春明譚 4 夏の野に出でて、幼子、狐と出会うのこと 2 「よう参った。博将も待ちわびておったぞ」 「お召しにより参上仕りました」 忠平の声は幾分硬い。 全ては有耶無耶のうちに片付けられてしまったものの、彼が博将失跡という事態に大きく関わっていたことは確かなのだ。そして忠平はそれを善からぬことと認識している。寵愛する忠行の嫡子ではあるが許せることとそうでないことはしかと存在し得るし、騒動から二月も経たぬうち再び博将に近付けることを素直に認められぬのは尤もなことといえた。 折り目正しく、また涼しげな目元を持つ青年は自らが召し出された理由に当然思い当たることがあり、それが即ち博将のことである以上仕置きであると覚悟を決めてきたのだろう。整えられた衣冠に引き結ばれた唇が、悲壮なほどの決意を持って僅かに震えを伝えていた。 「保憲、そなたはやはりその大きさのままなのか」 晴明の指を掴んだままの問い掛けに、彼は微かに目元を緩ませ頷いた。 博将は、保憲と己は同じ年頃であると認識している。鬼に誑かされた彼は気の毒にも体だけを大人にされてしまったものと思い込んでいるので、忠平が問いにも"幼子を弄るようなお言葉は慎まれてくださいませ"と生意気なことを言っていた。 そして、程よき日に彼を招くようにとも、ほぼ無理矢理に頼み込んでいたのだった。 「明日は博将と晴明と、保憲も連れて船岡山へ参ろうと思う」 「船岡山へ、でございますか」 戸惑いを隠せない晴明は、抱えたままの博将の顔を覗き込もうとした。けれどするりと身を離した博将は保憲の前へ進み、まるで自らの弟にでも言って聞かせるように咳払いをする。 「船岡の山は遊猟の地。明日は大臣さま共々狐狩りを致すのだが、保憲も連れて参る。随身致すように」 「勿体のう仰せにございます。しかしこの保憲、固くご辞退申し上げまする」 「怖気づくか。怖くはないぞ、博将がついておる」 握った拳をぶん、と振り下ろすと次には晴明の元へ戻り顔を覗きこむ。 「晴明、そなたも恐れおののいておるのか」 「いえ私は…」 答えようがない。狩り自体には恐れなど抱くものではない。獲物が熊とも言われれば、さすがに初めて目の当たりにする大きさに怯える心は湧くことだろう。しかし"狩り"というそのものに対し臆病風を吹かせるようなことはなかった。 狩りといえば弓矢の飛び交うことが当たり前としてある。激しく吠え立てる狗を騎乗の公達が追い哀れな獣を仕留めるのだが、晴明にはその弓の軌跡の方が余程恐ろしく思える。幼い博将を伴うことですら頷けぬというのに、そこに保憲を加えるなど狂気の沙汰であった。彼の心は以前より穏やかなそれを感じ取れるが人とは一度憶えた苦痛を生半なことでは忘れられぬもので、晴明としては二度と、金輪際なにがあろうと大切な博将の端かに寄せることなど考えることすら出来なかったのだ。 忠平の前に手をつき、ご辞退申し上げますると繰り返す保憲にそうしてくれることを願わずにはいられぬ彼だが、晴明よりも色よい返事をもらえぬ博将は焦れ、忠平の元へ行くと直衣の袂を掴みゆさゆさとゆすぶり始めた。 「大臣さま、大臣さまから命じてくださいませ。明日は博将と共に参れと、大臣さまより命じてくださりませ」 「しかし博将、そなたを連れて行くことすら、大臣は躊躇うておるのだよ」 「なぜですか。博将が小さいからでございますか」 「馬に乗るのだぞ。強靭な弓を構え、狐に向け矢を放つのだ。見ていられまい」 「ですが博将も男にございます。いずれは狩りにも参りましょう」 「それはそうだが…むむ、困ったぞ」 博将には闘争本能というものがまるでない。人と争うことなど彼の意識の中には皆無なのだ。だから狩りに興味を持つこと自体俄かには信じられぬことであったけれど、その話が出た時の喜びようはそれは無邪気に愛らしく、その場に居合わせたもの全ての目を楽しませたことでそのまま日取りまでもが決められてしまった。 "博将への執心…なにやらおありではないのか…" 忠平の胸には僅かな翳りがある。それを口に出すことはあまりに恐ろしく、その思考自体を飲み込むより他なかったがそれでも繰り返し湧き起こる不安は大きくなるばかりであった。 「大臣さま、博将は晴明を伴いたいのです。