春明譚 2

  博将、天駆ける至上の音に人の安らかなるを願うのこと 4

 

 

 

 

 服喪の間、博将と目通りすることは叶わない。

修行中の身であり、本来の務めがある晴明はそのことにばかり心を遣ることも出来ずそれ故に眠れぬ夜を過ごしていた。

夜風に当たろう、そう思い庭に出る。

黒い影が、まるで妖しのように立ち尽くしていた。

 

 「晴明か」

 「保憲様。いかがなさいました」

 「いや、今宵はどうも寝付けぬゆえ、月を見ようかと出て参った」

 「…月を」

眉を顰め、それから晴明はゆっくりと下がる。彼から離れる。

 「はは、そう怯えずともよいではないか。私もここまで来てから気付いたのだ、今宵の新月に」

月はない。僅かな星明りでその人物を保憲と定めたに過ぎぬ晴明にはその表情まで窺うことはできなかった。

賀茂保憲。晴明の師である忠行の息子で、晴明とは兄弟弟子としてともに学ぶ間だった。けれど晴明はこの青年になにやらよからぬ影を感じることが多かった。それが何かとは説明もつかぬが、とにかく彼の中に芽生えたそれは決して良いものとは言い難かった。

晴明より八つ年上であり、この年の春に結婚もしている。昼の日の中で見る彼は物静かで誰にも信頼される男だったが、こうして闇の中に見る姿はやはり背筋が凍るなにかを含んでいる。

 「忠平様の元へは行かぬのか」

 「はい。お召しがございませんので」

 「博将様にもお気の毒なことであるな。お前は博将様のお側に仕えるのだから、よくよくお慰めせねばならぬぞ」

 「はい。もとより承知いたしております」

 「そうか」

軽い笑い声が響く。

やはり好きにはなれない。

 「晴明」

 「はい」

 「お前はいずれ父上を超える陰陽師となろうな」

 「…精進はいたします。しかし、それはまだ誰にも分からぬことではありませんか」

 「否定はせぬのだな」

 「は、…いえ…私のような若輩では…」

くつくつ、と。

その笑い声は耳に障る。

 「よいのだよ。お前の力は父上も私も十分に認めておる。晴明」

招かれる。

 「晴明、お前はお前の成すべきことをすればよい」

近付きたくはない。ないのに体が動いてしまう。引き寄せられる。

 「おお、また額にそのような傷を。石つぶてか」

 「…はい」

晴明に額にかかる髪を指先で払い、その傷口を撫でている。

この暗闇で見えているのか。

足が竦む。

 「お前の母が狐でも、お前自身が狐でも。私は構わぬしまた、そうではないことも言い切れるのだがな」

 「なぜです」

 「晴明の目には理性の光がある。人の輝きがある。私の方術はお前に比べ色褪せるが、その程度のことなら分かるのだよ」

 「私が、自ら"母は狐だ"と申しても…ですか」

 「晴明は狐などではない。晴明であろう」

風が吹く。

 

温かく湿った風。

 

本能が、知らせる。

 

 「お前は父上を凌ぐ陰陽師となるよ」

保憲の腕の中で、晴明は見開いた瞳の中に星を映し、動けぬままに声を聞いた。

哀しい、寂しい声だった。

 「晴明、よくお聞き。お前にはお前の成すべきことがある。それを誤ってはならぬぞ」

 「成すべき…こと」

 「ああ。そうだ。お前にしか成しえぬことだ」

 「保憲様」

 「晴明、私はお前を頼みにしておる。だからどうか恐れずに、私の前にいておくれ」

 「保憲様、」

 「お前にしか出来ぬよ」

 

適わぬ、よ。

 

 

 「おお、風が出てきたな。戻ろうか」

静かな声に背を押され、晴明はおぼつかぬ足取りで屋敷へと戻った。あとを追う保憲の気配は昼の彼のものへと戻っている。

階で足を払っていると、保憲の手がそれを助けてくれた。弟を思うように差し伸べてくれるそれになぜだか泣きたくなりきつく目を閉じ見ないようにした。

保憲の笑いが耳元をくすぐる。

不快なそれでは、もう、なかったけれど。

 

 

晴明を抱き締めた腕は震えていた。

伝わる心は哀しかった。

博将も、そして保憲も。晴明の側にいる人々はみな悲しみを抱えどうすることも出来ないでいる。大切なのに、力にもなれずともに俯く自分があまりに無力で悔しかった。

 

