春明譚 3

  怜悧なる闇夜、明けの光に心捕らわるのこと 4

 

 

 

 

 「夜を生きるものには明かりなど不要なのです」

低く、呟く。歪めた唇の薄さが確かに晴明に似ているのに。

きつく抱き竦められ博将は明らかな怯えを持って震え始めた。それでも掴んだ襟を放さないのは、彼の中に確かに存在するであろう優しさに触れたからだ。

 「私には救いなどないのです」

 「人に救われるなどということはない。おもうさまが申されたのだ。自らが生きよと。己の為に己で生きよと」

 「口ではなんとでも申せます。その証がほれ、晴明ではありませぬか」

 「晴明がなんとした」

 「あれはあなた様に見出されるまで、それは惨めなものでしたよ。道を行けば石を投げられ、同門のものにさえ疎まれる。父だけがあれの資質を見抜き側に置いたが、それも人として生かすためではなく"有能な陰陽師"として役立てるためのみに他ならない」

 「父?それではそなた、忠行殿の」

 「保憲にございますよ、博将様」

闇が濃くなる。保憲の肩越しに、なにやら妖しの影が揺れるのを博将の視線が捉えた。

 「晴明は人ならぬもの。狐の子でありますれば、私以上に救いなどございません。ところがあれはなにを勘違いしたのか、博将様より身に過ぎる寵愛を受け思い上がりおった」

 「そのようなことはない。忠行殿も大臣さまも、晴明を誉めていらっしゃる。末は立派な陰陽師として帝にお仕えするものなのだ」

 「ふん。うまく隠しているのですよ。身の内の邪なる思いを隠し、人と偽りおる最低の輩に過ぎぬ」

 「違う!」 

「違うものか。俺と同じ気配を隠し、俺より暗いものを抱えたあれが今では晴れがましい顔でのうのうと暮らしておる。なにかにつけて父上は俺と奴を比べ二言目には"傲らず修行に励め"だと。都に並びなき陰陽師としての父を持ち、自らの才だけではなく常に期待を寄せられ、何かを成せば"忠行の息子であれば当然"と捨て置かれしくじれば"不甲斐ない"と笑われる。どうせよというのだ、俺にどうせよと申すのだ。これ以上なにを成せばよい、なにをすれば気に入る!」

一息に吐き出された言葉を聞き、まず博将の頭に浮かんだのは"大人のようで、子供であったか"という言葉だった。

激昂し、目を血走らせた顔を見て考える。忠行殿のご子息は元より大きな子供であったか。それともこれはもう鬼なのか。鬼であれば博将より体が大きくて当たり前だ。それなら合点がゆくぞ。

鬼であれば、捕らまえられた以上無事には済むまい。極楽には行かぬと申したばかりであったがこれでは仕方ないかも知れぬ。ゆけばおもうさまにもお会いできるし、それならそれで潔く諦めるのが身分ある己の勤めかも知れぬ。

気高くあれ。いつか父に言われたことをそう解釈し、博将は震えることを止めた。

彼の申し上を"子供の駄々"と判じたのだからその大物ぶりが窺える。

 「そなた、確か保憲と申したか」

 「いかにも」

 「保憲は幾つだ」 

 「なに?」

 「幾つだ。博将は五つになったぞ。そなたよりは年嵩であろう」

 「…なんだと」

保憲の腕から、もじもじと身動き体を起こす。相手が鬼でも子供であれば怖くはない。どうせ頭からばりばり喰われるのならこちらの話もしておきたいし、ただで喰われるのはさすがに腹に据えかねた。

 「よいか。世には決め事がある。理もある。そなたにはまだ分からぬかも知れぬが、己のことのみ良いように計り生きることなど出来ぬのだ。みななにかを耐え、なにかを背負うて歩むのだ。これは主上より賜ったお言葉ぞ。ありがたく拝聴せよ」

