春明譚 4

  夏の野に出でて、幼子、狐と出会うのこと 3

 

 

 

 

 「博将の宝と耳にし、これは是非にも見(まみ)えんと思うていたが…」

鼻白んだような顔を隠しもせず晴明のことを品定めするかのように眺め下ろす醍醐天皇、御名敦仁(あつぎみ)は、真っ直ぐに己を見詰める冷たい煌きを持つその瞳に少なからぬ恐れを感じていた。時の帝を前にして、この童の落ち着き振りは尋常ならざるものだ。晴明を初めて見る者どもはみな、その異様とも言える光景を遠巻きに眺めるだけで誰も声をあげることは出来なかった。

 「晴明よ、そなた博将の寵愛を一身に受けておるようだが、それを奢るようなことはないか」

 「恐れながら帝に申し上げまする。私如き一介の童をお取立ていただきました御恩は生涯を賭して報いるべきことと覚えておりまする」

 「左様か。いまの言葉、しかと胸に刻みつけよ」

 「はい」

彼らのやり取りを丸い目で見詰めていた博将を呼び寄せると、その頭に敦仁の指が触れる。結い髪を撫で、晴明を見るものとは全く異なる深い眼差しで博将を見詰めそして口を開いた。

 「これは克明の忘れ形見。朕にしても大切な宝である。その宝を預けおくに相応しいものであるか、その働きとくと検分致そうか。まことそなたに狐を捕らえることが出来るのか…楽しみであることよの」

そういうことか。

表情には出さず、けれど晴明は奥歯を強く噛み締めた。そういうことか。腹の中に沸々と怒りが湧いてきた。このような大掛かりな場を儲けたその理由も、全てがこの身の正体を突き止めんが為ということなのだ。狐の子と噂される、安倍晴明の正体を晒さんという企てのために相違ないのだ。

親王である博将に近付く生まれの卑しい小童を蔑むのは構わない。退けようというのなら、その絶大なる権力で引き離せばよい。博将にとっての晴明、晴明にとっての博将、その絆を知らぬものどもに二人を分かつことなど決して出来はしないと確信する彼に取り、それは恐怖を感ずることすらない単なる横槍でしかなかった。けれど狩とは名ばかりの、"同属を狩る"行為に対しいかなる反応を見せるのか、それを見物しようという企みに博将を担ぎ出したことが許せない。彼はただ、尊敬する帝の前に晴明を紹介したいだけなのだ。自らの友を認めて欲しいだけなのだ。ただ一人、子供同士で接する事の出来る初めての友を、祖父の目にも止めて欲しいと。ただそれだけの願いなのだ。

 「しかし狐を追うは狗の務め。晴明、そなたが追われては博将の随身は適わぬぞ」

 「はい」

口惜しい気持ちを押さえ、晴明は深く手をつき伏せた表情に初めて怒りを乗せた。この国を統べる者のあまりに思慮浅い言葉に、修行の足りぬ身は嫌でも心を乱されてしまう。なにもかもを諦めたつもりだったけれど、彼は博将に出会ってしまった。無垢な心に触れ、"信じる"ということを覚えてしまった。だからその思いを穢れた目で見られることすら我慢が出来ぬのだ。怒りを感じずにはいられぬのだ。

 「主上、晴明は随身ではありませぬ。博将の友にございまする」

 「そなたには、まだまだ世の理というものが見えておらぬのだ。よいか、人には生まれながらに持つ宿命というものがある。博将には博将の、晴明には晴明の、なさねばならぬ大切な役目というものがあるのだ。そなたは未だ幼く、それらのことを見極めるための目というものも定かではない。いずれそなたがこの都を支えるものとし自らの力で生きるべき場を手に入れるまでは、朕の申す通りに致しておればそれでよい」

 「よく…分かりませぬ」

唇を尖らせ、博将は不服を顔一杯で表したが敦仁はそれを気に止める風もなく支度を急がせるよう忠平に命じた。

博将は晴明と共に下がろうとしたが許されず、そのまま敦仁の足元に座らされ情けなさそうに晴明を目で追うが、冷めた表情の己を見せたくはない彼は応えることなく背を向け、相手にされないと気付くと益々つまらなそうに俯いていた。

 

 

狗たちが吠えるのを静めながら、保憲が呟く。

 「とんだ茶番に巻き込まれたものよ」

 「…申し訳ありませぬ」

 「お前が謝ることはない。しかし…帝ともあろう御方が"狐狩り"とは…」

 

晴明の母親が狐であるという噂は、彼の行くところでは必ず立てられるものであった。誰が、どこから聞き付けてくるのか知らぬが今となっては気に止めることもなくなりつつある"侮辱"だった。

母親はいる。人の形をした人そのものの女が晴明の母だった。死別したと聞かされていた母は晴明が物心付くか付かずのうち宿下がり(実家に帰ること)し、そのまま彼の元に戻ることはなかった。なにが原因なのか、それを尋ねることはしなかった。晴明の目から見た父親にはおよそ人の持つ愛情の欠片というものも感じられはしなかったから、理由といえばそれが理由だったのかも知れない。

