春明譚 2

  博将、天駆ける至上の音に人の安らかなるを願うのこと 2

 

 

 

 

 「ところで晴明、なにやら問われておったようだが」

 「はい」

彼の気持ちを察し晴明も明るい声を出す。視線で博将の胸元を示すと、忠平は得心したように軽く頷き博将の顔を覗き込んだ。

 「博将は、また新たな調べでも作り出したか」

 「そうです。そうなのですっ」

すっかり忘れていたのだろう、慌てて忠平の腕を逃れるとまた晴明の元へ走り寄りその周囲で飛び跳ねた。

 「晴明、思い出したか?のう、思い出したのであろう?」

 「これ博将、その様に取り乱すものではないぞ」

 「ですが大臣さま、博将は夕べ晴明に聞かせた調べを忘れてしまったのです。おもうさまにお聞かせしたいのに覚えておらぬのです」

飛び跳ねながら、既に涙目になっている博将を忠平も困ったように見詰めている。彼にもそれが夢の中の出来事であると言うことは分かっていたが、果たしてそれをどう説明すればよいかが分からなかった。

 「博将様」

手を差し出すと、飛び跳ねるのを止めた博将が慌てて彼の腕に縋る。

本来、触れられることを嫌う晴明だが彼だけは別だった。柔らかな温もりは凝り固まっていた心を溶かす。求めてもいいものではないと知りながら、それでも晴明はこの博将という存在を二度と手放せぬということに気付いていた。

 「晴明」

丸い目が見詰めてくる。首を傾げて、彼の答えを待っている。

 「博将、いま"夕べ"と申したか」

 「はい。夕餉の膳を頂いたあと、晴明に笛を聞かせてやったのです」

 「それはおかしいな」

 「おかしい?」

結局晴明の腕に戻った博将は、微笑む忠平を見て不思議そうに問い返す。

 「夕べ、お前はこの屋敷におったかな」

 「…おりました」

 「まこと、この大臣の屋敷であったか?」

 「……はい……」

はい、と返事はしたものの、曖昧な記憶に気付いたのだろう。辺りを見回し、それから晴明を見る。忠平を見る。

 「夕べは、夕餉の膳を頂いて…それから晴明に…おもうさまが、晴明もともにと申されて…それで…」

克明がいると言うことは、それだけでこの屋敷の出来事ではないと言い切れる。仮にこの屋をお忍びで訪ねることがあったとしても、晴明の同席が許されようはずもない。

そのことについては、幼い博将といえど理解できることであった。

 「大臣さま、それでは夕べ博将が聞かせた調べはいかがなりましたでしょう」

 「困ったな、大臣にもどうしてやることも出来ぬぞ。博将の見る夢の中までは、この大臣とて覗くことは出来ぬ」

 「夢?」

 「おお、夢じゃ」

博将の頼りない目が晴明を見る。彼に作れる表情は最早苦笑でしかなかった。

 「夢か…夢の中にて聞かせたのか。それでは晴明には分からぬな」

 「まこと耳に致しました調べでありますれば、なんでこの晴明が忘れたりしましょうや」

 「晴明はまこと、博将の調べが好きか」

 「はい。心が軽くなるようなその音に、いつも感銘いたしておりまする」

 「そうか…」

目に見えてしょんぼりとした、その様はとても愛らしいが落胆させてしまったことは悔やまれる。忠平も同じ思いなのだろう、項垂れた博将を励ますような声で名を呼ぶ。

 「博将、いまも笛はあるのか」

 「はい、これに」

懐を示す。

 「それでは博将、夕べ聞き逃したその"よい調べ"とやらを、いま聞かせてはもらえぬか」

丸い目が更に丸くなり、そして忠平を、晴明を見詰める。

 「吹きまするっ」

それが夢であったと知れても、もう思い出せぬ調べであったとしても。

博将があれほど走り晴明に"思い出せ"と迫ったのは、誉められたそれをまた聞かせてやりたいと思ったからに他ならない。大切な人々に聞かせたいと願ったからに違いない。

慌てて笛を取り出すと、小さな指がそれを構える。子供の体に合わせて設えられたそれは彼が持つとそれだけでなにか不可思議な気配を作り出すようであった。

少し思案し、それから晴明も耳にしたことのある調べが紡ぎだされる。いつ聞いても子供の手によるものとは思えぬ見事な音色に忠平もそっと目を閉じ聞き入った。

調べは、やがて彼らの知らぬものへと変わる。

この年にして即興の音律を生み出すことは稀であり、またそれが耳の肥えた右大臣をしても納得する代物であるのだから、博将の楽に対する才知はまさに神から遣わされたものと認めぬ訳にはいかなかった。

