春明譚 3

  怜悧なる闇夜、明けの光に心捕らわるのこと 3

 

 

 

 

目を覚まして、視界一杯に飛び込んできたものに博将の思考は混乱する。

夕べは…いや、夕べではない。確か眠ってしまったのだ。晴明がおって、手を繋いでくれた。なにかを話して、叱られて…叱られた?なぜ?どうして博将は晴明に叱られたのだろう。…いや、違う、叱ったのは小萩だ。小萩はいつも口うるさくて、博将の自由にしてくれた試しがない。

順を追って思い返しているようで、その実大切なことはなにも出てこない。今の状況はそれだけ彼に取って思いがけず、また心当たりのないものだったのだから仕方ない。

大きな目を幾度もしばたかせて、見えているものを確認しようとすることだけが彼にできる精一杯の"現実"だった。

 「お目覚めにござりまするか」

 「目は覚めた」

覚めたとも。博将は小さな手で目元を擦るともう一度その男を見詰める。

男。

どこかで見かけたような、全くの初対面のような。宮中であれば人の出入りは激しい。博将が暮らす一角は他の殿舎に比べれば随分と地味で質素ではあったがそれでもこの年の子供が顔を合わせる機会とすればかなり多くのものに目通りしているのは確かだった。

だが結局博将の記憶の中で符合する人物は浮かばず、首を傾げたまま問い掛けた。

 「そなたは誰ぞ」

 「これは博将様、私の名前など知り得たところでなんとなりましょう」

 「名がないのか。晴明と同じであるな」

 「晴明と名付けたは博将様にございましたな」

くつくつと笑う。唇の端が上がる。

誰かに、似ている。

辺りは暗く、男の顔ははっきりと見える訳ではないが博将の見知った誰かに似ているような気がして手を伸ばした。だがその細い手首を強い力で握り締められ、触れることは叶わずその痛みに涙が込み上げた。

 「お泣きになられるのですか。博将様は姫にございますか」

 「違う。博将は男だ」

 「ほう、ですがかように軽がると、ほれ、抱き上げることが出来まするぞ」

当たり前だ。五歳の博将を抱えているのはどう見ても晴明よりも年嵩の公達なのだから。涙を零すまいときつく目を閉じると、またあの"くつくつ"という嫌な笑いが耳に入った。

 「博将様は、まこと晴明をお求めになられておられますな」

 「晴明は友だ。博将の側におると誓うてくれたのだから、片時も博将から離れることはない」

 「ですが今はどうでござりましょう」

言われ、博将は眼を開けてしまった。

暗い靄の中にいる。見たこともない誰かに抱えられ、意地悪く見下ろされている。腕は痛み、そして何より晴明がいない。

 「晴明はいずこ」

 「おりませぬ」

 「嘘だ。晴明は博将の側におるのだ。晴明の元へ参る」

 「行きたいですか」

 「行きたい。だが行きたいではないぞ、晴明は常に博将の側におるのだからな」

 「ですから今はおりません。ここには博将様と私だけ。二人きりの闇の世界にこざりまする」

 「やみ?」

 「はい。心寂しき者が集う世界にございますよ」

寂しい、と言われて初めて博将はその男の目の奥を覗き込んだ。

いつであったか父に言われたことがある。"寂しいものは目を見れば分かる"その言葉の意味を問えば、父とはいえ側にいることの出来ぬ我が身を詫び、そして心細くとも気取られぬよう隠し微笑む博将の真意は目を見れば分かると笑っていた。

難しいことはともかく、父には心労をかけてはならぬと言い聞かされていた博将はいつでも笑うことで悲しみを抑えてきた。泣かないことが彼にできる孝行だと思っていた。

 「そなたは寂しいのか」

 「私が?寂しいかと問われますか」

冷たい目がじっと博将を見ている。まるで珠のように揺らがず、人の心を持たぬそれに博将の体が震えた。

 「私が…寂しいかと問われまするか」

また、手首を掴まれる。ぎりぎりと締め上げられ、博将は今度こそ痛みに涙を零してしまった。恐怖がせり上がる。

 「寂しいと…そう言えばいいのかっ」

吐き捨てるような声が聞こえた。

意識を手放した博将には、遠く木霊を返すようなそれ。

 

