春明譚 3 怜悧なる闇夜、明けの光に心捕らわるのこと 1 博将が臣籍に下ることは決定的でありながら、祖父である醍醐天皇からの許しがなく未だ彼の身は後宮に留め置かれていた。 とはいえ母の剃髪が十日後と決まり仕える女たちの数も減ると、その寂しさは増していき子供心にも心細さを募らせたのだろう。右大臣邸で晴明と対面している時、彼は掴み締めたその袖を離すことなく近頃はその口数もめっきりと減りつつあった。 泣かない子供だった。 父の死も母の不在も、彼の口から凡そ泣き言と取れる言葉は聞いたことがないし、大きな瞳から涙の雫が零れる様を見たことは今まで一度としてなかった。 自らの定めを知っているかのように。この幼さの中に秘められたそれはいっそ痛々しいほど強く、悲しく囲む者の胸を打った。 車寄せから右大臣に抱かれたまま東の対に入った博将を、晴明は隅に控え平伏したまま迎えた。常であれば彼の姿を見つけると忠平の腕から飛び出し"晴明、おしえてたもれ"と勢いよく駆けてくる博将だが、その日は気配すらなく奥の上座へと連れ込まれた。 忠平からの許しもなく、顔を上げることのできない晴明は嫌な予感を振り払うことも出来ず床についた指先を微かに震わせた。早く、早くあの舌足らずな声音で呼び掛けて欲しい、そう願いながら忠平の声を待った。 「博将、目が醒めたか」 「大臣さま…ここは、大臣さまのお屋敷にございますか」 「そうだ。よう眠っておったぞ」 眠っていたのか。全身から力が抜ける。よかった。 「ほれ、晴明が参っておる」 伏せた頭を更に低くしてから顔を上げる。高麗縁の畳の上に座した忠平に抱えられた博将は目に見えて青白い頬で力なく晴明を見ていた。 「いかがなされましたか」 「ちと疲れておるのだ。のう博将、願い通り晴明を呼び寄せておいた。これで力をつけておくれ」 「はい」 小さな声だった。生まれついて体の弱い博将が、こうして病を得ているところはもう幾度となく見知ってはいるが慣れることなど到底ない。 幼い彼に運命は容赦なく襲い掛かる。身分や暮らしになんら遜色のないはずの彼だが、置かれた状況と度重なる不運に自らが振り払えるほどの力もないのは仕方のないことだけれど。こうして目の当たりにする"翳る太陽"の痛ましさは目を伏せることくらいで拭えることでは決してなかった。 「見舞いに上がると帝もお渡りになられておって、"なにやらせいめい、せいめいと申しておる。人であるなら呼び寄せてやりなさい"と仰せになられたのであるが…よもやお前を後宮に招くことも出来ぬ。昼まで待って、少しばかり粥を啜ったので連れて参った」 「よろしいのでございますか。車はお辛ろうござりませんでしたか」 「それでもお前に会いたいと申すのだ。だが確かに牛車に揺られるのは辛いことであったろうよ、暫し休みなさい」 忠平に呼ばれ小萩が静々と現れる。博将を受け取るといつも彼が寝所として使う部屋へと移されていった。去り際、晴明を見詰める目はとろりと濁っているようにも見える。 「母君の剃髪がお認めになられてからも気丈に振舞うてはおったのだが」 「まだ五つにあらせられます。常はこの晴明こそ励ましのお言葉などを頂いておりまするが、博将様こそまだまだご幼少の御身。お心内、お察し申し上げまする」 「そうだな」 低く呟き博将の去った方に目をやる。居たたまれない空気が流れ、晴明は口を閉ざしそのまま暫し二人は沈黙していた。 「保憲はいかがした」 「は、」 突然、話題を変えられたことにも戸惑ったが、忠平の口から出た名前に背筋が凍る。 いかに重用する陰陽頭の息子とはいえ、官位的にはまだ低い年若い保憲を庇い続けるのは難しい。彼が姿を消してから既に一月ほども経っているが、消息はようとして知れず進退は危ぶまれていた。 有能な陰陽師が消えたのだ。鬼に遅れを取り人知れず死んだのかもしれない。けれど… 術により人を殺すことさえ出来る法力を持つものが消えたとあっては、心に悪しきものを抱える連中に取り恐ろしいことに他ならない。 「宮中では口さがなき者どもが、保憲のことをあれこれ詮索しておるよ。忠行も私に目通りすることを控えたいと言うて寄越した。お前をここへ通わせることも取り止めさせて欲しいと言うてきたが、それは、のう」 取り出した蝙蝠で口元を隠し笑う。