春明譚 3 怜悧なる闇夜、明けの光に心捕らわるのこと 5 ゆらりと身を起こした保憲の正面に立つ晴明は、これまで見たことがないほど冷たい目をして、けれど薄く微笑んだ口元をして彼を見ている。 抱え込まれた腕の隙間から見えるその表情に怯みながらも、それが間違いなく晴明であることを認めた博将は必死に身を捩り助けを求めた。この童は乱暴すぎる。これでは抱き潰されてしまうと、懸命に訴えていたが当然保憲の耳には入っていない。彼は立ちはだかる晴明のことをひたと睨み付け、隙を窺っているようだった。 「異なことでございますね。なぜに保憲様が博将様をお連れになっているのでしょう」 「来るな。近寄れば博将様の御身、どうなろうと知らぬぞ」 「恐れ多くも親王様を拐しその言い様。保憲様は気は確かにございますか」 「ふん。疾うに狂うておるわ」 自嘲した物言いに晴明の眉が上がる。口元の笑みはそのままだが、彼の心中に怒りが込み上げているのは確かであろう。 「晴明、晴明、保憲はまだ童であるが、ちと乱暴者のようだ」 「…は?」 「分別がないのは仕方ないが、これは苦しいぞ。晴明からやめよと申してくれ」 ぱたぱた、と博将の足が暴れ保憲の腹の辺りを蹴っている。 晴明は暫し考え、それから保憲の顔を意地悪げな上目遣いで見上げた。 「保憲様は童でありましたか。それでは致し方ございませんなぁ」 「なんだとっ」 「その手をお放しなさい保憲。その方はお前のような小童が触れてよいお方ではないのだ」 「兄弟子に対しなんと言う口の利き様っ」 「家を出、かような魔物の棲む世界に堕るような兄を持った覚えはない。浅ましく、醜く今生に残す未練なればいまここで私が昇華させましょうぞ」 「出来るか、お前に。お前などに」 「出来まする。私なれば」 言い切った。 常であればその法力はまだ保憲に分があると言えたそれだが、今の晴明には決して怯まぬ確とした自信があった。 博将を取り上げるもの。長き夜を堪えた闇が手に入れた日の光を奪うもの。 魔としての道を選ぶ以上、晴明にとりそれは敵でしかない。博将を傷付ける以上それは人にあらず、善にあらず。 たとえどのような理由をもってしたところで許されるはずのないことをこの男はしでかしたのだ。死を持って償わせることも当然である。晴明の前に立つ男は最早鬼でしかないのだと、強く握った拳を震わせ全身に気を漲らせた。 ふわり。晴明の後ろで括られた髪が舞い上がる。結い紐が解けさらさらと川水の遡るが如くうねる様を視界に捉え、保憲は激しく脈打つ己の胸を自覚した。 晴明の放つ気が尋常なものではなくなっている。目は憎しみに燃え保憲だけを捕らえ、それのみで射殺すことが出来るほど激しい力をぶつけてきていた。 負ける。 呪の一つを唱える前から保憲には分かっていた。負ける。自分は負ける。この小賢しくも人の世になくてはならぬ、陰陽の道を支え続けるものを前に自分の未熟な技が適うことはないのだ。初めから比ぶべくもないのだ。 自分に分かることをどうして父は見抜けないのだろう。見抜いてはくれなかったのだろう。お前では役不足だと、出来ることをせよと。 そう言ってくれればこんなに苦しむことはなかった。未練を残すこともなかった。一人彷徨う夜の中で、そのまま消えることを貫けたのだ。死ねたのだ。それなのに。 晴明と分かれ、ふらふらと歩く夜道で気付けば保憲は鬼に周囲を囲まれていた。みな口々に"来い、来い、こちらへ参らせ給え保憲よ。こちらへ参り我らの眷属となり果てよ"と、繰り返し繰り返し誘いをかけた。甘い香りの漂う息を撒き散らし、彼の腕を取り闇の中へと引き込んだ。 恨めばいい。お前を闇に貶めたものを憎めばいい。自分ばかりが光を掴み、有り余る才を更に磨きたてていくあやつを妬み呪えばいい。 呪って、呪って、取り上げればいい。 光を奪い苦痛と絶望の渦に叩き込んでやればいい! 声は、保憲の頭の中で響き渡り、いつしか彼自身の願いと取って代わっていた。 鬼に操られたことも知らず、彼は博将を奪ったのだ。晴明から。 