春明譚 4

  夏の野に出でて、幼子、狐と出会うのこと 4

 

 

 

 

それでは、程よき頃にお出ましくださりませ。

そう言って保憲は栗毛の馬に騎乗し、忠平のあとに続いた。彼らは博将のために狐を生け捕りにし、連れ帰ったそれを獲物とすることに決めたようだ。自らもその場に赴くつもりでいた博将は不服そうだが、晴明が残ることに気付くとまだ赤く潤んだ目をしばたかせ"きっと、丸々と肥えた狐を捕らまえて参れ"と威厳を込めた口調でいい慇懃に頷きもした。そして敦仁を先頭に一行が去っていくと、警護の侍に一瞥をくれ−どうやら口封じのつもりらしいが彼にその真意は伝わったのかどうかは甚だ疑問だ−牛が草を食む様を眺めていた晴明を手招いた。

ちらり、視線を這わすと侍が博将を見下ろしている。それから晴明の方を睨み付けたので、敦仁より己を近づけてはならぬと言い含められているのであろうと鼻で笑った。

博将はまだ手招いている。むきになったように、やがて毛氈の上に立ち上がると腕を振り上げて"ここへ来い"と知らせている。さて、いかが致しますかな。意地悪く気付かぬふりをしていると、ついに焦れた彼は晴明目掛けて走りだした。驚いた侍が慌ててあとを追い、細い体を抱き止める。その途端。

 「触れるなっ」

ぴしり、と飛んだ声はとても幼子のものとは思えぬ厳しさだった。

 「博将に触れるな。無礼であるぞ」

泣いて潤んだままの瞳は、けれど宮廷でも一二を争う偉丈夫の動きを封じるにはあまりある強さと、なにより侵し難い風格が漂っていた。小さく幼い童であっても、彼が天皇の血を引く高貴なる身分であるという証を見せ付けられた瞬間であった。

咄嗟に手を引き侍が控えると、いま見せた威厳も消し飛ぶような泣き顔で晴明の元に駆けて来る。いつも通り、一杯に伸ばした腕が彼だけを求め揺れている。

走り寄り、その身を腕の中にかき抱くとわあわあと声を上げて泣き続けた。背を撫でても、頬の涙を拭っても、その嗚咽は止まることなく繰り返されやがて泣き止む頃には晴明の袂はぐっしょり濡れて重く感じられるほどになっていた。

 

 「主上は、主上は晴明を、晴明を博将の友だと、は、思うて、くだされぬ、ぬ、のだ」

泣いて、しゃくりあげるそれが癖になってしまったように、震える喉が締まるたび言葉も詰まる。宥めるように背を叩くと、いつにもまして甘える仕草で晴明の首筋に埋めた鼻を啜り上げる。

 「博将様は、まことは晴明如き民草の小童などお相手いたされるお方ではありませぬ」

 「違う。ちが、うぞ。晴明は友だ。ひろ、博将の、友なのだ。晴明とてそう、言う、てくれたではないか」

 「はい。晴明は、勿体無くも博将様のお側に侍らせていただくことをなによりの幸せと思うておりまする」

 「うむ」

納得したのか、大きく息を吐き出すと漸く嗚咽を収め泣き止んだ。けれど晴明の首に回した腕は緩まず、更にしがみつく力を増した。

 「その様にされては博将様のお顔を拝見出来ませぬ」

 「嫌だ。離れてしまうつもりであろう」

 「離れませぬ。晴明は博将様のお側にいてこそ、生き長らえる甲斐もございますれば」

 「博将も、晴明とともにおることがなににも勝ることぞ」

きゅう、としがみつく腕に愛しさが募る。その心のまま博将を抱き上げると、控えたままの侍が恐ろしい目で睨み付けてきた。けれどその程度のことで怯む晴明ではない。彼は睨む相手に嫣然と笑いかけ森の中でも開けた一角であるその周囲を歩き始めた。