別れ間際、保憲は晴明の指を取るとそっと握り微笑んだ。僅かに燈された明かりに見えたそれは本当に優しく、ああ、やはり忠行様に似ておられると、こんな時でもそう思った。

こんな時だから。

そう思ったのかもしれない。

 

 

 

 

翌朝、保憲の姿は消えていた。

妻にも知らせず、供もつけず、彼は一人、消息を知らせる事もなく消えてしまったのだ。

晴明の胸の中に大きな不安を残して。

 

 

 

 

 

 

 「晴明!」

 

呼ばわる声に思わず駆け出す。

右大臣邸の車寄せから走り出した博将は、目指す人物を見つけるとそのまま真っ直ぐ走ってきた。

いつものように、腕を伸ばして。

まるで晴明だけが彼を包むもののように。

いや、それはもう確かなこととなったのだ。博将の頼む相手はもう僅かに数えるほどなのだから。

 「晴明っ」

 「博将様」

抱き締めて、抱き上げて、けれどそれ以上に言葉はない。何も言えるはずなどないのだ。

この小さな体で耐えた痛みを、晴明に代わる術はなかったのだから。

 「晴明、息災にしておったか」

 「はい」

 「小萩に叱られてはおらなんだか」

 「はい」

 「小萩はすぐに晴明を叱る、だからもし叱られればすぐ博将に言うのだぞ」

 「はい。博将様の仰せのままに」

視界の端に立つ小萩は苦笑している。晴明がこの屋敷に訪れるのは博将を見送った時以来のことであるからその間に叱られることなどなかったし、また、彼女はもう、晴明のことを謂れもなく叱責するような真似はしないであろうと思われた。

誰もが博将の身を案じている。…この屋敷のものと、博将を知る数少ない者のみであっても。

 「晴明、博将はおもうさまをお見送りしたのだ」

 「そうですか」

 「きちんと、おもうさまの子としてお見送り申し上げたのだぞ」

 「それは…親王様も、さぞやお喜びであられましたでしょう」

 「うむ。笑って下されたのだ。博将を見て、笑って下されたのだよ」

 「そうですか…それは…まことに…」

言葉に詰まり、晴明は浮かびそうになる涙を堪えるためわざと微笑んだ目元に力を入れ彼を見た。幼い子供が笑っているのだ、自分が泣くわけにはいかない。

 「博将様は、きっとお父上のようにご立派なお方になられます」

 「そうか。だが博将はおもうさまのように大きゅうなれるだろうか」

小さな手をじっと見て、それから晴明を見上げる。

ふわふわと柔らかな掌に細い指。誰もが博将のことを小さく、頼りなく見ている。暖かな日の光のような存在であっても、この都に生きるには弱すぎる彼を誰が守り抜くと言うのだろう。

守れるのだろう。

抱き締める腕に力をこめると苦しがってもじもじと暴れる。首筋に埋もれる小さな頭に頬を摺り寄せると、今度はくすぐったがり笑い出す。

幼い手が、晴明の体に縋りつき楽しげに笑っているから、見ているものはまた新たな涙に誘われ俯いた。

すすり泣く声に気付いた博将は、晴明に降ろすよう伝え懐から笛を取り出した。

 「博将の笛を聞くと力が湧くのだ。おもうさまも、それは楽しそうにお笑いくだされたのだからな」

大人ぶった口調でそう言うと、桜色の唇が拭き口に当てられた。

滑らかで、そして静かな音が奏でられる。

博将の作る至上の楽が響き渡る。

 

 

めでたく、そして心に染み渡る音律がゆっくりと天に溶けていくかのようなその音は暫く止むことがなかった。

晴明は、その音が地上に迷う魂を引き連れ昇っていく様を確かにその目に留めていたが、何も言わず、ただその寂しくも清らかな光景を見詰めていた。

なにが出来るだろう。

彼の為に、自分はなにがしてあげられるのだろう。

力が欲しいと思った。純粋に願った。大切な人を守りきる、何ものにも冒されぬ力が。強くあるための力が。

欲しいと思った。

 

保憲様。

方術に優れることがどれほどのものなのか。その力は人として持つべきものではなく、心を置き去りにした"ただの力"であることを、誰より私たちは知っておかねばならないのではないですか?

優れた陰陽師になることに、あなたはなにを見出していたのでしょう。

私に、なにを見出せと言いたかったのでしょう。

保憲様。

この音が。

この調べが届いていますか?

届いていればいい。

聞こえていればいい。

 

あなたにも。

 

 

 

聞こえていれば、いいのに。

 

 

 

 

 

                                     了