得意げに言い切る彼を保憲は呆けた顔で見下ろした。

闇の気配が引いている。

 「どうした」

返事のないことに首を傾げたがすぐに思い直し数度頷く。

 「むつかしい話であろうが、そなたも忠行殿の嫡男としては心得おかねばならぬことぞ。上にあるものはあるなりの構えが必要なのだ」

分かったのか分かっていないのか、言葉の殆どが父や祖父よりの受け売りだったがこの場において使うには確かに正しいものだろう。だが聞いているのは"世の理"を知りえてなお、消化しきれぬわだかまりを抱え苦しむ保憲なのだ。堪ったものではない。

人間、正論を説かれることが一番に辛い。

 「お前に…なにが分かるっ」

 「分かることは少ないぞ。だが分からぬものは一人で考えても仕方ないのだ。これまで博将は分からぬことを聞きたくとも誰もおらずに難儀しておったが、今では晴明が教えてくれる。保憲も晴明に聞けばよいのだ。博将よりも側におる時は長かろう」

良い助言を与えている気分で満足げに頷く。

 

常に父と比べられる。修行を積んだ上に法力を得た父と違い、保憲には生まれながらの資質がありそれは十分に発揮されていたのだ。だからその力を比較するなら"経験"という若年の保憲にはどうにも適わぬそれを引いてやらねば手落ちというものだろう。だが世間はそうは見ない。保憲は常に父を引き合いに出され結局は"まだまだ"とせせら笑われることが悔しかった。惨めであった。

そのうえ父であり師である忠行からは無言で多大な期待をかけられる。保憲がなにかに挫折するたび厳しい言葉を浴びせ彼の弱い心を叱咤した。

優しく慰められたいわけではない。ただ、彼は彼に適うことの範囲を認め、その中で計って欲しかったのだ。賀茂保憲という人間を、正しく見詰めて欲しかったのだ。

日々圧し掛かる重圧の中でそれでも保憲は耐えた。自らを厳しい修行の中に置き弱い心を隠し込んだ。陰陽師として大成する、周囲の期待に応えることが、彼が唯一救われる道だと信じ歩んできた。

晴明に出逢うまで。

陰陽師という仕事に対し保憲は誇りと自信を持ってきた。もって生まれた才だけでなく、誰にも負けぬ努力を続けた。言葉で誉められたことはなくとも、自分自身の支えとして、彼は自らの才を認め更なる飛躍をも願っていた。

純粋に生涯を通す務めとして果たしていくものと信じていた。だから多少のことには目を瞑り堪えることが出来たのだ。それなのに。

晴明が現れた。父は晴明本人の前でその才を称えたことはなかったが、ことあるごとに保憲を呼び彼ら二人を比較した。

父親からすればやはり我が子可愛さの激励のつもりもあっただろう。けれど言われる方は承服できかねる話だ。彼の苦労と努力はそれで一度に色を失う。

薄汚れた子供は湯を使わされ小奇麗な水干を着せ付けられると、その辺の公卿の息子より余程利発で品格を備えた実に美しい童となった。出自は保憲の知らぬ名もなき家柄の小倅に過ぎぬというのに、彼の体から発せられる輝きは一目見た途端に目を焼く。

父が見出した力は確かだが、目が合った瞬間保憲が感じたそれは圧倒的な敗北のそれだった。まだ鬼のなんたるかも知らぬような子供の持つ力を、けれど保憲は見抜いていたのだ。

勝てぬ。適わぬ。彼が優れた陰陽師であるからこそ、その事実は痛いほどに胸を突いた。

名もない童はまるで自らの力を隠すように振舞っていた。いや、保憲だけがそう感じていたのであって、父などはことあるごとに彼の隠れた才を見付けたと、嬉しいような悔しいような、複雑な表情で呟いた。聞かされるたび保憲の心は閉ざされていく。