 「博将様はこのようなところに参られますのは初めてのことでございますか」

 「うむ。後宮より他に訪ねたことのあるのは大臣様のお屋敷だけだ」

 「このような森の中には、獣も蟲も、鬼も暮しております。ですから決して、晴明の側を離れられてはいけませぬ」

 「離れぬ」

ぴたり、と胸に寄り添いそれからあちらこちらを指で示し"あれはなんぞ"、"晴明、教えてたも"と目に映るもの全てに興味を持ち尋ねてくる。丁寧に一つ一つに答えていると、やがて森の奥よりざわつく気配が広がってきた。

 「晴明」

 「大事ありませぬ。皆様が獲物を追い詰められたのでしょう」

 「狐か」

 「この辺りには狐のほかにも様々な生き物がおりますので…さて、なにが捕らえられて参りましょうか」

 「博将は狐がよい」

 「なぜです」

狐、狐と博将の口から出ることは、実は晴明にとり嬉しいこととは言いかねた。事実ではなくとも、狐の子と言われる己に狩るという言葉はやはり気味のいいものではない。

物言いに刺を含んだつもりはない。

けれど晴明の問い掛けに俯いた博将は、震える小さな指で彼の襟元を掴み締めた。躊躇うように、開きかけた口が閉じ、また開く。

 「博将様」

 「晴明は狐ではない」

蚊の鳴くような声だった。

 「晴明は、狐などではない。狐は、けーんけーんと鳴いて、作物を荒らし人を誑かすのだ。大きな尾をもち、すばしこい足を持ち、そして狡賢い知恵を持つ。それが狐だ。そうであろう」

 「私も生きた狐を見る機会は稀でございましたので、確かなことは申し上げられませぬが」

 「しかし狐は狐であり、晴明ではない。晴明は狐などではないのだ」

泣き癖の付いた瞳から、尽きたかと思われた涙がまた一つ零れる。指先で拭うそれは温かく、晴明はそっと、その雫に唇を寄せた。

 「主上は晴明のことをあれこれとお尋ねになられたが、博将の言うことには耳をお貸し下さらぬ。晴明を知らぬものどもの言ばかりを聞き入れられて、ならば狩をすれば分かるのではないかと仰せになられたのだ」

 「博将様に、そのようなお話しをなされたのですか」

 「違う。博将は眠った振りをしたのだ。大臣さまがお越しになられたときに狩のお話をされて、その後晴明のことをお尋ねになられたのだ。主上はどこぞの者より聞き及ばれたことを大臣さまに尋ねられ、それに"違います"と博将が答えても信じては下さらなかった。なにやら怖い顔をなされたので、博将は眠った振りをしたのだが、その時に申されたのだ。狐の子など、端かに置くは右大臣の失態でもあると仰せになられたのだ」

忠平にとって博将は確かに血縁ではあるが、繋がりで言えば主従の身でしかない。帝が許さぬものを臣である彼が押し通すことなど出来ようはずもなく、このままでは二人が引き離されることも十分考えられた。

 「狩に晴明を召しだし、自身に狐の命を取らせるべし。躊躇いなくば人であり、束の間でも躊躇うならばそれ即ち狐の子に違いなし、と…」

俯いた頬にまた一粒の涙が零れる。

 「だから博将は、博将の捕らまえた狐を見事晴明に討たせたかったのだ。主上のお疑いをどうにもお晴らししたかったのだ」

 「そのようなことをお考えであられましたか…」

全ては晴明のために。

心根の穏やかな博将が、なぜそれほどに狩を、狐をと訝しく思うていたのだがその様な故あってのことであれば得心がいく。

敦仁の心も、忠平の心も、そして博将の心も。

それぞれの思惑は様々だが、幼い彼の優しさで溢れた心根を汚すような疑念と不安を抱かせたのは許し難い罪だろう。友と定め慕う相手を否定され、どれほど傷付き情けない思いをさせただろう。全てに抗うにはまだまだ無力すぎる己に腹を立てながら、気付かれぬよう奥歯を強く噛み締めた。

