春明譚 2 博将、天駆ける至上の音に人の安らかなるを願うのこと 1 「晴明、教えてたも」 簀を走ってくる足音は軽い。 小さな体が真っ直ぐ、自分に向けて駆けて来る。その足取りの確かさと必死さがとてもくすぐったく感じられるのは彼の中に芽生え始めた愛情に他ならない。 博将が、細い腕を一杯に伸ばして駆けて来る。 晴明の元へと駆けて来る。 暖かな体が、彼の腕の中に飛び込みそして。 抱き締めて、その温もりに安堵する自分を晴明はなぜだか哀しく感じた。 とても幸せなのに、そう思った。 出会ってから既に二月が過ぎたが、ここ暫く彼の右大臣邸訪問の日数は増えるばかりとなっている。 博将の父は醍醐天皇の第一皇子であり、彼自身も後宮に暮らす皇族の一人である。それが度重なる右大臣邸への訪問となると、嫌でもその理由に行き着いてしまうのだが、晴明からそのことについて口を開くことは出来なかった。 幼い博将に何を告げられようか。 理解すらしないであろうその事実を、晴明はいつ、告げねばならぬのかそればかりが気になっていた。 「晴明、教えてたも」 「はい、今日はなにをお教えいたしましょうか」 「夕べな、博将が晴明に笛を吹いてやったろう」 「笛…にございますか」 「うむ」 夕べ、と言われ晴明は目を閉じた。 困ったことを言われたぞ。 「聞かせてやったであろう」 答えのない晴明に焦れ、抱かれた胸をとんとんと叩く。小さな拳は必死だがその先に続く言葉に気付いた晴明にはなんと答えればよいのか見当もつかない。 「あれをな、吹こうと思うたのだが思い出せぬ。どのようなものであったか博将に教えてたもれ」 「困りましたね…」 思わず口にしてしまった晴明だが、丸い目で必死に見詰めてくる博将の期待を裏切るのも忍びない。これを尋ねたのが彼でなければ、適当に言い逃れ事なきを得ることは造作もない晴明だが、こと博将に関しては嘘など吐きたくないと切に思っている。 夕べ、晴明は師匠の忠行の屋敷でごく普通の日課をこなし眠りについた。忠平に召されたのは五日ぶりのことであり、つまり博将に目通りすることも五日ぶりとなっている。 "夢をご覧になられましたね" そういうのは簡単だ。 おそらく博将は夢の中に晴明と遊んだのだろう。彼が父から頂いたばかりの笛を誰彼ともなく披露したがるのは承知していた。だからきっと、夢の中でも彼は得意げに自らの旋律を響かせていたのだと容易に察しは付く。 博将の吹く笛の音は天上の響きだ。 今年で五つの博将が生まれて初めて手にした笛を、いとも容易く吹きこなしたことは晴明の耳にも届いている。父が幼少のみぎり片時も手放したことのないという笛を譲り受けた博将は、醍醐天皇の御前にてその手習いをしたという。 音というものに敏感であったことはみなが知りえていたものの、特別に教えられた訳でもない博将がそれは見事な音色を奏でたという話は瞬く間に伝わった。晴明も、師匠の口からその話を聞きぜひとも直に聞きたいと伝えると、実に快く引き受けその"天上の調べ"を晴明のために響かせてくれた。 確かに見事なものだった。 まるで心の奥深くを暴かれるようなそれに、少しばかりの畏怖を感じるほとであった。 知らず涙の浮かんでいた晴明の目元を、小さな博将の指先が辿る。 『なぜ泣くのだ。博将の笛は嫌いか』 『いいえ。いいえ、博将様。晴明は苦しいのです。博将様の笛の音があまりに見事で、この胸が締め付けられるのでございます』 『嫌ではないのか?まことにそう思うておるのか』 『はい。はい、博将様』 不安そうな顔をした彼を抱き締めると、晴明の涙に怯えたように震える体が縋り付いてくる。安心させるように背を叩くと、やがて彼は眠ってしまった。