生まれ出でた時より天上の住人にその生命を祝福された博将は、鬼からすればこの上ない馳走に他ならない。彼の柔肉は鬼どもの身をより強固にし、彼の血は生気を漲らせる。指の一本、歯の一つでも構わぬから口にさせよと意気込む鬼は、保憲の暗い思いに誘いをかけ見事魔界へ引きずり込むことに成功したのだ。 だが保憲の中にある本来彼が持つ嗜み深い心と、嫉妬に捕らわれ滲み出した瘴気とがせめぎあい、この空間に博将を抱えたまま蹲っていた。行くことも、帰ることも出来ずただ遣る瀬無く。 もう、よい。それならもう、よい。 保憲の腕が緩み、その動きでずり下がった博将は先ほどまで"離せ"と喚いていたことも忘れ今度は必死で彼の衣を掴み締めた。落とされてはたまらない。 悪しき気配は薄れ始めてはいたが、今度はそれを察知した鬼どもが保憲に加勢せよとばかりに集まり始めた。生臭い気配が少しずつ近付く。 晴明の拳が解かれ、ゆっくり二本の指が唇に当てられた。まだ師から教えられてもいないはずの呪が唱えられる。目が煌々と輝く。 動かぬ保憲の背後から飛び出したなにかが晴明の目前で"ぎゃっ"と悲鳴を上げるとその足元に落ちてきた。どろどろと気味の悪い塊が蠢きやがて塵へと変じていく。目の当たりにしてしまった博将はひっと叫ぶと保憲の胸にしがみついた。 初めの一匹が砂山になった途端、彼に飛び掛るなにかの数が一斉に増えた。同じように落下していくものが殆どだが、中には晴明の髪を掴みしぶとく唸るものもある。振り払い、呪を唱え晴明は鬼どもと闘っているが、目は常に保憲を睨み益々激しく燃えていく。 「晴明の目がっ晴明、目が燃えておるぞっ」 赤いそれを見た博将が叫ぶ。それまで怯え、保憲の懐に逃げ込まんとするような彼だったが友の一大事とばかりに自ら腕を離し駆けつける。驚いたのは晴明だ。自分の回りには結界がありまた呪を唱えているからこそ無事でもいられ、また博将を抱えていたのが今は鬼の手先と成り果てた保憲であるから手出しもされなかっただけのことだというのに。 無防備に飛び出してきた博将を庇えばこの闇の中で丸裸になるようなものである。思慮の足りない自分に歯噛みしたところで遅いのだが、咄嗟に浮かぶ知恵はさすがの晴明にもなかった。 遠くで。 声がする。 「父…上…」 保憲が呟くと、彼の正気が闇に光る。博将に向け飛び掛ろうとしていた鬼がその光に焼かれ一瞬怯む。 その隙を逃す晴明ではなかった。伸ばした腕で博将を抱えると自らの結界に取り込み、漸く取り戻したその小さな太陽を折れよとばかり抱き締める。 「くっ苦しいぞっ、これでは保憲と同じではないかっ」 博将の苦情は当然受け入れられるはずもなく、晴明は低く唸りながら抱き締める腕を更に強めた。 博将を捕らえそこなった鬼たちが、腹立ち紛れに保憲へと襲い掛かる。彼は、身動きもせず立ち尽くしていた。諦めたように。 「晴明、なにをしておる、保憲が鬼に食われるではないかっ!…ん?鬼?あれは鬼かっ鬼なのか晴明!おお初めて見たぞ」 興奮し、暴れだした博将を抱え冷めた目で保憲を見る。彼の身を囲む僅かな光の所為で鬼どもは牙も爪も立てられず苛々と周囲を巡っていた。そのうちそれは晴明の回りも囲んだが彼の体から発する輝きは保憲のそれとは比べようもないほどに強く、その力の差を歴然と誇示しているようでもあった。 「父上の…このような身に落ちても、俺を庇うてくださるのか…父上…」 忠行の唱える呪が僅かな結界となり保憲を守っているのだろう。しかしそれもいつまでもつのか分からない。鋭い爪を振り翳す鬼はじわじわと彼の元へと近付いている。 「なにをしておる、保憲が鬼に喰われるのを見ておるつもりかっ」 「喰われればよいのです」 「なんと」 「喰われればよろしいのです。博将様をこのような目に合わせた償いはその身をもって取るより他にありませぬ」 「ならんぞ。晴明はあれを助けることが出来るのだろう、ならばそうせよ」 「いいえ」 「晴明」 「死ねばよいのです。すべては博将様をお守りするため」 「人の死を持って守られるなど嫌だ!」 ぴしり 切りつけるようなその言葉に、漸く晴明は博将を見た。