春明譚 3 怜悧なる闇夜、明けの光に心捕らわるのこと 6 晴明はなに一つとして語らなかった。 明け方、熱が下がり気分のよくなった博将は勝手に庭に出てみたところ鬼に浚われなにやら恐ろしげなところに連れてゆかれたと、くりくりした瞳で囲む者どもに語って聞かせた。 確かに博将の熱は引いてはいたが、俄かには信じがたいという顔をした忠平がじっと保憲を睨めつける。 博将の"鬼との遭遇、その顛末"話は続く。 「赤い鬼がおりました。赤い鬼は博将に、お前を取って喰らうてやるぅと、それは恐ろしげなる声で申したのです」 「それはさぞや恐ろしかったであろうな」 忠平の腕にしっかりと抱き締められた博将は、いつもの通り甘えて擦り寄る仕草をしながら保憲を見据えた目を自分の方に向けさせる。 「ですが博将は男でございます。怖くはないぞ!と言ったのではありますが、鬼はどうにも大きゅうてとても適いそうにありません。これは困ったと難儀しておるところに、ここな保憲が参ったのです」 博将の話では、果敢に鬼に挑むものの力及ばず、これはいかにと思ったところに運良く保憲が現れ瞬時に鬼を祓ってくれたというのだ。保憲の隣に座した忠行は最早生きた心地もない顔で虚ろに下を向いている。こんな子供の戯言を右大臣藤原忠平が信じるはずもないのだ。 流罪。または死罪。 皇孫を拐し、魔界へ引きずり込むなど謀反と取られて当然のことであった。 忠平にも分かっている。冷静を常とする忠行の様子から、これは近頃消息を絶った保憲が絡んでいるに違いないと既に見抜いていたのだ。占いと称し彼が行っていた修法はまさに魔界にいる息子の身を守るための呪文に他ならぬものであったから、彼以外の陰陽師たちが顔を見合わせていたことでもそれは明らかである。 だから博将が言い募るそれを覆せば、その咎は賀茂親子に死にも等しい罰を下すことになる。それには聊か…いやかなりの抵抗のある忠平は困りきった顔で晴明を見た。 博将を抱き抱え戻った晴明なればすべての事情を知りえているはず。また、彼が博将と同じことを言えば証人として認めることも出来るだろう。 伏したままの晴明を見る忠平が、もう幾度目かになる問いを晴明に投げる。"まことか"と問うたび彼は伏した頭を更に床に擦りつけ応えたが決してその唇が開かれることはなかった。諦めるよりほかないであろう。 この件に関することは一切が他言無用として右大臣家に伝えられた。忠行の弟子たちや関わるもの全てが、もし外に漏れた場合は…と言葉を切った忠平の目を見ていたことで無事守られていくとは思う。 父に支えられるようにして出て行く保憲に博将が駆け寄ると、その冷たくなっている手を取りゆさゆさと揺すった。 「保憲、もう何も案ずることはないのだから、小さくなってもよいぞ」 言葉の意味を理解したのは保憲だけで、あとの者はみな口をぽかんと開き嬉しげな博将を見ていた。心配がないのに小さくなる必要があるか?逆ではないのか。誰もがそう思ったが保憲がこくりと頷いたことで深く考えることはやめた。きっとすべては忘れた方がいいことなのだ。 師匠の後に続き退出しようとする晴明を呼び止める。今度も博将の声だった。 彼は怒ったように残ることを命ずると、忠平以下すべてのものを人払いした。去り際忠平は"あのように大きな目を吊り上げて…怒れる狸のようじゃ"と思ったことは博将には秘密にしておく。 「晴明、ここへ座れ」 ここ、と示されたのは博将の座す畳の縁の目前だった。常であれば言われた通り進んでくるはずの晴明が隅に控えたまま身動くこともしない。幾度か呼んだが動かぬ彼に焦れた博将はそのまま自らが彼の前に行き、強引にその膝に跨った。こうすれば晴明はいつも博将を抱き締めてくれたし、優しく微笑んでもくれたのだ。 だが、やはり伏せたままの顔は博将を見ない。体も支えてもらえない。 伸ばした腕で必死に晴明にしがみつきながら、博将は彼の目を覗き込む。 「なぜ答えぬ?」 沈黙と重い空気。 「晴明…なぜ口を利かぬのだ」 悲しげな気配。 「博将が…嫌いになったか」 零れるような声にはっと顔を上げる。一瞬にして激しい後悔が突き上げてきた。 一度泣いてしまった瞳は涙を零すことを覚えてしまった。