小さな手が晴明の衣を強く握り締めていた。 あまりに澄んで、美しいから。 だから我が身の穢れを突きつけられる気がするのだ。 聞けば自らを追い詰めるようなそれを、けれど晴明は求めるようになった。耳から離れぬその旋律を、いつでも戒めのように刻み付けた。 「覚えておらぬのか。良い調べだと言うてくれたであろう」 「ええ…」 抱き上げた体を抱えたまま庭に出る。 手入れの行き届いた右大臣邸は甘やかな香りが漂う。召され、彼とともに過ごす時は雨でなければ殆どをこうして庭に遊んでいる。 博将の"教えてたも"は、いまや右大臣邸での名物となっている。 この屋を訪ねたところで、忠平は子供の相手ばかりを務めるわけにいかぬ要職を得ている。そのため博将が訪問する際には必ず晴明も召されるのだか今日は忠平も同席することになっている。面倒だとは思わぬが、早くこの事態から抜け出たい晴明は首を巡らし右大臣の気配を探る。 「これ、賀茂殿の童よ」 明らかに刺のある声に溜息をつく。忠平より博将の随身を命じられた女房の小萩がきつい眼差しで簀に立っている。近頃では大分穏やかにはなったものの、それでも身分違いの晴明が博将の傍らにいるのを快く思わぬのは変わりのないことだった。 「博将様におかれては、今朝ほどおつむりがお悩みであられたそうじゃ。早々に奥へとお上がり」 「はい」 言われ、慌てて屋敷へ戻る。 博将と初めて言葉を交わした階を上ると、小萩の示す方へと進んだ。 同じ年頃の子供から比べても博将の体は随分小さく弱々しい。両親ともに丈夫とは言い難いこともあり、博将自身も体調を損ねることが多かったため周囲のものはみな気を揉んでいた。 危うい位置にいる。 皇族とはいえ、博将に示された道は臣下に降ることであると誰もが暗黙のうちに理解していた。 親王であっても、第一皇子であっても、克明の生まれは低く後見にも恵まれないまま過ぎていた。そして今、克明の置かれた状況は晴明をして心を突かれるように儚く辛いものであったのだ。 本来、大臣に許された高麗縁の畳に博将を降ろすと、彼は不服げに晴明を見た。 博将を預かるにあたり、この屋では様々なところに気を遣わせているがこの畳にも忠平の思いが含まれている。 内裏では、誰も博将を省みない。宿下がりの多い母は直接彼を擁護することもままならず、彼は大抵女房たちに囲まれ閉ざされた空間にのみ生きている。一刻も早く臣籍に降り、貴族として暮らす方が彼には幸せなのだと、右大臣が零していたのを聞いたことすらあったのだから晴明もやりきれない。 幼い親王は自らの宿命など知らず、ただ、日々を楽しく過ごすことに費やしている。それでいいと思う。これから先の彼の道は、男として自らが作り上げていくしかないのだ。生きるために、生き残るために、彼は強くならねばならない。 まだ、人の命の何たるかさえ分からぬ子供に。 晴明にすら見えぬこの世の理を説くなど、到底出来ぬ話であった。 「博将様、殿の仰せによりこの小萩、御身をお守りする役を命じられてはおりまするが私自身とて博将様に心よりお仕え申し上げる所存にございまする」 「そうか」 「博将様…」 小萩としては、下命ではなく自らが博将の侍従として仕えると誓言したつもりだろうが、夕べの笛のことのみが気になる彼は晴明から視線を外さずいまや彼の控える辺り、畳の端にまで身を寄せ、指先はもう少しで肩にも届こうかという状態になっている。 晴明は、彼に様々なことを教えてくれた。 目にした不可解なもの、まだ見ぬ憧れのもの、晴明の日々の暮らし、都の中、そして外の暮らし。子供が当然感じ誰かに聞きたいと思う好奇心に満ちた疑問を、晴明は彼の気に入る言葉で解き、そして最後に必ずこう言うのだ。 