それにお許しはいただいております」 「それは承服しておるが…しかしな…」 「そのために博将は参りました。晴明と、保憲を呼び寄せました。なりませぬか」 大きな瞳には早くも涙が湧きあがっている。零れ落ちるばかりのそれを指先で拭うと、小さな体を膝の上に抱きあげ宥めるように背を擦った。 「よい。分かったから、もう泣くでない」 「ではよろしいのですか?晴明と保憲にも命じてくださいますか」 「そなたが泣くのであれば致し方あるまいよ」 大仰な溜息を吐き、それから忠平は顔色を失う二人に厳かなる宣言をした。 「明朝、船岡の猟場へ参る。博将の供とし随身致すように」 「………かしこまりましてございまする」 そう言うより仕方ない。深くついた指の隙間に忠平よりも大きな溜息を吐き出した晴明は、博将に気付かれぬようそっと保憲を窺う。 なにか、もし、また何事か善からぬことでも企めば… 身の内に起こる荒ぶる魂の熱に自ら慄きながらも、それが博将に仇なすことであらば次こそは容赦すまいと決意する。人と獣の戦場には、必ず悪しき気が溜まるものなのだ。一度は鬼にその身を任せた以上、彼にはなにが起きてもおかしくはない、ならば随身仕り事に備えるのは我が身の務め。 睨む先の保憲はただただ情けない顔で忠平と博将を見ている。彼に取っても災難でしかない話だが、博将の言葉である以上逆らうことも出来ない。 それぞれの思惑を胸に秘め、その夜は静かに更けて行った。 晴明も保憲も、まんじりともしない夜が更け、東の空が僅かに白むかという頃二人は猟場へ向かう一行の列に加えられた。支度は全て忠平が整えてくれたものの、上の空の様子に焦れた博将は口をへの字に曲げ忠平の乗る牛車に乗り込んでいってしまった。互いに居心地の悪い空気に晒されながらの道中で、先に声を発したのは保憲の方であった。 「俺は狩りなどしたくはないのだがな」 「…私も」 同感ではあった晴明は低く答えたあと正面を向いたまま続ける。先よりも低く、潜めた声。 「お分かりいただけていることとは思いますが、猟場にて博将様のお側に近付かれますと…この晴明、なにを致すか己でも分かりかねますゆえお気をつけください」 「なにもせぬ。なにも…」 ここ二月ばかりの保憲は、確かに穏やかに過ごしている。陰陽師としての勤めを果たしてはいるが常に物静かに、控え目に振舞っていることは誰の目にも明らかであった。忠行はそれを物足りなくも思うのであろうが、息子の技量に多大な期待をかけすぎた自らの失態を恥じ咎めることなく彼の好きにさせている。 しかし晴明としては、賀茂家の屋敷内に暮す中でのことならばいざ知らず、このような場に博将と居合わせることなど許せようはずもないことで、いかに彼が"なにもせぬ"と口にしたところで鵜呑みにする訳にはいかなかった。 「保憲様には、晴明と共にお控えいただきますよう」 「ああ、そうしよう」 晴明の目の届かぬところで万一博将の身に何事かが起ころうものなら、きっとこの弟弟子はどのような理由付けをしても己の咎と決め付けることであろう。そうなればいかな諌めの言葉も通ずることなく、雑鬼の如くに祓われてしまうやもしれぬ。 未だ子供の晴明であっても、その力を知り抜いている保憲に取りそれは決して大袈裟な喩えではないことが知れている。あの時彼の体から吹き出した力のもたらす波は保憲の体をいとも簡単に飲み込み押し流して行ったのだから。 忠平の一行は、道中にて公卿らしき一行と落ち合い猟場を目指した。 その車を見た瞬間、晴明と保憲は無言で視線を合わせていた。互いの言葉を聞くまでもなく、確信に僅かばかり顎を引くと相手も同じように目を伏せる。厄介なことになった、正直なところ晴明は大声で喚いてやりたいほどに苛立ってきた。確認を取らなかった自らの失態ではあるが、尋ねたところで答えが返ることもなかったのは分かりきっているのでどの道いまの状況に変わりはないであろう。けれど彼にはこのような茶番に付き合う謂れはないし、なにより本来望んだとてありえぬ事態である。それを敢えて、このような形で同行を許されるのだから彼の考えに間違いはないだろう。 爪を噛みそうになり、保憲の腕にやんわり押さえられる。彼の顔は緊張に歪み、また微かな怒りも感じることが出来た。彼もこの茶番に気付いたのだろう。 