晴明としては言葉もないが、なるべく博将の側に上がりたいという本音があるので黙って頭を下げておいた。 「消える前の晩になにを話した」 「取り立ててどう、という話をした訳ではございません。私に修行を怠るな、とか…そのようなことを申されておりました」 「保憲は晴明の力を早くに認めておったからな。晴明よ、ならば今こそその恩に報い、あれを連れ戻してやってくれ。保憲のことは我が子のようにも思うておるのだ、どこぞで難渋しておるならば、探し出し導いてやっておくれ」 「私にはそのような大役を果たし遂せる力もござりませぬが、この身で保憲様がお救いできるのでございましたら何なりと」 あの夜のことを、晴明は誰にも話さずにいる。最後に会ったこと、話をしたことは師匠にも忠平にも聞かせたがその言葉のすべては伏せたままにしてある。 闇の気配を持っていた。暗い翳りを負っていた。禍々しいものの波動を微かに帯びていながら正反対の悲しい瞳を晴明に向け佇んでいた兄弟子。なにか、自分たちの預かり知らぬところで彼が苦しみを負っているなら、一人で抱え込まずに打ち明けてくれればと悔やまずにはいられない。 いや、きっとあの夜がそうなのだ。晴明を抱き締めた彼の温もりがそうだったのだ。 人としての救いを、きっと求めていたはずなのだ。 思いに沈む晴明を黙って見ていた忠平は、小萩の呼ばわる声に視線を流す。 「いかがした」 「恐れながら博将様におかれましては、お側に晴明をお召しになられておられまする」 「そうか。晴明よ、行ってやってくれ」 「かしこまりました」 深く頭を下げ、忠平の前を辞すると簀に控えた小萩の元へ急ぐ。 「博将様のお加減は」 「お熱があられる。こちらへ参られたことで更にお悪うなられたようだが、晴明がおらねば眠らぬとそれは頑なに申し上げられてな」 楽しげに、ほんのり笑う女房に晴明も笑いかける。彼女とはすっかり確執らしきものも解け、こうして博将のことを語り合えるようになっていた。今では往来で傷付けられたそれを隠していると目ざとく見つけ、清潔で高価な綿や絹で怪我の手当をしてくれるほどであった。 「ほんに博将様は、晴明がおらぬと夜も日もないと殿は仰せになられるが…まこと、今となってはお前だけが頼みですよ」 「勿体無いお言葉です」 「身に余る寵愛を頂いているのだから、しっかりお勤め申し上げるのですよ」 「はい」 母のようにやさしく、小萩は晴明の頭を撫でた。 彼を産み落とすとすぐになくなった母のことは、当然晴明はなにも知らずまた語り聞かせてくれるものもないまま過ごしてきた。最近になり母は死んだのではなく、離縁し里に帰ったのだということに気付いたが後を追うほどの情は既に消えて久しかった。 自分にはいるべき場所がある。 師匠の下で、博将の側で。こうして穏やかに暮らすことの幸せを知ってしまった以上、あとはこれを守り続けることが自らの務めだと思う。 生きていきたい、その思いのすべてだと思う。 通された部屋には幾重もの几帳が張り巡らされ、さやさやと女たちが動く気配がある。 小萩が入っていくとみな脇へ引いたが、その後に続く晴明を見ると扇や袂で顔を隠し口々になにかを囁き合う。そのような状態には慣れきった晴明だが、つい最近までその先頭にたっていた小萩が目を吊り上げ女たちを嗜めるのを聞くとつい笑いがこみ上げてきた。 「晴明?」 弱々しい声が聞こえる。急いで几帳の影に控えると、そのまま膝で進んでいった。 畳を二枚重ねた床の上に、小さな博将は横になっていた。 「やっと参ったか。待ちくたびれたぞ」 「申し訳ございません。お具合はいかがでございますか」 「うむ、ようない」 多少の発熱は自身も、周囲も慣れてはいる。だが今回のように長く続くことは稀だし、またその様子は一目見て思わしくないと知れるひどいものであった。 悲しい気持ちを隠しながら、出来るだけ明るく微笑み近付いていく。枕元に近い辺りに辿り着くと小さな手が伸ばされ、その不自然な熱を持つ指先を晴明はしっかりと握り締めた。 「今日は晴明に聞かせてやろうと思うてな、参ったのだ」 「なにをお聞かせくださいます」 「主上がお教えくださったお話だ。極楽のことと仰せであった」 「極楽、でございますか」 目を見張る。 なぜ博将にそのような話を聞かせるのか。