 

 

 

保憲の気配は微かながら感じられる。

人ならぬものが歩む"闇の道"を、晴明はいま小走りに進んでいた。踏み出す先から黒い靄がかかり、その靄の中から人の手、獣の手、鬼のものと思われる気味の悪いものが見え隠れし彼の足を捕らえようとする。その度に呪を唱える晴明だが、とにかくその数の多さに辟易するばかりだ。ここが"妖しのもの"の棲む世界である以上侵しているのは彼の方に他ならぬので、大袈裟な術を使えば一たまりもないことを承知している以上耐えるしかない。

忠行であれば。師匠であれば、この程度の雑鬼などものともせず、もっと早く進むことが出来るだろう。己の不甲斐なさと未熟さに歯噛みしつつ、それでも今は悔いたり嘆いたりしている時ではないとまた進むことだけに意識を集中させる。

陰陽師としての職を果たすはずの保憲がこの闇の中にいるという現実。

気付いていたこととはいえ直面したこの事態に晴明は激しく動揺した。けれどその動揺は瞬きほどの間でしかなく、すぐに彼は、彼本来の冷静さを取り戻しいっそ凍えるような眼差しで忠行を睨んだのだ。

博将に徒なすものは、たとえ誰でも許さない。

力の差は圧倒的に保憲の勝利を告げているが、それでも晴明に引く気はなかった。刺し違えてでも博将を取り戻す。彼だけはあるべきところへ返す。

晴明の不在を嘆くだろう。その程度のことは自惚れではなく分かっている。幼い博将は自分の死を受け止めきれず暫くは泣き暮らすことになるかもしれない、それでも。

彼の無事がなにより優先されることである以上、晴明に引くつもりは毛頭なかった。なにをしてでも守り抜く。そう堅く心に誓っていた。

血にまみれた鬼の手が晴明のほっそりとした右足首を掴む。左の足で、力をこめてそれを踏みつけると低く呪を唱え消滅させた。

感じる。

自らの奥底から湧き上がる力を。

師に与えられたそれとは違う、なにか、身の内を焦がさんばかりの力。衝動。

初めて味わうそれは修行の中で何か一つ得るたび感じていたものではあったが、今、次々と湧いてくるそれは恐ろしいまでの波動で晴明自身を包んでいる。戸惑いはあるが、確信はある。

強くなる。俺は、強くなる。

薄い唇が吊りあがり、壮絶なまでの美を浮かべた貌(かお)が前を見据えた。

保憲の気配を、更に強く感じ始めた。奴はいる、この先に。魔界に自らの結界を張るという大胆さで身を隠してはいるが晴明には分かる。

今の晴明には手に取るように見えるのだ。

保憲が抱える子供は震えたまま目を閉じていた。生きている。生きてはいるが怯えている。伝わる。響いてくる。

博将が求めているのはこの自分だ。他の誰でもない安倍晴明に、彼は救いを求めている。

ひらり、と晴明の掌が舞う。辺りに満ちた悪しき気配が薄らぐ。

光が。

 

 

舞う。

 

 

 

 

手放した意識の中でも恐怖に苛まれた博将は結局現実の恐怖と立ち向かう羽目になった。

真の闇ではない。だが、救いのある輝きなど見当たらない。

あるのはただ自分を抱き締め蹲る寂しげな目をしたものが発する青白い薄靄と吐き出す吐息。煩いほどに鳴り響く自らの鼓動。遠く近くに響く獣の咆哮。

ここはどこ?

閉じることの出来なくなった両の眼(まなこ)で博将は周囲を見回した。怖いのに、見たくはないのに、逸らした先で何かの気配を感じるとそちらを見ずにはいられなくなる。

気付いた博将を抱き締める男はその腕の力を強くし、まるで守るかのように胸深く抱きこんだ。

怖かった。今も気を許したわけではない。けれど。

自分を包む男の腕に博将は戸惑う。彼を見たことがある、という感覚がそうさせているだけなのか、それともこれが"彼"なのか。

寂しさは伝わる。それは博将にも馴染んだ感覚だったので、男が何かに怯えそしてそれを表すことが出来ず嘆いているのも分かる。我慢するというそのこと自体が生む痛みは子供でも大人でも変わりはないのだろう、そう博将は考えた。

