春明譚 1

 克明親王第一皇子 稀代の陰陽師に名を与うるのこと 3

 

 

 

 

片付けが終わると、童子は母屋に通され分不相応な礼を受けた。

確かに親王の身についた穢れを察知したことは誉められることに価するだろう。けれどそれが偽りであれば彼のしたことは全く無意味になるどころか、嘘をついたことにもなる。

 

童子が見つけた黒い影は、多分師匠が生み出したものだ。害はない。あの時も影に邪悪さを感じなかったのはその所為に違いないと、微塵も動かぬ表情の下で考えた。用意された膳に手を付ける気にもなれなかったが、拒むこともまた許されないので殆ど味のわからないそれをただ黙々と口に運ぶ。

ではなぜ師はそのようなことをしたのか。

褒美が欲しかったのか。いや、それは有り得ない。忠行という人間は陰陽師として優れた力を持ち、常に妖しのものに悩まされる人々を救うため努力を惜しまぬ人だった。だから今度のことにも何かやんごとない訳があるはずだ。

その訳を童子に話さぬのはなぜなのか。

なぜ、という言葉が童子は嫌いだった。人に問うのではなく自らが答えを出したい。掴みたい。だからこのような状態は一刻も早く抜け出したいのだ。

忠平の隣で同じように膳を抱えた博将は、栗の甘づら煮を箸で突付き回し叱られている。子供はみな甘いものが好きだろうと思っていたが、彼はそうでもないらしい。あんな高価なものをぐちゃぐちゃとかき回してしまえる贅沢さは鼻につくが、嬉しげに食べられるよりは幾分ましかもしれない。

大ぶりの栗を口の中に入れると、童子はその甘味に少し舌を焼かれ眉を寄せた。

 「しかし安倍の童子は見事な力を持っているな」

 「その力をいずれは都のために使役させようと、日夜修行を積ませておりまする」

 「頼もしい。童子が立派な陰陽師となりえた暁には、是可否でもこの藤原家の繁栄を祈ってもらわねばな」

「勿体無いお言葉でございます」

師匠が頭を下げるので、童子も適当に頭を下げた。

何かが走り寄ってくる。

 「それは好きか」

 「は、…はあ、初めて口にいたしましたので、好きかと問われましても…」

栗のことを言っているのだろう。拾った栗を薪の中で焼いたものならよく食べるが、こんな手の込んだものなど初めてだ。存在を知っていただけでもすごいとさえ思う。

 「博将はあまり好きではないぞ。甘くて、べたべたしている」

 「これ博将、童子が困っておる。戻りなさい」

 「大臣さま、博将は童子の側におります」

 「ほう、なぜだ」

狗だ。

先日、東市で見かけた狗によく似ている。くりくりとした目玉の子犬は童子の足元でじゃれて実に愛らしかった。あれに似ている。

博将は、なにを思ったかしっかりと童子の着ているものの袂を掴み、右大臣を振り返った。

きらきらと輝く瞳には好奇心が溢れ返っている。

 「これは博将の大事を教えてくれました。おもうさまもおたあさまも、いつも博将に仰られます。無事でいてくれと仰せになられます。ですから博将はこれの側におりまする」

 「童子を端かに、か」

 「はい」

無分別は悲しい。

口の中で呟きながら、童子は師匠を盗み見た。同じように呆れているはず。

と、思ったのに。

笑っている。忠平と同じように、彼の師匠は笑っている。楽しげなあれは何か策を成し遂げた時のそれだ。

 「しかし博将、童子はまだ名もなく身分も低い。親王である博将とともにおることなど出来ぬぞ」

「ですが博将は童子を伴いたいのです」

「我が侭を申すな」

「では大臣さまがお命じくださいませ。童子に名を与え博将の側に置くと仰ってくださいませ。おもうさまも、それならばお許しになられるでしょう?」

「困ったな忠行。親王の申し入れをそうそう断るわけにもいかぬぞ」

謀られた。

童子はその瞬間理解した。なにがどうなるとそこへ辿り着くのか、そんなことは皆目知れぬが今日の出来事全てが謀であることを彼は漸く理解した。

政治的な意味合いなどなくとも、彼は大人たちの算段の中に組み込まれたのだ。

この、身分だけは高い厄介な子供の守役という立場を押し付けられたに違いない。

 「しかし博将は後宮に暮らすのが常であろう。伴うと申しても、な」

 「博将はこうして時折大臣さまの元へ参ります。おたあさまは御宿下がりをなされておいでですし、おもうさまはお忙しく博将をお側に置いて下さりませぬ。ですから博将はこちらに参ることが多いのでしょう?その時には童子を呼び寄せてくださりませ」

