春明譚 4 夏の野に出でて、幼子、狐と出会うのこと 1 忠平に召し出された晴明は、いそいそと右大臣邸に向かっていた。博将に逢うのは七日ぶりのことであり、逸る心を静められずにいるのだ。人は恋をするとこのように落ち着きをなくすものだと言うが、ならばこれは恋であろうか。道すがら、涼しげな美童が思案深げに目を細め、時折首を傾げる様をなにも知らぬ者たちは微笑ましげに眺めていたが、彼が陰陽師賀茂忠行の弟子であり、狐の子と噂される安倍晴明と知ればその微笑みも瞬時に消し飛んだことであろう。 彼の出生は師匠の忠行にも確としたことは言えなかった。当人も硬く口を閉ざしていたため、血族のこととなると"大膳太夫、安倍益材の子"というその一事のみを伝えることしか出来なかった。 狐の子はその食からも尻尾を出す。 晴明は近隣の者どもに度々追い立てられては無体を強いられていた。はじめに蟲を口に入れさせたのは年も変わらぬ幾人かの小童どもで、彼らは無理に閉じさせた口の端から零れた気味の悪い色の汁を見て勝ち誇ったように、また狂ったように笑いながら走り去っていった。 吐き出したそれを見て、晴明はぼんやりと考えた。母親が狐であれば、確かにこうしたものを食ろうて生き長らえることもあるだろう。だが。 もし俺が狐であれば、まず食い千切るのはお前たちの腸(はらわた)であろうよ。 冷めきった面からそのような思考を読み取ることは出来なかったが、彼が人というものに絶望したのもその瞬間のことからかも知れない。 まことに狐であれば。博将に出逢う前の晴明は、その思いを飲み込めずけれど泣くことも出来ずひとり眠れぬ夜を過ごすこともあった。やり切れぬ悔しさを、痛みを、ただ一人膝を抱え堪えていた。 陰陽の道を習い、世の様々な理を知るとその心は急速に薄れていった。どれほどの口を叩くものであっても人間には死があり、その死にまつわる苦しみがある。呪うものは呪われ、祟るものは祟り、醜く生きて老いて、そして誰もが恐れおののく死に飲み込まれていくのだ。逆らうことは出来ぬ。 それまで晴明に向け、石つぶてを放っていた小童を冷めた目で見詰める。蟲を食わせたものどもに、哀れみの嘲笑を向けてやる。本当に恐ろしいもののなんたるかも知らないで、目に見える、触れられる僅かなものしか掴めずにいて。 哀れなものよ。 蟲を食らうという俺と同じ場所にしか住まうことの出来ぬ身分で、一体どれほどのものが見えているつもりなのか。 以来晴明はそれまでにも増し冷たく近付き難い空気を纏い、人々から疎まれ、そして恐れられるようになった。当人はそれら全てを視界の隅にも置かぬ風なので悔しく思う者も確かにいたが、術者となる彼に逆らう勇気があるかと問われれば沈黙で答えるより他なかった。 晴明は忠行の元で学ぶ陰陽の術があれば、衣食住という人の生きることに必要なだけの銭が得られることを知り、また彼にはそのための力があるという自信も持つことが出来た。けれどそれだけに子供らしからぬ冷たく恐ろしげな目をするようになったことも事実であり、忠行はそのことを案じてもいた。ことあるごとに"人の世の"と講釈を説いてもみたが欠伸を噛み殺していることは彼にも分かっていたし、そもそも人の世というものがいかなるものかということについては忠行にもこれと定めたことを話すまでには至らなかった。 人とは不確かであり、脆くもあり、そしてなにより強かである。善にも悪にも姿を変え、そして鬼になることも厭わぬものすらいる。 博将に出逢う前の彼は、だからただ哀れな、ひたすらに哀れな子供であったと言うより他にはなかった。 忠平の屋敷に到着すると、既に顔馴染の家人が寝殿に向かうよう教えてくれた。車寄には博将の牛車が既に牛を外し舎人の手により磨きたてられている。 逸る心を抑えながら庭伝いに寝殿まで向かうと、階の欄干に腰掛けた忠平が池の方を見遣りながら微笑んでいた。急ぎその下まで来ると膝を付き、到着を知らせる。 「よう参った。おお、随分と走ったようだな」 「は、いえ、その…はい」 「博将に会うのも七日ぶりのこと。気が急いたか」 「はい」 素直に頷くと忠平は満足げに目を細め、また庭に目を向ける。 「右大臣様、博将様におかれましては、いずこに」 「しー。あれはお前を試すのだと申してな、ほれ」 視線だけで示された。 ははあ、さてはどこぞにお隠れになりこの晴明に探し出せということなのであろうか。 忠平の眺める方にそっと目をやると、置石の陰に小さな子供がしゃがんでいるのが見て取れる。あれで隠れたつもりなのか、当人は息を殺し見つけ出されるのを今か今かと待ち詫びているのだろう。 「さて晴明、どうする?」 