抱き締めた博将は微かに震え、大きな目ははっきりとした怒りを浮かべ睨んでくる。 「誰も死んではならぬ。もう誰も死んではならぬのだ!博将の周りにおるものはみな笑っていねばならぬ。このようなところにおいてはならぬっ」 「ひろまさ、さま…」 「離せ!お主がせぬなら博将が行く!保憲は博将よりも小さな童よ、見捨てることなど出来ぬからなっ」 涙が。 零れる。 博将が泣いている。死んではならぬと泣いている。大切なものをなくし続けた博将が、これ以上何かを失うことを恐れ、叫んでいる。拒んでいる。 「よいのだ…よいのですよ、博将様」 「保憲、いま参るぞ」 「よいのです。晴明とお戻りください。私はここに、このものどもと共におります。それが似合いでございますれば」 「なにを言うか。保憲とて立派な陰陽師となり、主上や都を守る要となるのであろう?ならばともに帰るのだ。帰って晴明を助けてやってくれ」 「晴明を…助ける?」 「そうだ。晴明はいずれ比類なき陰陽師となるが、今はまだ博将と同じ童にしか過ぎぬゆえ何かと辛い目にも合うておるのだ。何も言わぬが博将は知っておる。知ってはおるが側にいてやることが出来ぬ。だから保憲、そなたが晴明を守れ。主上の為に、都の為に守ってくれ。決してなくせぬ晴明を、守れるのは側におるそなたではないのかっ」 「守る…晴明を…守る…」 「博将にはまだ出来ることが何もない。だが保憲は違うであろう?病でも倒れぬような丈夫な身をもっておるではないか。先ほどは"なにが分かる"と申しておったがそなたにこそなにが分かる。博将のこの歯痒い気持ちのなにが分かるというのだっ」 はらはらと零れる涙を、保憲は、そして晴明もただ呆然と見ていた。博将が泣く様を初めて目の当たりにし、言葉もなくその顔を、涙を見ていた。 泣かないのは堪えているだけ。無意識に自らの痛みを抑え周囲のものに気遣いをさせぬよう気丈に振舞っていたに過ぎないだけ。そんなことは知れているのに、泣かない博将はそれを相手への思いやりだと思っているのだ。それで治めようとしているのだ。 「博将様は…この私にも勤めがあると仰せられますか」 「人にはすべて成すべきことがある。主上はそう仰せになられた」 あるべき場所で、成すべきことを。 「私には晴明を守ることが勤めであると申されますか」 「助けて欲しい。晴明を、博将の出来ぬことを成して欲しい」 「惨めに生きよと仰せられるか。この私に晴明の下を行けとっ」 「下では困る。並んでいなければ何をするにも適わぬぞ」 前では背が空く。背にいては前が空く。並んでいれば見えているものは同じで、また横から仕掛けられればどちらかが屈めばよいのだ。どの方向から敵がきても、並び歩いているなら相談することも出来る。目を合わせることも出来る。 力を合わせることが出来る。 「博将には陰陽の道のことは何も分からぬ。だが保憲は忠行殿の跡を継ぐものなのだろう。このように易々と鬼に喰われてよいのか、それでそなたの父は喜ぶのか。生きてあることをまずめでたいと、そなたは生くることのありがたさも知らぬのかっ」 高々五年の命の中で。 人の生の善と悪を。人の生の光と影を。尊さを。 失い続けるばかりの日々で、希望の欠片もない博将だからこそ知りえたそれを、晴明は深く心に刻み付けた。 小さな声で呪を唱える。光が静々と広がる様を、博将の眼は大粒の涙を零しながらしっかり見ていた。金色に輝く光輪は次第にその範囲を広げ鬼どもを駆逐していく。触れた体がとろけていく。 その光の中を博将が進む。幼い腕が保憲に向け伸ばされ、そしてその手が彼の手を掴んだ。しっかりと、暖かな指が絡められた。 屈み込む保憲の体を足りぬ腕で抱き締めながら、博将はその涙を止めていた。代わりに口元に浮かべた笑みをやがて顔中に広げそして。 振り向いたその眼差しの優しさに胸を突かれ、晴明は己を恥じるように目を伏せた。 彼とともにあることには余りに醜い自身を知り、ただ、言葉も鳴なく項垂れるしかなかった。 惨めであった。 遠くで、忠行の声がする。 |