表面張力で持ちこたえていたそれが一旦溢れ始めると止まらなくなるように、博将の大きな眼からは懇々と泉が湧くが如く涙の粒が溢れ流れる。 「もう、博将は好かぬか。嘘をついたから許せぬか」 襟を掴む指が震えている。泣いて、赤くなる顔が歪んでくる。しゃくりあげ、悲しみを全身で伝えるように打ち震える博将を、彼に突き放すことなど到底出来ぬし、また突き放したくてそうしていた訳ではない晴明はあっさり拘りを捨てその小さな体を抱き締めた。 「いいえ。いいえ。なんでこの晴明が博将様を厭うたりできましょうや」 「だが怖い顔をしたではないか。博将が呼んでも答えてくれぬではないかっ」 「違うのです。違うのですよ博将様。私は我が身の不甲斐なさを嘆いていたのです。この身の浅ましさを呪うていたのです。一時の憎しみに捕らわれ私は兄弟子を見捨てるところでした。殺してしまうところでした。裁く権利もない私如きが、保憲様を追い詰め、殺そうなどと…」 「せっ晴明はっ悪くはっないぞっ」 ひっくひっくとしゃくりあげつつ、どうにか言葉を繋いでいく。 「せっめぇは、博将をっ、たすっ助けてっくれようとしたのではないかっ」 「ですが、」 「嫌だ。聞かぬ。誰も悪くはない。誰もなにも悪くはない。晴明は悪くない。だから博将から離れるな。博将を拒むなっ」 うわぁ、と声を上げて泣き出した博将を抱き締めながら己のしたことを思い返す。憎しみに捕らわれた自分がしようとしたことは許されることではない。博将を守るためであっても、怒りにより呪を唱えた自分を彼は心底恥じ、そしてもう二度と博将には近付くまいと決意していたのだ。 いつか。いつか自分が人ならぬものになるのではないかと。ここまでの執着で博将の側にいれば、いずれは自身が彼に徒成すものになるのではないかと。それが怖くて。 「晴明は博将の友だ。永久に博将の友なのだ。ここにいてくれねば博将はどうすればよい?一人きりの博将はどうすればよいのだ」 「博将様は…一人などではありませぬ…」 「違う。一人なのだ。どこにいても一人きりだ。博将に行くところなど、もうどこにもないのだ」 泣きじゃくる博将を抱いて、晴明は胸の中で呟いた。私も一人ですと。一人きりでございましたと。けれど。 「博将様にはこの晴明がおりまする」 震える、小さな体を包むように抱き締めて。 「ここにいつでもおりまする。博将様をお守りするため。博将様に笑うて頂くため。この晴明はいつでもお側にお仕え致します」 「まことか?違えることはないか?」 「はい」 「嘘ではないな」 「はい」 「では誓え。晴明の尤も正直なところで博将に誓え」 必死な眼差しを前に逆らうことなど出来なかった。闇に潜み、全ての情を切り捨てるように兄弟子であっても見殺しにしようとしたこの冷たい心も含めて。 自分自身の全てで博将を求めているのだ。隠しようもない、それが事実。 「誓いまする」 醜さも脆さも。いつか彼を悲しませることも何もかも。 「誓いまする」 自らの力で押さえ込み殺す。博将のためであれば自身の本能すら殺す。殺してみせる。 一途で寂しい魂を持つ己と、同じ痛みを持つ博将の為に。 「誓いまする」 時の限りを尽くすまでともにあらんことを。 嘘をつく唇。 呪詛を吐く唇。 問いに答える唇。 博将の名を呼ぶ唇。 晴明の名を呼ぶ、唇。 何より正直な唇で。 大切なあなたに誓おう。 命をかけて。 すべてを、かけて。 微かに重ねた唇が震えていた。温もりがゆっくり染み渡る。 「…これが誓いか?」 「はい」 「晴明の尤も正直なるものは唇であるのか」 「はい」 「では博将もそうしよう。正直なのは唇だと致すので、これで互いの誓いは確かなものとなった。よいな」 「はい」 思わずこみ上げた笑いを気付かれぬように抑えながら、晴明はもう一度博将を胸に抱き締めた。甘い香りが安らがせる。 たとえなにがあろうともこの魂を手放すことなど出来ないと、彼はこのとき強く強く心の中に刻み付けた。世の中のなにが移り変わろうがこれだけは揺るがぬ事実としてあり続ける。晴明の胸に。博将の胸に。 安堵の為に眠ってしまった小さな子供を抱き締めながら、彼は再度その唇に己の唇を合わせる。 呪を。 唱える。 「あなたとともに。…博将」 永久に。 二人で。 二人で。 了 |