春明譚 3

  怜悧なる闇夜、明けの光に心捕らわるのこと 2

 

 

 

 

 「晴明、これ晴明、博将様は何処におわしますのかっ」

小萩の悲鳴で目を覚ました晴明だったが、なにを問われたのかを理解するには数瞬の間を要した。寝不足の目を擦り、手近な几帳を払いながら声を荒げる小萩の背をぼんやり眺める。

理解しようとする意識が何者かにより奪い去られているかのようだ。言葉は音として耳に入るが意味を成す前に霧散していく。目を擦っても頭を振っても、霞がかかったように曇る思考を晴明は鈍る頭の中でのみ自覚していた。

 「博将様、博将様、何処におわしますか、博雅様っ」

小萩の声に集まってきた女房たちも、彼女の叫ぶ言葉に状況を理解したのか口々に博将の名を呼びながら歩き回る。縁から簀、果ては庭に至るまで、次第に増えてくる人の数とともに彼の名を呼ぶ声は高く、大きくなっていく。

 「これ晴明、いつまでそうしているのですっ」

頭上からぴしゃりと落ちた声にゆっくりと視線を合わせる。霞は晴れてきたものの、思考の揺らぎはいまだ晴明の頭を支配している。

 「晴明、お前どうしたんだえ」

伸びてきた彼女の指が晴明の額に触れ、その体に篭る熱に気付くと素早く女房を呼び寄せた。

 「殿にお知らせせよ。博将様のお姿が見当たらず、晴明の様子もおかしいのじゃ。直ちに賀茂忠行様をお召しになられ給えと」

 「はい」

走り去る女の足音を聞きながら、晴明は自分の体を支える腕に凭れ掠れる声で名を呼んだ。小萩はすぐに背を撫でることで応えてきた。

 「ひろ…まさ、さまは…」

 「私が参った時には既におられなんだ。お前、晴明、なにがあったか覚えておらぬのか」

 「わたくしは…ねむって…明け方近くまで、眠れずにおりましたが、いつの間にやら眠、りこんで、」

 「妖しのものの仕業であろうか。ああ、そうとしか思えぬ。お前の様子もおかしいのだ、なにか悪しきものどもの仕業であるに相違あるまい」

抱き締められる腕の中で、晴明は漸く事態が掴めた。小萩が"いない"と言っているのは博将のことだ。明け方に晴明が意識を手放す前までは、確かに聞こえていた寝息であったがそれを立てる本人が今はいないと言っているのだ。

誰が。

博将が。

晴明の求めてやまぬ"宝"が。

 「小萩、さま」

 「案ずるな、殿にお知らせし申し直ちにお前の師を呼び寄せるゆえ気をしっかり持ちや」

 「博将様は…今朝までこちらにおわしましたのに…私がおりながらなんということに…」

 「鬼の仕業であるならば、確かに陰陽師の修行を積むものとしては遅れを取った。だがお前もまだ子供、その身に大事無きことを由となさい」

 「ですが、ですが博将様は」

 「私の失態じゃ。お前に罪はない」

唇を噛み締め小萩が俯く。その様がまるでもう博将の身が儚くなってしまったかのように見え、晴明は力の入らぬ指で賢明に女の胸元を掴み締めた。

嫌だ。そんな顔をしては嫌だ。いつものように叱り飛ばして、大丈夫だと安心させて。

彼もまた子供であることを捨てさせられた存在としてそれを言葉にして求めることは出来なかったけれど、それでも白くなるほどに力の込められた指先を包んでくれる女の掌に霞む視界が更に歪んだ。泣くことしか出来ない自分が惨めだった。

 

騒然となる屋敷の中に、晴明はただ、一人だった。

 

 

 

 

右大臣に伴われ現れた師、賀茂忠行は、博将の寝所へ入るなり肩を震わせ晴明を見た。

正確には肩を震わせ、まるで何かに怯えるような眼差しを巡らせた先に晴明がいたのだが、彼は小萩に支えられたまま自分を見詰める視線に耐えかねたように顔を伏せる。

 「どうじゃ忠行、なにか分かるか」

 「はい…」

 「分かるのか。やはり鬼か、鬼の仕業なのか」

 「今のところは"そう"とも"違う"とも言い難く…」

 「なにを頼りないことを。博将は未だ親王の座にあるのだぞ、その身に大事あればこの右大臣とてただでは済まされぬ。まして端かにおった晴明など庇いだてすることも叶わぬぞ!」

 「は、ははあ」

取り乱した師匠の顔を見詰め、そこで初めて目が覚めた。

それまではどこかぼんやりとした視界と思考に悩まされ、焦れば焦るほど朧な己に苛立っていたのだが、常にない師の奇妙な様子にはっきりとした違和感を覚えそれが彼の意識を鮮明に戻した。

部屋に満ちる、気。

暗い気配。

覚えのあるそれは"今ここで感じてはいけない"それに他ならない。

まさか。まさかと繰り返す。自分を取り戻した晴明は既に無表情の仮面の下に自らを押しやりその胸に起こる疑念を微塵も感じさせぬ冷静さで周囲に視線を配った。

ありえない。そんなことがあるはずがない。けれど。

 「忠行、博将は、博将はいずこにおるのだ。連れ去られたか、それともまだこの辺りにおるのかっ」

 「はは、直ちに占いなど致しまして」

 「ええいお前ほどのものが鬼に遅れを取るのかっ」

苛立ち叫ぶ忠平の声に、控えの者はみな床に額を擦りつけ震えるしか術がない。温厚な右大臣とは言え彼が預かり手元に置いたのは紛れもなく現帝の孫にあたる"博将親王"なのだ。鬼に連れ去られましたで申し開きの通るはずもないことだった。