また晴明のうちに不思議な力があることは赤子のうちから周知の事実であった。身動きできぬはずの乳飲み子が、欲するものを引き寄せたり気に入らぬものに手近の品をぶつけたり、そういったことが頻繁に起きていればたとえ我が子であっても気味の悪い妖しと映っても仕方のないことではあったろう。

長ずるに連れそれらの力は薄れたが今度は人の目に見えぬものを見るようになった。なにもない壁や宙に向かい何事か熱心に話し込む姿を見たものたちは忽ち彼を気触れと呼び忌み嫌いだしたが、投げつけた石つぶてにより生じた傷が見る間に癒えていく様などを目の当たりにし不可解なもの、名付けようのないもの、即ち鬼の仕業と噂を立て終いには"狐の子"と呼ぶようになっていった。

好きにすればよい。

晴明にとり人の陰口などは気に病むほどのものではない。真実はこの胸にあればそれでよいし、煩わしいことに付き合わされるより一人静かに物思いに耽る方がよほど安寧を図れた。

今となってはそのお陰で忠行の元へ弟子入りすることが出来たのだから、いっそ感謝してもよいほどだ。投げやりさがないとは言えぬが口さがない人の世などに縛り付けられ流されるより、よほど清々として自らの呼吸が誰気兼ねなく出来ているいまこそが幸せなのだ。

しかし、保憲の言う通り今度ばかりは腹に据えかねる。帝の御位にあるものが民草の噂などに乗せられわざわざこのような座興を催すとは、臣民一同、恐れ多くも賢くもと上げ奉るに価せぬ虚けではないか。

尤も、人にして神であるなどと名乗れるのが彼らだ。"人知を越えた"思考を持ったとしても不思議はない。

思いつく限りの悪態を口の中で繰り返し、やかましく吠える狗の頭を一つばかり小突いてやった。様子を窺っていた保憲は思わず吹き出し、すっかり拗ねて不貞腐れた晴明の耳元で囁いた。

 「そう腐るな。博将様はお前と共に狐を狩るのだとそれは楽しみにしておられる。初めてのご経験なのだ、お力になって差し上げよう」

 「それは、…重々承知いたしております」

 「ではもう、その様に膨れた顔はするな」

 「膨れてなどおりませぬ」

 「そうか?ほれ、あのようにご心配気なご様子で博将様がこちらをご覧になられているぞ」

はっと振り返ると、身の丈に合わせた飾り矢を手にした博将が最早泣き顔で晴明を見ている。せっかくここまで共に来たのに、引き離された上に晴明の機嫌が悪いのだ。すっかり泣き虫になった博将にその事実は重かった。

無理を言って連れ出したことを悔やんでいるのだろう。噛み締めた唇が震え大粒の涙はいまにも零れそうだ。

常であれば忠平が、その優しい腕で抱き締めてもくれようが帝を前にその孫である博将に易々と触れることは出来ない。ちらりちらりと晴明に視線を流し、咎めるように眉を寄せていた。

 「博将様は、ほんに愛らしい御子様だ」

苦笑しつつ、自らが使うことになっている弓を手にした保憲はしかしはたと手を止め晴明を見詰めた。

 「…いかがしました」

 「晴明、ちと尋ねるが…お前は狩をしたことがあるのか」

 「ございますよ。母に習いねずみやいたちなどを追い回しておりました」

 「戯言はよい。しかし…いや困ったな」

 「なににお困りですか」

 「俺は騎乗することも久しければ、弓を持つことも久しいのだ。その上、弓を射ることとなると…」

 「なりますと?」

 「初めてのことだ、何処へ飛び行くのか定かではない」

暫し、二人は見詰め合う。

 「返し矢、の要領でよろしいのではないでしょうか」

 「ふむ、返し矢か。それは妙案」

晴明の背筋を生温い風が吹き抜ける。

 「しかし返し矢となると、俺は狐に呪詛されておるということになるな。…あながち違うてはおらぬが」

うむ、と頷く兄弟子を哀れみの目で見詰める。確かに晴明とてこのような大掛かりな狩の経験など一度もない。だからこそ単なる随身として同行したのだが、それは保憲とて同じことと思っていた。

経験もないのに、騎乗したその姿で弓を射掛けるおつもりか。相手は狗よりも鋭敏なる狐であるというのに。

この方、憑き物の落ちたのはいいとして、なにやら大切なものまでなくされたのではないか。いや、元より良家の嫡子として"ぼけ"たところのおありになる方ではあったが。

口に出さぬ思いも、嗜みを忘れたいまの晴明はそのまま顔に表していたのだろう。保憲の肩が不作法にもひょいと竦められた。

 

 「これ博将、なにを泣くことがあるか」

 

敦仁の足元に座したままの博将は、ついに声を上げて泣き始めた。嗚咽の中に聞こえる"せいめい、せいめいが"という悲痛な声は、幸いかれのするしゃっくりに紛れ誰も聞き取ることが出来なかった。

 

 

やがて、博将の泣き声に紛れ狗を放つ合図が響く。

 

森の中を、黒や茶の狗たちが駆け抜けていく。