「はい、お探し申し上げまする」 ほんのりと口元に笑みを浮かべたまま忠平に手をつき答えると、すぐさま立ち上がり池の方へと歩いていく。博将が隠れている大石からは幾分離れたところに立つと腕を組んだ。 「さて、博将様は何処におられるのやら」 大きな独り言だ。晴明の後姿を見ていた忠平は、彼の動きに合わせこちら側に回り込んできた博将の小さな体を見て"なんとも鞠の如き姿じゃ"と笑いを噛み殺している。しゃがみ込んだ彼は両手を胸の前でぎゅうと握り合わせ出来るだけ小さく縮こまっているのだが、後ろから見るとまるで繭玉のようであり、その愛らしさになんとか茶々を入れてやりたくなるのだった。 しかし声でも掛ければあの大きく丸い目を釣り上がらせ、"大臣様の所為で見付かってしまいました"と怒りぬくことであろう。その姿もまた狸のようで愛らしいが、出来れば博将の機嫌を取りたい忠平としては大人しく静観するより他なかった。 「ここは一つ、未熟ながらも私の力にてお探し申し上げるよりありませんね」 組んでいた腕を解き、でたらめな印を結ぶと風に向かい匂いを嗅ぐように顔を上げる。 「ははあ、これは博将様の匂いに違いない。どれ、こちらかな」 言いながら、彼とはまったく逆方向に足を進める。 「いやこちらか」 今度は少しだけ戻る。 晴明が、呟きながらうろうろと歩き回るたび置石の陰に隠れた博将もしゃがんだまま右へ左へと移動している。初めは笑っていた顔も、段々と必死になる様が益々忠平の笑いを誘う。 「困ったぞ、風が強くて博将様の気配が探れぬ。なんとするか…」 うーむと首を傾げながら、ひらりと身を翻した晴明はそのまま真っ直ぐ置石の前まで進んできた。驚いた博将は逃げることも出来ず、小さな体を益々縮めどうにか見つからぬよう両手で口を覆い必死に堪え始めた。 全て見通している晴明からすれば、そんな博将の反応も計算のうちであったがなに食わぬ顔でその石に腰掛けてしまった。 「匂いは強くなられたが…博将様はこの晴明の前に姿を現しては下さらぬ。よもや…」 よもや、のところで言葉を切り、深く悲しげな溜め息を吐いた。 「よもやこの晴明を厭うておられるのではあるまいか」 「ちがうっ」 がばりと身を起こした博将に、晴明はさも驚いたという表情で振り返る。 「ちがうぞ晴明、ちがうのだ。博将は晴明を厭うてこのようなことをしたのではないぞ」 「そちらにおわしましたか」 「ずっとここにおった。この石の陰に隠れておったのだ。晴明に探させようと、驚かせようとしておったのだ。決して厭うてしたことなどではないぞっ」 既に涙で潤みはじめた目を見開き、晴明に向け必死に伸ばす手を取ってやる。意地悪が過ぎたかと反省しながらも、こうして求められることに至福を感じずにはいられない。 「博将様、お逢いしとうございました」 「博将も逢いたかった」 抱きあげて欲しいとせがむ小さな体を腕に抱き締め、柔らかな子供の香りを胸一杯に吸い込む。首に回される細い腕が、必死に晴明を求め締め付けてくるのを感じながら彼もまた博将の背を抱き締める。 「晴明、博将は晴明のことを好いておるぞ」 「ありがたき幸せにございます」 「二度と厭われているなどと疑うことは許さぬ」 「かしこまりました」 「分かったのか?まことに承知したのか」 「はい。肝に銘じましてございまする」 しれっと言った晴明に、漸くからかわれたことに気付いたのか博将の足がばたばたと暴れだした。悔しそうに噛み締めた唇は、けれどいじらしいとしか映らず益々晴明の笑みを深くする。 「これ晴明、博将を弄るとはお前も出世したものであるな」 これを口にしたのが忠平でなければ、言葉の終わりと同時に首を討たれていてもおかしくないところだ。しかし忠平は二人の子供の様子を目を細めて見ていたのだし、近頃の晴明が澄ました顔で博将をやり込めるのを見るとなにやら愉快な心持になるのだ。賀茂忠行を師に持ち、子供らしからぬ道を歩む晴明の陰に隠れた才を見抜いていたからこそ取れる態度とも言える。 いずれは忠行を越え… その時にはこの忠平の血を引く者どもの繁栄のため、如何様にも立ち働いてもらわねばならぬ。そして、博将のためにも。 「博将様は、すこうしばかり大きうなられましたね」 「少しではないぞ。近頃の博将は熊ほども食すと、みなが感心しておるほどなのだ」 「熊でございますか。それではいずれ晴明も召し上がられてしまうのでしょうか」 「晴明は食べぬ」 「では右大臣様はお召し上がりになられると」 「おお、博将は大臣(おとど)を食らうつもりか」 「食べませぬ。これ晴明、そなたはなにかと博将のあげ足を取るが、いい加減にせぬと怒るぞ」 「これは申し訳ございません」 反省などしていないのはよく分かる。