負けぬ、と。

この先、いつまでも不甲斐ない自分ではいないと。

幾度か誓ったその思いをまた繰り返し胸に滾らせる。必ずや力を得ると。

決意を燃やす。

 「博将様の仰せであれば、この晴明いつでも狐になりましょう」

 「嫌だ。晴明は狐などではない」

 「ですから、博将様がお望みとあらばそれを厭うものではないのです。しかしこうして否と仰せになるのであれば、借りにこの晴明、まこと狐であったとしてもその正体すら変えてご覧にいれまする」

 「…晴明は…狐ではない」

 「はい」

 「もし…もし、そうであったとしても、博将は…」

 「晴明は晴明でございます。名を授けてくださいましたあの時より、この身は"晴明"という性(さが)の生じたものなのでございます。博将様の望むままに…それがこの晴明なのでございます」

名の持つ力。

名付けること、名付けられること。本然を生じること。本然に縛られること。意志をもちその意志に従うこと。自我。そして本能。

博将の与えたそれらは晴明の中で膨れ上がり、目覚めた彼の意志により強く硬くつき固められている。それを覆すことは既に彼自身であっても出来ないところにまで育まれ、そしていまこの時も着実に熱く息づいているのだ。

澄んだ瞳がじっと見詰めてくるのを、同じように濁りのない眼差しで見詰め返す。彼にだけはなにものをも隠すまい。そう決めているから逸らすことはない。恐れることはない。

胸に張り付く幼子を、精一杯の愛情で抱き締め安心させるよう幾度もその背を撫でてやる。温もりはそのまま己の心をも解す"人の心"そのもので、こうして彼を腕に抱く限り人の世にも、人の命にも自らを繋ぎとめておくことが出来よう。

彼とともにあるためならば。

どのようなことでも厭わぬと、声を限りに叫ぶことが出来る。

人であるのは彼と過ごすため。そう言ってしまえば、それはそのまま自らを"人ではない"ということにもなるが、博将によりこの世に生を受けた彼に取りそう表すのが一番正しいことのように思えた。

首筋に埋められた頭をそっと撫でると、丸い、大きな瞳が晴明を見上げる。全ての信頼と全ての愛情を込めた眼差しで見下ろせば、温かな唇がそっと己のそれに重ねられる。

侍には背を向けていたので見られることはなかったろう。けれど口元だけで忍び笑うと、博将を嗜めるためぽん、と腰の辺りを叩く。つい先日、忠平に"膳に乗せられたものは残さず食すこと"と言い付けられ、幾度頷いても疑ぐる彼に"それでは博将の正直な部分で誓います"と言い晴明を慌てさせたばかりなのだ。

立ち上がった博将に合わせ、汁物が零れるように術をかけ彼らの気を逸らし留めたものの、その後に重々約束をしたがまこと理解しているのか甚だ怪しい。

 「博将様、これは二人の秘め事にございます」

 「分かっておる」

 「とてもご理解いただけたようには思えませぬが」

 「分かっておる。知れれば誓いが破れるのであろう?晴明と交わした誓いの言葉はどれも大切なものばかり。決して破れることのないよう誰にも知られぬようにするぞ」

 「まことにございますか」

 「うむ。…また一つ誓おうか」

 「博将様…」

ん、と伸びあがりその愛らしい唇が突き出される。これは早計過ぎたかと、苦笑するより他にない。

甘やかな子供の香りの、ふわふわと柔らかい博将の体を抱き締め晴明はくるり、くるり、と回ってみせた。巡る視界に驚き、そしてきゃあきゃあと歓声を上げる彼を更に胸元深く抱え込みそっと耳元に囁き掛ける。

 

 「二人きりの秘め事にございますよ」

 

こくり、と頷く小さな頤が僅かに動き言葉を紡ぐ。

 

 「博将と晴明の秘め事だ」

 

ふうわり、と、笑う。

 

 

 

 

狗の声が高く響く。

侍の、今度こそ博将を招き寄せる声に素直に従い、彼を毛氈の上に降ろしざわめく森を眺めやる。

獣の匂いが強くなり、やがて馬の嘶きが迫ってきた。

茂みを揺らすなにかが近付きそしてその揺れが突如彼らの前になにものかを吐き出した。

博将の歓声が上がる。