 

帝の耳に入る前になんとかせよと檄を飛ばす忠平の声を背に、密かに集められた忠平の弟子たちが祭壇を組み、占いや術に必要な諸々を支度していく様を晴明は澄んだ瞳で眺めていた。

手伝わぬことを師匠は責めたが、その時、晴明は落ち着き払った目で忠行を見、そして静かに口を開く。

 「この御支度はご不要に存じます」

 「なに、なぜ不要なのだ。申してみよ」

 「お師匠様にはお話し申し上げることもないと」

ひた、と見上げる師匠の目が耐え難いように反らされる。晴明の感じたものの正体が確定したも同然だ。

  「私に術をかけ、博将様の御身をお隠しになられたは保憲様にございます」

 「馬鹿な」

 「では晴明の目をご覧下さりませ。お師匠様は申されました。"心に疚しきもののなければその瞳の常に静かなること"」

目を。

繰り返すと、幾度も躊躇う忠行の目がやがて晴明へと当てられた。血走ったそれは正視し難い焦りと恐怖に満ちている。

 「いかにも。いかにもこれはわが息子保憲の仕業であろうよ」

吐き出した言葉は晴明の四肢に染み通るように響く。人は度を越えた事態に直面すると二通りの反応をするものだ。一つは慌て、何も手につかぬほど取り乱すこと。そしていまひとつは。

 「お師匠様がそのようなお顔では、右大臣様に気取られてしまいます」

感情をすべて殺ぎ落とし、最善だけを見詰められるいっそ冷たいまでの沈着。

晴明は、既に陰陽の術を学ぶもの、虐げられ傷付けられた痛みを力に変えるものとしての本能を蘇らせ、博将と出逢ってから優しく暖かになりつつあった瞳を捨てた夜に生きる者の気配を全身に纏っていた。

 「お心当たりはございますか」

 「ない。あるはずがない」

晴明の目を見て腹を括ったのか、忠行が低く言い切る。周囲の慌しさに紛れ、二人は人目を避けるよう柱の影へ互いを誘った。

 「保憲様の術であれば、私が遅れを取るのも無理ないこと。ですがお師匠様にはお詫び申し上げねばなりませぬ。この晴明さえ眠らずにおれば、保憲様に無用の罪を犯させることもなく博将様の御身も危機に晒されることもございませんでした」

 「あれのことは儂にもよう分からなくなっておる…なぜ保憲が博将様を拐(かどわか)すような真似をせねばならぬのか…」

 「かようなことを今申されても仕方ありませぬ。お師匠様はこちらにて、右大臣様への面目をお立て下さいませ。私は保憲様の気配を探ってみます」

 「出来るか」

 「出来ねば博将様を失うことになります。この命などどうなろうと構いませぬ。右大臣様のご進退とて、私の預かり知るところではござりません。ですが博将様に何事かが起こるならば、たとえ相手が保憲様であろうとも…」

刺し違えてでも守らねばならない。

夜さえも照らす博将という存在を。

晴明を照らす博将という"重宝"を。

 「お前は…儂を越える陰陽師となろうな」

 「生きていれば、の話にございます」

師に対し逆らうことや小賢しい言葉を吐いたことのない晴明が、いま、忠行をひたと睨みつけそう言い切った。

なに一つとして持たぬ子供が初めて執着したものを奪われ、ある意味箍(たが)が外れたとしか思えない。師としてはそれが良いことか悪いことか、今すぐ判じることは出来なかったがそれでも成すべきことの見当くらいはついている。

 「儂はな、お前も保憲も失いたくはないぞ」

 「元より承知。では、私にお力をお貸しくださいませ」

 「よし」

幾つかの印を結び、晴明の額に右手の指をつけた。低い声で呪を唱え、それから忠行は視線を晴明に合わせると深く頷いて見せた。

 「くれぐれも一人で事に当たろうとするな。もしあれが…保憲が、既に鬼の眷属と成り果てておったなら、必ず儂に知らせるのだぞ」

 「はい」

 「息子の不始末は父がつける。お前は博将様を取り戻すことのみに勤めるのだ」

 「はい」

どちらも常の心を取り戻し、見交わす目は子供と大人のそれではない。

 「保憲の気配を感ずるとともに、今のお前は微かな鬼の気配にすら捕らわれる恐れがある。一人の時も、首尾よう博将様を取り戻した後も、十分注意を怠るではないぞ」

 「はい」

決意を秘めた瞳が見据えているのは既に師の姿ではない。

忠行が見送る中、まるで行く先が知れているかのような素早さで晴明の体は消えていた。庭に吹く風は、だから彼の起こすそれだったのかもしれない。

まずは居所を掴まねばどうすることも出来ぬ。

きつく唇を噛み締め忠行は心の中に問い掛けた。やれるのか、己はまこと、成すことができるのか。

息子をその手にかけることとなれば最早生き長らえることなど出来ぬだろう。弟子として八年、息子として十八年。何より濃い"血"という絆で結ばれたそれを断ち切ることができるとしたら、それは自らも鬼になるということに他ならないと、忠行の胸は叫んでいる。

なぜ、と問うても。

答えなどないような気がしていた。あれは飄々とした、そして寂しい心を持つ者だった。親と子でありながら踏み込んだものの言い方をせぬ静かでうちに篭りがちの者であった。感慨に耽る間もないというのに忠行は目を閉じ、物悲しい視線を宙に放つ息子の姿を思い描いていた。取り戻したいと切に願った。

叱り、励まし、そして慈しんでやりたいと。

父の胸は張り裂けんばかりに叫び嘆いていた。

 

 

昼の篝火が空を焦がす。