 「では大臣とは遊ばぬか」

ぴっ、と背筋を伸ばし、今度は慌てて右大臣の元へ駆け寄る。狗か、鞠か。やんごとない身の上の割に落ち着きのない博将を、童子は最早遠い目で眺めていた。

 「大臣さまは、博将の大切なお方にござりますれば、博将は大臣さまとも御遊びをしとうございます」

 「そうか、そうか」

目じりを下げきった忠平を呆れた目で見ていると、忠行から叱りの咳払いが聞こえた。

腕の中に抱えられた博将はさも嬉しげにしがみついている。確かに、あの小さくふわふわした体を抱き締めたら気持ちいいかもしれない。童子には既に狗としか思えなくなった博将を、他人事のように眺めるしかなかったのだから仕方ない。

名家などと呼ばれるものに出入りできる身分ではなく、まして親王の守役など勤まるはずもない。自分は陰陽師となるため修行を重ねる毎日だし、常であれば夢にさえ見ない馬鹿げた話である。

 「博将がそこまで申すのであれば、大臣はもう留め立て出来ぬなぁ」

 「まことにございますか」

 「童子は博将の大事を救ったものでもある。忠行をして気付けぬ気配を察したその力も、今の博将に取り欠くことのできぬものでもあるからな」

 「ではよろしいのですか?」

 「うむ。この屋におる時は構わぬぞ」

きゃんきゃん

なにを言ったのかは分からない。子供の甲高い声がなにやら叫んだのは確かだが、狗と化した博将と全て投げ出した心地の童子の耳ではそれを言葉として捉える気力も既になかった。

 「これ博将、膳に躓くぞ」

真っ直ぐに突進してきた博将は、童子の腕に飛びつこうとしていたらしい。

だが忠平の忠告通り、真っ直ぐ進めば膳がある。当然視界にも入っていたはずだ。

がしゃん、と派手な音を立てて博将が膳とともに転がった。

汁物、あつもの、先ほど博将が"べたべたしている"と評したあまづら。

それらが見事にぶちまけられ、童子の衣を汚している。そして頭から転がり込んできた博将も、当然のように同じ有様になっていた。

様子を窺おうと簀に控えていた女房たちの悲鳴が上がり、次いでばたばたと慌てて片付け始める女たちの手により博将も抱き起こされた。

 「おお、あまづらがこんなところに」

 「博将様、まあまあ、直ちにお召し替えをなされませ」

 「うむ。童子の衣も支度してやるがよい」

 「なんとっ」

目をむく小萩に忠平が吹き出す。

頬と袖にいやというほどあまづらをこびりつけた博将が示す先には、同じように汚れた童子の姿がある。

 「童子は博将の友であるぞ。そのような顔をするものではない」

 「と、友とは、友とはまた、ああ殿、殿からお話くださりませ、このような下賎のものを、ああ、ああ私、私なにやら目の前が、」

ああっ、と更に叫んだ小萩はそのままそこに倒れ臥した。

 「小萩、お前はちと嗜みを忘れてはおらぬか?」

回らない口で博将にそう言われたことをこの女房が知ればなんとするだろう。運び出される小萩を噛み殺した笑いで見送っているうちに、いつの間にか博将は童子の傍らに寄り嬉しげに顔を見詰めている。