『いつか、博将様ご自身のその眼(まなこ)でお確かめ下さいませ』 見たいと思う。自らの目で。触れたいとも思う。 きっとこの先も晴明は側にいて、博将の知らぬ様々なことを教えてくれるのだろう。 小さな子供は晴明のことを、友とも兄とも、また父親とも慕い今は晴明がなければ夜も日も暮れぬほどに彼を求め信頼していた。 小萩の目に晒されながら、それでも結局畳からずり落ちてくる博将をそのままにも出来ず差し伸べた腕で抱きとめる。よじ登ってくる姿はさながら小熊のようだ。いや、熊の子など抱いたことはないが。 思わず浮かんだ笑みに見上げていた博将の目がやはり同じように笑う。晴明は、自分が世の子供と同じではないことを重々承知していたが、それでもこうして彼の笑顔を目の当たりにするとほっと心が和むのだ。小さな弟をあやしている、そういう優しい気持ちになれる自分を自覚し、それまで受けた傷などすべてが忘れられる気がしてくるのだ。 博将を守れたらいい。 まだ、あまりに無力なこの身だけれど。 「晴明、思い出したか?」 「博将様の手は…それはいつも大変見事で…」 「夕べもそう言ったぞ。だが博将が知りたいのはそうではなく、」 「これ、また晴明を困らせておるな」 忠平の声に晴明の腕が躊躇する。けれどしがみついた博将を離すことも出来ず彼は目だけで右大臣を見上げた。 「おお、博将はそこであったか。大臣(おとど)は晴明が小猿を抱えておるのかと思ったぞ」 「猿ではありません。博将です」 ぷい、と顔を背ける。最近、彼はこうして晴明にへばり付いていることが多いので、そのたび忠平は"小猿"と言ってからかうのだ。あるのかないのかよく分からぬ自尊心だが、それでも猿と言われるのは承服しかねるらしい。必ず文句を言い返すがそれでも離れないその小さな手は猿に見えないこともない。 晴明に目配せし、控えている小萩を退がらせると忠平は畳に座し博将を手招いた。 小さな頭は晴明の首元に埋められている。疑い深く忠平を見て、彼がまた自分をからかうことを警戒するように握った晴明の衣を強く引く。 「これ、もう猿などと言わぬからこちらへ参れ。大臣とは遊んでくれぬのか」 「…博将は博将にございます」 「分かった分かった」 磊落に笑う忠平にまだ不審そうな目をしていたが、それでも彼に会うことも五日ぶりのため甘えたいのは確かなのだろう。晴明の腕から降りるとそそと近付き、今度は忠平の胸にしがみついた。 「どれ、おつむりはまだ痛むか」 「いいえ」 「そうか。痛むならすぐに申せよ」 「…博将は育たぬのですか」 忠平の首に回した腕が解かれる。じっと彼を見詰める子供の目が、真っ直ぐ、どこまでも透明に澄んで真っ直ぐ見詰めている。 意味など分かっているはずもないのに、晴明の背は凍り付いた。 「誰がその様に申した」 「それは申し上げられません」 「そうか。言えぬか」 「はい」 口さがない者はどこにでもいる。まして彼が暮らす後宮では、力だけがものを言うのだ。 居並ぶ女御、更衣の抱える女房たち、その親族。それらは全て自らの足場を固めることに必死で隙あらば喉笛を噛み切ろうと薄笑いの中に牙を剥いているのだ。 力ない博将の母などは、声高に中傷を受けることも数多であった。 黙っていることが一番だと、きっと母に教えられたのだろう。それきり黙ってしまった博将は忠平に抱えられたままじっと動かなくなった。 生まれの卑しいとされる晴明と、高貴ゆえに苦しむ彼を、忠平はけれどどうすることも出来ず見ているしかない。この世の理を彼が崩す訳にもいかぬのだから。 忠平は、それまでを切り替えるように軽く咳払いをした。 |