彼は挫折というものを味わったことがない。生活に不自由がなく窮地というもののなんたるかを全く知らず成人した。十の時から陰陽師としての修行を積み、それなりの名声というものは既に手にしている。結婚もした。耐えていれば生きることになんら嘆くべきことは見当たらなかった。

そこが、陰陽師として生きる彼の勘をそこまでのものにしてしまったのだが。

けれど保憲に罪はない。彼が生まれた環境は晴明と同じように自らが望んだことではないのだ。金や身分があるのは悪いことではないし、また拒むものでもない。だが研ぎ澄まされ、常に極限を知り得た晴明だからこそ持ち得る"力"と対峙する時、保憲には到底太刀打ちできぬ決定的な差となって現れたのだ。

死というものを身近に感じていた晴明だから、命というものに限りなく敏感で限りなく無頓着に振舞える。同じ重さの荷物なら、腕に抱えるより背に負うた方が先まで歩いていけるから。

保憲は、その腕の荷物をどこかに置きたがっていた。いつでも人に預け、そして出来るならば忘れてしまいたいとも思っていた。彼に罪があるとすれば、だからそんな自分の脆さを認められなかったことだろう。受け止めることの出来ない、実のない僅かばかりの虚栄心の成してしまったものだ。

だが、保憲にはそれを恥じる心もまたあった。

情けない己を捨て去りたいと切に願ってもいた。

分かっていても沸き起こる醜い嫉妬心に自分自身で嫌悪して、そうしてあの夜、晴明のことを抱き締めたのだ。

ほっそりとした彼の体は保憲の腕に納まってしまう。けれど子供でしかないその体から感じる波動は力強く、そして保憲のことを怪しむように張り詰めさせた気は悲しいまでに真っ直ぐだった。もう分かりきった敗北を更に叩きつけてきた。

陰陽師として名門の家に生まれ、苦もなく得た力で彼は躍進するはずだった。だからその箍が切れたのは、ほんの一瞬、晴明と目の合ったほんの僅かな間に起こってしまった。

二度と帰らぬつもりで家を出た。

その身を消し去ろうかとも思った。

夜の闇の中で、保憲の周囲には暗く澱んだ気が渦巻き始め、やがてそれはゆっくり地面の上を這った。ざわり、ざわりと。

なにものかの気配が近付きつつあった。

 

 「お前如きになにが分かる」

 「だから分からぬことはたんとあると申したであろう」

博将が右手の指を一つ、折り曲げる。

 「朝はどこからくるのか」

二つ目を折る。

 「夜はどこからくるのか」

三つ目。

 「ねずみはなぜ"ちゅーちゅー"と鳴くのか」

四つ目。

 「おややはどこから参るのか」

五つ目。

 「晴明は、」

小さな、猫柳の房のように柔らかな博将の指が掴まれる。ぎり、と締め上げられ途端に博将の顔が歪んだ。

 「童にまで弄られるとは、この保憲も落ちたものよ」

 「自覚はあるのですね」

ぴん、と張り詰めたような声だった。

 「こちらにおわしましたか、博将様」

冷たいそれにもし触れることが出来たなら、その指先は瞬時に凍りつきぱらぱらと崩落ちてゆくことだろう。それほどに冷徹な、突き放した声音を背に保憲は低く唸った。

 

「なぜ…なぜここが分かった」

 「埒もないこと。あなたの濁り、腐りきった気がほれ、そこかしこに零れ広がっておりますよ」

人を食った物言いだった。

小さく鼻で笑う。

 「その程度のことにも気付かぬとは、我が兄弟子とは思えぬ失態でございますなぁ」

足を進める。

 「保憲様」

 「晴明!」

 

叫ぶ博将は掴まれたままの指先をなんとか彼に向け伸ばそうともがく。そうはさせじと押さえ込んだ保憲の腕の中で、小さな悲鳴が立てられる。

太陽の、翳る闇の中。

 

 

 「悪ふざけが…ちと過ぎたのではございませんか?」

 

 

闇の中に、轟く雷鳴。

 

ぶつかり合う。