父を亡くし、母に捨てられ、寄る辺なき身の上と成り果てた博将を宮中に留め置く帝の真意が知れず晴明はただ青白い顔の博将を見詰めていた。 「極楽とは仏様のおわすところなのだ。目には見えぬがいつでも、誰の側にもあるものなのだと仰せであられた」 「私も、師にはその様に聞かされております」 「そこにはおもうさまもおられる。綺麗な泉があり、そこに映る博将をご覧になられておられるそうだ。極楽は人が最後に行く場所であって、いつかは博将も行くだろうと、」 軽い咳が博将の唇を割って出る。そっと胸を撫でると甘えるように擦り寄ってくる様はいつも通りだ。ただ、病に濁る瞳が自分を映すのが辛い。 「とてもよい香りがして、いつも暖かで、博将が嫌だと思うものは一つもないと仰せなのだ。だから博将はすぐにでも行きたいと申し上げたのだよ」 「なりませぬ」 小萩が思わず、といったように鋭く叫んだ。 「なりませぬ博将様、そのようなことは仰せになることもなりませぬ」 「主上にもそう叱られたのだ」 一瞬呆然とした晴明だったが、けろりとした口調の博将に毒気を抜かれる。 「おもうさまにお会いしたいと申し上げたのだが、いずれは嫌でも会うことになる。だから今は、かようなことを口にするだけでいけないと、怖いお顔で叱られてしもうたのだ」 「主上でなくとも叱りまする」 涙目の小萩がそう言うと、囲む女たちからも鼻を啜り上げる音が聞こえた。 「晴明も怒るのか?」 言葉もない晴明に上目遣いで尋ねる。繋いだ指が小さく揺すられる。 「晴明?」 「私は…」 喉の奥に声が絡む。知らず、瞳が熱くなる。 「私には、博将様のお側を離れることなど考えることも出来ませぬ」 「そうか。ここにおるか」 「はい」 嬉しそうな博将に、涙だけは見せまいと懸命に堪える。笑いかける。 「極楽には、おもうさまはおられるけれど晴明はおらぬからな。だから主上にも、晴明がおらぬのでは博将は参りませぬとお答えしておいた」 「恐れ多くも主上におかれましては、晴明などと申し上げられたところでお分かりにはなられませんでしたでしょう」 「うむ。そはなんぞ、と仰せであられた。だから博将は、"博将の宝にござりまする"と申し上げたのだ」 「宝、でございますか」 「大臣さまが教えて下されたのだ。博将は晴明を得てからとてもよい子になったと仰られてな、よい子でいるためにも"宝"を手放してはならぬと申されたぞ」 「私が宝などと…そのような…」 いつになく口篭もる晴明に、小萩は堪えきれず吹き出した。助けを求める晴明だが、彼女はその言葉が気に入ったのか隣の女房に"お前の宝はなんぞ?"などと尋ねている。 「もし…」 薄い、赤い唇が躊躇いがちに開くのを、博将の目が見詰めている。 「もし、まことに人を宝と称することがあるならば、それは博将様の方にあられるに相違ございません」 「博将が宝?なぜ?」 「なぜと問われても、未だ未熟な我が身にはお答えする言葉もござりませぬが…」 自分の指を握り締める、小さな子供の大きな魂。触れるたび温かくなるその心根の優しさと大らかさに、晴明はいつでも感じ入らずにはいられないのだ。 惹かれる心を留めることなど出来ぬのだ。 「博将様のおられるところに、この晴明はおりまする。晴れて明るい、博将様のお側に置いて頂いてこそ、私は私として"ある"ことが出来るのですから」 「よく、分からぬが…」 唇を尖らせ博将が考える。指先の力が強くなる。 「晴明は、いつでも博将のそばにおるということだな」 「はい」 深く頷く。心からの思いを伝えるために。 彼に、真っ直ぐ届くように。 微笑んで。 安堵したのか、それからすぐに博将の口から小さな寝息が漏れ始めた。疲れていたのだろう、その夜はそのまま目を覚ますこともなく眠り続けていた。 辞するべきか、困っていると忠平より師には使いを立てたので今宵は博将の側にという言伝がありそれに甘えることにした。いつ目を覚ましても、声をかけても気付くように、博将の眠るその端かに床を設えてもらい目を閉じる。 眠気は一向に訪れなかった。 思考が冴え、なぜか保憲のことが頭の中に渦巻いていた。笑う彼の横顔が、意地悪く唇の端を上げるのをただ睨み付ける像が幾度も繰り返す。 そうしているうち、それは夢の中のこととなった。晴明は眠りに落ちていたのだ。 小萩の悲鳴で、目を、覚ますその時まで。 |