 「童子、お主はきれいな目をしておるな」

 「きれい、でございますか」

 「うむ。珠のようであり、雨粒のようでもある」

 「雨粒…」

 「知らぬか?とても美しいものだぞ。おたあさまもお好きなのだ。だが黒い雲が出ている時の雨粒ではだめなのだ。晴れた日に、ぽつりと落ちる初めの一粒が美しいのだよ」

 「雨の、初めの一粒は美しいものですか」

 「美しいぞ。お主の目のようだ。濡れて、きらきらと輝いておるのだ。お日様の明るい光に透けて博将の頬に落ちたのだよ」

子供の目に映る雨粒を、童子も思い描いてみる。雨など鬱陶しいだけだと思っているが、晴れた空から降るそれを博将はとても不思議な心地で見上げたのだろう。

明るい日差しの中に、輝くそれ。

 「今度、博将とともに見ればよい」

 「勿体無いお言葉でございます」

 「勿体無くなどないぞ。お主は博将の友だからな」

得意げな博将が忠平を振り向くと、彼は仕方ないというように童子に微笑みかけている。

友など持たぬ、寂しい子供である博将が初めて得た存在なのだ。無碍に咎めるのも気が引けているのだろう、童子は黙って頷いておいた。

 「しかし友であれば名がなければな。いつまでも童子は呼びにくいぞ」

 「では博将が名付けてやればよい」

 「なんと」

丸い目を更に見開き、それから童子を振り返る。袖口を掴んだ指が白くなるほど握り締め、それから途方に暮れたように忠平を見た。

 「聞けば童子の目を恐れぬのは博将一人。大臣とて初めてその目を見たときは射貫かれた心地がしたものぞ」

 「なぜですか?これほど美しく輝いておりますのに」

 「それを輝きと評せるのだ、博将が名付けてやりなさい」

 「そうしていただければ、師としての私も誠にありがたきことに存じます」

忠行にまで丁寧に頭を下げられ、さすがに博将も困ったように首を傾げた。童子の目をじっとみて、それからふっくらとした唇を開く。

 「晴れて、明るい日の雨粒…」

まさか"雨粒"と名付けられたらなんとしよう。文句を言うわけにもいかず、とはいえ名乗るのも恥ずかしい。"名"というものの持つ特別な力を常に考えている童子にとって、このような子供に名付けられる事態に陥るとは夢思わぬ窮地であった。ああ、やはりあの時逃げ遂せていれば。またはこの汚れた着物を早く召し替えに連れて行かれていれば。

 「決めたぞ。お主は今から"せいめい"と名乗るが良い」

 「…は、」

 「せいめい、か。どのように記す?」

忠平が尋ねると、博将は童子に向かいまさに彼こそが日の光であるかのような笑顔を見せ、言った。

 「晴れて、明るいと書きまする」

 「晴れて明るく…良い名ではないか。雨粒を輝かすは日の光であろう、ならば晴明を輝かすは博将の勤めであるな」

 「なぜです?」

忠平の言葉を理解できず、博将は首を傾げていた。けれど。

 

ああ、そうか。

 

 「晴明、よい名だ。私の弟子はこれより晴明と申すか。いやめでたい」

 

 

ああ、そうか。

 

 

 

 

 

更衣に連れ出された博将の後を進む晴明は、その小さな背中を眩しげに見詰めていた。

暖かな太陽のような微笑。博将が照らした自分の瞳。

誰もが恐れたその輝きを、彼は真っ直ぐな光で照らし美しいと誉めてくれた。晴れて明るいというなんとも清々しい喩えをしてくれた。

出会うもの、出会うことに偶然など有り得ない。

修行の初めに師匠に聞かされた言葉だった。それは確かに正しいのだ。日々の暮らしの中で、過ぎる刻の中で、僅かな間であろうと関わりを持つものは全て己に意味成すものとして立ち返るのだ。人と人とに偶然はない。

 

この出会いはなんなのだろう。

この先、なにが起こるのだろう。

 

怯えて首を竦めたり、惨めに顔を伏せたりすることはもうないように思われた。

迎える全てが光り輝くもののように思えた。

晴明、と。

その名が示すこととして。

 

 

 

 「なにをしておる晴明、早く召し替えて博将と遊んでたもれ」

 「はい」

 

はい。

 

 

 

 

偶然ではないこの出会いのために、きっと生を受けたのだから。

きっとこの世に、あるのだから。

 

 

 

 

 

                                 了