けれど二人には付き従い、歩みを進めるより他に道はない。今更戻るわけにもいかぬし、そんなことの許されるはずもないのは十分すぎるほどに承知していた。 日も明けぬうちから歩き続けた一行は、遊猟の地船岡山へと到着した。 まず忠平が牛車を降り、続いて博将が降りてくる。小さな子供は退屈な道中を居眠りで過ごしたのだろう、まだ開ききらぬ眼(まなこ)で晴明の元へと進んできた。 それを遮るように忠平が抱きあげてしまったので、彼は不満そうに口を尖らせたが次の車の簾が上がると忠平の腕から既に設えられた毛氈の上に降ろされ、そのまま大人しく座しそっと手をつき深く頭を下げた。 博将の行動に確信を得た二人、晴明と保憲は、引いてきた馬や狩の支度を整える従者たちに混じり出来るだけ"彼等"に近付くまいとした。畏怖と言う言葉だけでは片付けられない緊張に背筋も凍る。 やがて、牛車の中から一人の貴人が降り立った。 その時には晴明も他の者達に習い深く手をつき頭を下げたので、直接その人物を見ることはなかったが勿論その顔を見たところで誰なのか判別できる訳ではない。けれど貴人の身分が都で、いやこの国で一番高く侵し難いものであるということは既に承知していた。 「博将よ。眼が開いておらぬぞ」 「開いておりまする」 毛氈の上に設えた席についた貴人は手招きで博将を呼び寄せると、皺の目立つ掌で彼の頭を撫でた。膝で擦り寄っていった博将は貴人の足元に座るような形だが、勿論そこからは遠く、また伏せている晴明と保憲にその様子は分からない。 「狩場はどうじゃ。まこと、朕に狐を差し出してくれるのか」 「はい。この博将、見事狐を捕(とら)まえまして、主上に献上仕りまする」 「頼もしいこと。のう、忠平」 「博将様の御采配に、臣一同心してお応え致す所存にございまする」 忠平の、聞きなれた温もりを含んだそれとは全く異なる、重く硬い声が木立の合間に響いた。伏せたまま大きく息を吐き出す保憲、奥歯を噛み締める晴明の上にもその声はずしりと圧し掛かり徐々に重みを増していく。居合わせたこれは最早"不運"としか言い様がないが仕組まれたことであるなら避けようもない。しかもそれが博将の意志であるならなおのこと… 「狐もよいが、いまひとつ朕に見せるものがあるのではないか」 「はい、あちらに控えておりまする」 慇懃な声音に無邪気な子供の声が被さる。 「博将の宝にございますれば、主上にも御目通り願いたく存知まする」 許しもなく走りだした子供の足音は真っ直ぐ晴明の元まで辿り着く。 肩に小さな指がかかり無理に体を引き起こされると、正面には満面の笑みの博将が、そしてその背後に座す人物が僅かに視界に入ったところで慌てて再度平伏した。 「晴明?」 驚いたような声で名を呼ばれる。躊躇いがちな手が袂を引く。 どうあっても拒めばよかった。出来ぬことと知りながら、それでも晴明は大人しく付き従ってしまった己自身を罵倒せずにはいられなかった。全く予想のつかぬことなどではなかったのだから。 「忠平、これへ」 「御意」 忠平は彼の随身に小声で晴明と保憲を手前に召し出すよう指示を与えた。直々のお召しであれば逆らうことなど出来ようはずもなく、二人は低く頭を下げたまま広げた毛氈の際まで進むよう促される。 晴明の手を取り、共に歩いてきた博将はそこまで来るとしっかり握り締めた彼の手を掲げるように押し上げ弾んだ声で宣言した。 「この晴明こそ博将の宝。無二の友にございます」 辺りから漏れる忍び笑いが耳につく。 面を上げよ、そう告げる声にも嘲りが含まれているように感じられた。 正面を見据えたその先に座す男を、晴明はひたと、まるで睨み付けるが如く見据え口を開く。 「陰陽師、賀茂忠行の元に師事致しておりまする。安倍晴明でござります」 「なるほど、そなたが"晴明"か」 顔色の悪いその男は、声と同じように嫌な笑いを浮かべた口元もそのままに晴明を見下ろしている。けれど身に染みついた尊大さも、その身分からすれば当然のことといえる。 今上醍醐天皇は、萎縮せずにはいられぬ威圧感を全身より発しながら晴明を見詰めた。 それは博将とは質を異なる太陽であり、黎明を迎えつつある月のような晴明を、また闇の中深くに押し戻すかのような猛々しい光を放つものであった。 |