屋敷の者たちも、この笛の響く間は誰もが仕事の手を休め聞き入る。またそれを咎められることもない。

庭に遊ぶ鳥たちも自らのさえずりを止め、流れる雲もこの屋敷の上にかからぬよう静かに流れていくようだ。

高く、低く。

朗々と。

時に哀しく、時にめでたく。

生きること死ぬこと、人の世の真理全てが含まれたようなそれに知らず涙が浮かぶのは、彼と似た寂しさを抱える晴明には仕方のないことだった。

ふ、と。

途切れたそれに目を開ける。いつも通り不安げな顔の博将がいる。

 「晴明、また泣くのか」

 「哀しいのではありませぬ。ただ、ただ私の心の中に博将様の作り出す調べが染み渡り知らず涙が浮かぶのでございます」

 「だが晴明が泣くのなら、博将はもう吹けぬよ」

 「いいえ。吹いてくださらぬならその時こそこの晴明、なぜに問うて泣きまする」

 「…それはだめだ」

困った、という表情のまま忠平を振り返る。彼もまた熱くなる目頭に指をやり、けれど幼い博将を招き寄せるとそっと、そっとその手を取った。

 「お前の笛には"命"がある。それは誰の奏でる調べにも含まれるというものではない。博将よ、お前は吹き続けねばならぬよ。この世に命がある限り、たとえなにがあろうとも、この世のためにその音を離してはならぬのだ」

 「…博将が笛を吹き続けると、世はなんとなりましょう」

 「お前が笛を吹き続ければ、都も、人も、生きることの意味を見失わずに済むだろう」

 「よく…」

分かりません、と彼は言いたかったのだろう。けれど忠平の言葉に含まれたなにか大切なものを感じ取ったのかもしれない。分からぬとは答えず、ただ一度だけ頷いた。

 

それ以上は笛を吹く気にもなれぬようで、晴明の元へ行くとその膝に縋り目を閉じてしまう。眠気のためかほんのり温かみを増す体に手を回すと、忠平は満足げに頷き女房を呼び寄せた。薄物の衣を博将の体にかけると、視線で晴明を労い退出しようと立ち上がる。

 「殿っ、一大事にござりまするっ」

 「これ、静かにせよ」

いつになく取り乱した小萩が眠る博将に気付き口元を袂で覆う。ただならぬ気配は晴明にも伝わり、もしや、という思いで背筋が凍る。

 「いかがした」

潜めた声で尋ねられ、小萩は深く手をつくと震える声で答えた。

 「ただいまお使いが参られまして、克明親王におかれましては、坊主、陰陽師などの祈祷の甲斐なく、ただただ、御仏のお心にお縋りするより他になしとのことにござりまする。殿、お早く、疾く博将様を親王様の御元へ」

 「分かった。支度致せ」

 「はい」

気が強い女だった。晴明を見れば目の敵にする、けれどこの時ばかりは滲む涙を止めることも出来ず震える指で控えの女たちに指示を与えていた。

 「童よ、晴明よ、博将様をこれへ」


 「はい」

そっと抱き起こすと、薄く目を開いた博将は無意識にきつく晴明の襟元を掴み締めた。存外強い力に離すことが出来ず、小萩を呼ぶと彼女も困ったように小さな指をそっと剥がそうとした。

 「いやだ」

 「博将様」

 「いやだ。行かぬ」

舌足らずな声で、けれどはっきり拒否を示す。指先は細かく震えている。

 「行かぬ。晴明とおる」

 「なりませぬ。母上様もお戻りあそばされておられますよ」

 「おたあさまが?おもうさまの元へ戻られたのか」

 「はい」

「では、おもうさまは…」

言いかけた。

その言葉の先を誰もが知っている。

博将が承知しているはずはないと思っていた面々は、彼が言いかけたその言葉を聞くのが恐ろしくみな一様に目を伏せた。

幼子が、自らの父の死を知りえるはずがない。けれど。

博将は育ちませぬか、と問うたのだ。

彼の耳に、死の床にある父のことをすら聞かせる者は少なくはなかったのかもしれない。

思わず抱き締めた体が震えるのを止めてやる術もない己を悔やみ、ただ博将の耳元に繰り返し囁いた。

お側におります。晴明がおります。

命の限り、その笛の音の響く限り。

晴明はお側におりまする。

自らの体が震えても、それでも泣く訳にはいかなかった。涙を零すわけにはいかなかった。

 

やがて、支度を整えた忠平が戻り、強引に博将を抱き上げると内裏へ向けて出発した。見送る晴明は牛車を追って走っていきたい心を抑え、ただ、ただ博雅の身を案じその一行が見えなくなってもその場に立ち尽くしていた。

 「晴明」

柔らかな声で呼ばれ、振り向いた先に立つ小萩にその時彼は漸く堪えていた涙を零した。

 「お前、よく見送れたね」

いつでも厳しく、晴明には辛く当たる女が静かに彼を手招いた。

 「博将様を、これからもお守りすると誓えるか」

 「はい」

 「私ではない、親王様と、殿様と、そして博将様に御加護をお与えくださる全てに代えて誓えるか」

 「はい。晴明は博将様に名を頂き、この都に生くる術を与えられました。ですからお側におります。なにがあろうともお守りすると、この命に懸けてもお約束します」

 「そうか。そうか」

柔らかな香を焚き染めた衣が晴明を包む。

母のようだと思った。

博将も、晴明も、深く母親の胸に抱かれることなどなかった。だから自分は博将を抱き締めてやるのだ。愛されていると知らせるために、腕の中に包んでやるのだ。

 「泣いても、よいですか」

 「よい。お前も子供なのだから、哀しく思うことを止めることなどない」

静かに、声を上げずに。

涙だけを零す晴明を小萩は強く抱き締めてくれた。

いつまでもそうして慰めてくれた。

博将を前にすれば、二人にそれは許されぬことだから。だから今だけ、二人は声を殺して泣いていた。

 

 

雲が行く。