涼しい顔のまま階へ戻ると、博将を抱えたまま忠平に許しを得て孫廂へと上がっていった。 奥に設えられた、珍しい菓子を盛りつけた膳の前に来ると博将をそこに下ろし、自らは部屋の隅に控える。菓子を二つ握った博将は当たり前のように晴明の元へ走ると、その膝に座り菓子の一つを晴明の口元に差し出した。 「いただいてよろしいのですか」 「あれは大臣さまが晴明とともにと言うて支度してくだされたのだ」 「そうでしたか。ではいただきましょう」 紅を引いたような唇が博将の差し出す薄茶色の塊を含んだ。 途端、晴明の目が丸くなりそれを見た博将の顔に満面の笑みが浮かぶ。 この時代の菓子と言えば唐菓子(からくだもの)八種と果餅(もち類の菓子)十四種のことを示す。黒糖は既に天皇への献上品として持ち込まれてはいたが精糖技術のないこの国では菓子に使用するまでには至らなかった。唐菓子の中でも知られているのは、小麦と米の粉をあまちゃづるを煎じ煮詰めた汁でこね、胡麻油で揚げた" 策餅"であり、僅かな甘みを持ったそれが節会などの儀式の際に用いられたものとして伝えられている。 つまり、砂糖、黒糖というものは一切の普及がなく、甘みと言えば前述のあまちゃづるか蜂蜜から得るのが一般的であったため、今のような口に含んだ瞬間に甘いと感じる糖度の高い物は庶民の間では皆無と言ってもよいほどであった。 「これは…」 「黒糖だ」 「こく…それでは主上の、」 絶句した晴明を満足げに見た博将は、いつものように彼の膝へ向かい合わせに座ると支えるように手を引いた。彼の腰の辺りを抱えてやりながら口の中の塊を舌で転がしてみる。 これが黒糖。 未だ嘗て食したことのないその甘みを、物珍しく味わっている晴明に得意げな博将は彼の頬を自らの指で突付き笑った。 「主上より賜ったものぞ。甘いか」 「はい。なにやら口の中が痺れる心地にございます」 「そうか。博将もそのように思う」 噛み下すことなど到底出来ず、塊が小さくなるまで舌の先で転がしていた。同じように博将も、黒糖が尽きるまでそうしていたらしく、二人は束の間無言であった。そこにやってきた忠平は不思議そうに二人を見たが、やがて晴明から離れた博将が残りの黒糖の欠片を持って戻るのに気付くとくつくつと喉の奥で笑い上座につく。 「気に入ったか」 「晴明を驚かせてやりました」 「そのようなことに使わせるために振舞うたのではないぞ。だがさすがの晴明も確かに驚いたと見える」 「はい。しかし右大臣様、私にこのような…主上よりの賜りものなどを…」 晴明が躊躇うのも無理はない。主上より下される品々はそのものの価値も勿論高価であるし、なにより"賜る"という事柄自体に意味がある。個人が用意できるものであっても、そのあとに付く付加価値としては最高級品の更に上をいくと認識されるべきものであった。 「構わぬ。主上におかれては元より博将のためにと遣わされたのだ。気に入るように食せばそれでよい」 「身に余る幸せにござります」 「晴明、もう一つあるぞ」 二人の会話の間、両手を振りつつ控えていた博将は言葉の切れた隙を選んで再度黒糖を彼の唇に押し付ける。それだけでも感じる甘みに躊躇いつつ、黒糖を含まぬよう顔を逸らしながら博将の手を取った。 「一つをいただければ十分にございます。博将様がお召し上がりくださいませ」 「まだこうして二つあるのだ」 「しかし主上は博将様にと」 「ならばなおのこと。晴明と分け合うて食べたいのだ。口を開けよ」 「ですが」 「口を開けよ」 むうっとした顔で迫られる。指先で摘んだ黒糖をぐりぐりと唇に押し当てられ、拒んだところでもう捨てるしかないそれを苦笑しながら受け入れた。 意趣返しに博将の指先を舐めてやると、くすぐったかったのか首を竦めて笑う。愛らしいと目を細めた晴明は、けれどすぐ、その行動を悔いることになる。 「これ晴明、博将様は黒糖でお出来になられている訳ではないぞ」 「……申し訳ござりませぬ」 晴明の指を取り、同じようにぺろりと舐めた博将はそれが気に入ったのか彼の指をかしりと奥歯で甘噛みする。やめさせようと身動けば、調子に乗った博将は益々小さく粒の揃った前歯で小ネズミの木の実を食むような仕草を繰り返す。忠平の呆れたような声を背に、焦れば焦るほど面白がるような博将にさてどうすばと溜め息を吐きかけたところに来客を告げる女房の声が届いた。 その名を聞いた博将は、晴明の指を口に含んだままほっこりと微笑む。 小萩に導かれ彼らの前に姿を現したのは、晴明の師である忠行の嫡子。 賀茂保憲その人であった。
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