考えたら、途端に恐怖は薄れてきた。

 「そなたの名は?」

突然声をかけてきた博将に男は無言で顔を背ける。言葉を交わすことを恐れているのだろう、横顔には拒絶の色が浮かんでいる。

 「名はなんと申す」

しかし博将は博将だ。彼には自己防衛本能とも言うべき"人懐こさ"が備わっている。また興味のあるものに対する好奇心も人一倍強かった。

その明るさ、屈託なさこそが晴明を魅了した要因でもあるのだが。

 「これ、そなたは博将の名を知っておるから呼ばわることも出来ようが、博将はそなたを知らぬから呼ぶことが出来ぬぞ」

 「そのような必要は…ないということでございます」

 「なぜ。不便ではないか」

心底"困った"と言いたげな博将の声音に男は漸く顔を戻し博将を見た。

 「名などありませぬ」

 「なんと」

 「私に名などございません。ここでこうして朽ちていく身の上でありますれば、そのようなものはもう不要なのでございます」

 「もう、と申したな。では名はあるのではないか。あるなら申せ」

 「ありませぬ」

 「では博将が名を与えよう。晴明にも付けてやったのだ、不公平になる」

男が目をむく。早速とばかり思案顔になった博将を見詰め、それからほんのり微笑んだ。

 「なんだ、笑えるのではないか。では笑っていよ。黙られておると怖いぞ」

 「それは失礼致しました」

ふわり、と零れる笑みはとても穏やかで博将を安心させる。その笑みで彼が誰に似ているかを漸く思い出すことが出来た。

 「名がないと言うたな」

 「ええ」

 「では名付けてやろう。そなたは今日より"明忠"と名乗るがよい」

 「あきただ」

 「うむ」

勢い付いたのか、それまでぐったり凭れていた体を起こし男の襟元を掴み締める。煌々と輝くその瞳の中には既に恐怖の欠片もない。

博将には、闇を恐れる子供としての本能は勿論あるが、それを覆しなお余りある純粋な心が備わっていた。人を愛する心である。

目に映るものをあるがままに。隠している本心をそのままに。たとえ相手が誰であろうとどのような姿形、心根をしていても。受け取るそれに偽りがなければ認めてしまえるのだ。相容れる容れないではなく、受け入れてしまえるのだ。博将という魂は。

 「明忠は晴明の師匠である賀茂忠行殿に似ておる」

 「似ておりますか」

 「だが晴明にも似ておるぞ」

 「…晴明に?」

眉を寄せる。途端に恐ろしげな表情になり僅か博将も怯んだが、すぐに思い直すと甘えるように擦り寄った。子供の甘い香りが男の鼻先を掠める。

 「晴明に初めて出逢うた時もな、こうして博将のことを厭う顔をしたのだ。あっちへゆけ、と、まるで狗の子を払うような顔をしたのだぞ」

 「博将様にそのような顔を致しましたか」

 「うむ。だがな、怪我をしておったのだ。だから博将が小萩を呼んで、手当をさせた」

 「喜びませんでしたでしょう」

 「あれは小萩が悪いのだ。晴明を見て声を荒げるから。いつも嫌そうな顔をしておる」

 「あれが己が心の内を見せるは博将様だけにござりますからなぁ」

 「だがもうそのような顔はせぬ。その名の通り晴れやかな顔をしておるぞ」

得意げに言い放つ。自分の付けた名がもたらした効果に満足しているのだろう、くりくりとした目で男を見詰め"誉めよ"とばかりに口角を上げた。

 「確かにそれもありましょうが、しかし晴明が変わりましたのは名だけのことではありませぬぞ」

 「なに」

上がっていた口角が下がる。

 「お分かりになりませぬか」

気配が。

ゆっくりと闇に溶ける。

ゆっくり。ゆっくり博将を包む。

 「お分かりにはなりませんでしょうな。ご自身が光の博将様には、お分かりになるはずのないものでござりますからなぁ」

 「あき、ただ」

 「私はそのような名を持った覚えはございませぬ」

微笑が、嘲笑へと変わる。

悲しく暗い、瞳のままに。

 

小さな体が、竦む。