春明譚 2 博将、天駆ける至上の音に人の安らかなるを願うのこと 3 克明親王の病は、半年ほど前から宮中で知らぬ者のないこととなっていた。 二十歳も下の弟に立太子として立たれ、親王位にあるとはいえ華やいだ王宮の暮らしからは遠退いた日々にある彼はけれどそれに不満を漏らすこともなく、始終笑みを絶やさぬ優しすぎる皇子として慎ましく暮らしていた。 博将が父に目通りできるのは月に五日ほどのことであり、病に倒れてからはそれすらも許されなくなっていた。 二十日ほど前、急に父から召され喜び勇んで訪ねたところ幼少の頃に作らせたという笛を授けてくれたのだ。 難無く吹きこなす博将を、父親は心から喜びまた聞かせて欲しいと言っていた。ほっそり痩せた指先が、博将の頬を撫でてくれた。 几帳を張り巡らせたその中に、痩せすぎた体が横たえられている。 微かに呼吸する胸が命を主張してはいるが、それもいつ潰えるのか、囲むものたちも最早零す涙もないように疲れた顔で見守るだけであった。 博将に会わせるべきではないと、克明の乳母は泣きながら叫んだ。けれどこの宮中で生きるなら自らの身の振りを早くに理解させねばならぬと忠平に諭され、今は部屋の隅に溢れる涙もそのまま平伏していた。 宿下がりをしていた母も召し戻されたが、痩せ衰えた夫の姿に悲鳴を上げると早々に辞してしまった。彼女の心も分からぬではないが"尼になりまする"と、まだ息のある夫と年端も行かぬ我が子を前にして叫んだそれは軽率だとしか思えなかった。 博将は、父親の枕元に座したまま動かなかった。握り締めた笛を見詰め、今はもう震えることすらしていなかった。 「博将様、おもうさまのお手を」 忠平に促され、束の間迷ったような彼だったが意を決しそっと父に向け手を伸ばした。克明に既に意識はなく、触れたところで気付くはずもなかった。 冷たい指を、けれど博将は撫でた。彼の頭をそっと撫でてくれた父に掠れる声で呼びかけた。 「おもうさま、博将にござります。お目をお覚ましくださりませ」 声も、震えたりはしていない。 「頂いた笛は、博将、こうして片時も離さず手にしております。大臣さまも、晴明も、博将の笛を誉めてくださるのです。博将は毎日、思いつく調べを吹いてはおもうさまにお会いしたいと思うておりました。ですからお目をお覚ましくださりませ。博将の笛を聞いてくださりませ」 小さな子供の声にその場の者がみな涙を零す。何もしてやれぬ不甲斐なさを呪う。 父は身罷り、母は尼となればそれでもうここに博将の居場所はなくなる。彼より二つ年下の寛明親王は既に立太子として彼の周囲とともにまさにこの世の栄華を手中に収める勢いを見せている。だから誰一人として博将を省みはしないし、望むことも愚かだとしか言いようがなかった。 幼子の指が父を求め幾度も冷えた手の甲を擦る。そうすると温かくなると信じるように、暫くそうして繰り返していた。 やがて、博将はふと顔を上げ室内を見渡した。誰もが泣き崩れ博将の目から逃れるように顔を臥せる。 生きること。死ぬこと。世の理。 悲しみ。哀れみ。痛み。 知らねばならず、けれど知るにはまだ幼く。 けれど。 「おもうさま」 笛を。 「おもうさま、博将は立派に、おもうさまの子として生きてまいりまする」 笛を、握って。 「博将の笛には命があると大臣さまが仰せになりました。生きてある限り吹き続けねばならぬと仰せになりました。ならば博将はおもうさまの御為に笛を吹きまする。おもうさまがこちらに御座します限り、おもうさまの命のままに吹き続けまする」 吹いていれば。 吹き続ければ。 ここに、この世に、居続けてくれる。 そんなことはありえないと、触れた体から知りえてはいたが。 泣き伏す大人たちの中で博将に許されたのは笛を吹くということしかなかった。命を奏で、せめて父が寂しくないよう、迷うことのないよう。 いつまでも、博将の調べをその胸に刻み。 常世の果てまでその思いを連れて行ってくれるように。 奏でられるそれに、耐え切れなくなった女たちが走り去る。忠平でさえ言葉もなく、ただ、ただ膝の上に握り締めた拳を震わせ顔を伏せた。 誰も、何も言えなかった。 なにも言っては、いけなかった。 静かな風に乗るように、その音は克明の体を取り巻き天上へと向かうようだった。 堅く閉ざされた瞳が、微かに、微かに開き巡らされる。幼い我が子をその目に映す。 薬師は二度と覚めることはないと言っていたのに、彼はその目を開きしかと博将の姿を見詰めていた。 唇が、微笑む。 博将が微笑む。 静かで、そして清らかな笛の音が余韻を残し細くなっていく。 細く、細く、細く。 天上に響く命の音は、誰の手も届かぬ空へと散華していった。 |