苦手だ。 上座に座した博将を盗み見ると、彼は興味津々といった目で庭に設えられていく祓いの準備を見詰めていた。零れんばかりの眼(まなこ)が更に童子を苛立たせる。 純粋に曇りのない瞳は嫌いだ。全てを映し出そうとする図々しさを感じる。 「そうだ、お主、名はなんと申す?」 「名、でございますか」 「博将は博将と申す。おもうさまのご幼名より一字頂いたのだ。良い名であろう」 自分で言うか? 腹の中で呟いてから、童子は慇懃に頭を下げた。 「安倍童子と」 「童子では分からぬ。名を申せ」 「ですから、私は生まれ出でてこの方、童子と呼ばれておりまするゆえ」 「名がないのか」 貴族の嫡子のように、生まれたときから名を定められたりはしない。いずれよき名を与えようと忠行に言われているが、童子としてはそれに執着することなどなかった。 名を持てば身を固められる。 名の持つ力に縛られる。 その思いはまだ漠然としたものだが、個々に名付けられることの本質とその音を与えられることの意味は必ず結びつくはずだと童子は考えている。 名には力がある。そんな気がしてならないのだ。 「では博将はお主をなんと呼べばよいのか」 如何様にも。 その言葉も飲み込んでおく。交わらぬ階級に暮らす彼とこの先があるはずもないのだ。 童子の答えを待つように大きな目が振り向いたところで忠平が戻ってくる。彼は博将を抱き上げ庭へと出て行った。童子も後に続く。 祓えの支度が整った。 三方を几帳で囲った中央に椅子をおき、その向かいには陰陽の術で使うにはお粗末過ぎる道具が並べられている。急ごしらえではこの程度が精々だろうが、もし憑いているものが性質の悪い鬼などであれば祓い切ることなど到底無理であろう。 童子は、なにやら胸騒ぎを感じ師匠を見た。彼は全く気付かぬように、椅子に博将を座らせるよう指示している。 師匠の隣に座し、祓えの儀式を見守る。 童子には師匠の知り得る陰陽の道を余すところなく教えられていた。だから彼には、それが"おかしい"ということはすぐに分かった。 分かったところでそれを口に出すことは許されていない。仕方なくそのまま儀式を見守っていたがその間始終博将の退屈そうな助けを求める視線に晒されることとなった。 老若男女を問わず童子の目を見るものはみな嫌な顔をする。それほど鋭く人の内面を見抜くような怜悧な目をした子供だったが、博将は怯むどころか懐いてさえいるようだ。 それがなんとも童子を落ち着かなくさせている。 大仰なお辞儀とともに祓いは終了した。 それが祓いであるならば、だが。 「お師匠様」 「なんだ」 「今の祓いはどういった意味があるのでしょうか」 「意味?祓いにある意味といえば、疫鬼悪霊に対する清めであろうよ」 「しかし、」 言い差したところに忠平が現れ、童子はさっと身を引くとその場に平伏した。 「これで博将の身も安泰だ」 「それはようございました」 二人はにこやかに話している。 持ち出した几帳などを片付ける様を縁に座した博将が見ている。隣にはあの小萩という女房がいて、こちらは童子を睨み付けていた。 童子は混乱する頭で早く事の真相を師匠に問わねばと考えていた。 |