春明譚 4 夏の野に出でて、幼子、狐と出会うのこと 5 「見よ晴明、狐だ」 「子狐でございますね」 彼らの前に現れたのは、生まれて間もない子狐であった。目は開き、走ることも出来るが親から比べれば大分小さな体であり、随分逃げ回っていたのか全身で呼吸し怯えた眼差しで周囲を見回している。 博将の声に気付き、すぐにでも逃げようとしたのだが数歩と行かぬうち狗の声に怯え太い尾っぽを尻の下へ巻き込み戻ってしまう。ならば反対の茂みへと身を翻すがそちらからも吠え立てる声がする。 狗や、狩に出向いた一行はまだ戻る気配はないがそれでもこの周囲に獲物を追い込んだのは確かであろう。もう間もなく捕らえられるはずだ。 博将の前に回った侍が強靭な弓を構え子狐を狙う。追われているのは母親か、晴明が眉を顰めその様を見ていると不意に立ち上がった博将が侍の腿の辺りを叩いた。 「なにをしておる」 「は、あれこそは狐にございますれば、臣、博将様になり変わり見事射止めてご覧にいれまする」 「あれに弓を射かけるのか。まだ子供ではないか」 「しかしあれこそ狐でございます。間もなく恐れ多くも帝の御手ずから獲物を捕らまえお戻りになられましょうが、博将様よりお先にこの狐を献上なされればさぞやお喜びになられましょう」 「だが子供だ。まだ小さな狐ではないか」 「なりは小さくとも狐は狐。また追われておりますのはこれの母親に違いありませぬ」 「なに、母狐もおるのか。では親子ではないか」 「恐らく」 言いながら、いま一度弓を構えた侍の鎧を博将の拳が叩く。子狐は行くも帰るもならずという風に立ち竦みただただ怯え蹲っていた。 「主上が追われておられるのはこの狐の母親なのだな?」 「子を逃すため、自らが囮となっておるのでしょう」 「いじらしいではないか」 「は、…はあ」 なにを言われたのか理解し兼ねた侍は、思わず視線を晴明に這わせてしまう。彼は澄ました顔でそこに座し、目前の狐を眺めている。 「そのような太い矢で射ればあの狐は死んでしまう」 「しかし狩にございますれば」 「博将が欲しいのは大きな狐だ。あのように小さなものの命まで欲しい訳ではない」 「ではお見逃しになられるのですか」 「うむ」 仕方なく弓を下げ、けれど子狐がこちらに走り寄らぬよう博将の前に立ちはだかる。それを邪魔だと言いたげに腕で払うと、彼は興味深げに震える子狐を眺める。 「晴明」 「はい」 「狐とは、まこと大きな尾っぽをもっておるな」 「親なれば更に大きな尾にございます」 「これほどか?」 指先でまるを作り見せてくる。無言で首を振り、それより三回りは大きな輪を作り見せてやると目を見開き、それから少し、狐の方へにじり寄る。博将の警護を役目とする侍はその視界には入らぬ位置に控えると、万一に備え彼からは見えぬよう弓を持つ手に力を込めた。 「これは女子か」 「こうして眺めているばかりでは分かりかねまする」 「なぜだ」 「捕らえ、腹を見れば分かるかと」 「そうか。では捕らえよ」 「捕らえるにはやはり弓を射掛けぬことには」 「それはならぬ。…そうか、では諦めよう」 こちらから攻撃の気配が消えたことで、疲れ果てた子狐はその場に蹲り震えるままになってしまった。早く逃げねば狩人たちが戻ってくるというのに。 晴明は目前の小石を摘むと小さく呪を唱え、掌に乗せたまま唇の前に差し出した。ふっ、と息を拭きかけると、それは子狐の足元に落ちその弾みで飛び上がると慌てて茂みの中へと逃げ込んで行った。 「行ってしもうた」 「母親が捕らえれられれば戻るやもしれませぬ」 「なぜだ」 「あのように小さくては、親とはぐれ生き長らえることはまず難しいことでございます」 「では母親も共に逃がしてやればよかろう」 「それでは狩ではございますまい。此度の狩は博将様のお望みであられると承っておりまするが」 「むむ」 腕組みをした博将はそのままの姿勢で晴明の元へ来ると、当たり前のような顔で彼の膝に腰掛けた。いつもの通り腕を回し支えてやると、組んでいた腕を解きぺたり、と胸に張り付いてくる。 「いかがなさいました」 「晴明、狐を殺すことは出来るか」 「出来ませぬ」 「なぜだ。殺せぬと言うなら、主上は晴明を"狐の子"とお認めになられてしまうのだぞ」 「晴明は晴明にございます。狐を殺すなどと、それは"晴明"のすることではございません」 「どういうことだ」 「博将様が"殺せ"とお命じになられたとしても、この晴明、無闇に生き物の命を奪うことなど出来ませぬ。ましてそれが私自らの身の証を立てるためなどと、私欲のみであるなら尚のこと従うことは出来ませぬ。たとえそれが帝の御言葉であろうとも、出来ぬものは出来のです」 「しかしそうせねば晴明の身が危うい。博将とも、もう逢えぬようになるやも知れぬのだぞ。それでもか」 「はい。命とは人の作り出したものではなく、尊く冒し難い力により生み出され、育まれるものなのです。帝であらばそのことは重々御承知の上のことと推察仕りますゆえ、そのような無体を仰せになられることはないと存じ上げまする」 「主上は…主上は狐と博将をともにしておくことなど許さぬと仰せになられたのだ。晴明が狐を殺さねば二度と逢わせてはならぬと…狐の子を野放しにはしておけぬと…」 いまにも溢れそうな涙が瞳を潤ませる。小さく震えているその姿は先ほどの子狐を思い出させ、もし博将がまこと狐の化身であれば自らも喜び勇んで野山を駆け巡る狐になると思わせた。しかし彼が人であり、博将である以上晴明は晴明であり続けねばならない。側に。 居続けねばならない。 「私がどこに生まれ、どのように育とうとも、それは最早必要のないものでございます。晴明と名付けられたその時より、この身は博将様の御心のままにあるのです。狐を殺そうが殺すまいが私の本然に変わりはなく、また"ものの命を奪う"ことを博将様がよしとは思うておられぬことも承知いたしておりますゆえ、私は狐を狩ることなど致しません」 流れるように口にした言葉は常の彼の覚悟である。誰にも汚すことは出来ず、またそれを違えさせることも出来ない。冷たいほどの光に煌くその瞳を見て、博将ですら口を噤む。彼の意志を曲げさせることは出来ないのだと、幼心にも理解せざるを得なかったのだ。 「では…では主上にはなんと言えばよい。晴明が狐であれば…そう仰せになられては…」 「今一度お伺いいたします。博将様は、晴明に狐を討てと申されますか」 「母と子で、森の中に暮しているものを追いたて殺すなど出来ぬ」 大粒の涙が頬を伝うのをそっと指先で拭い、優しくその背を撫でてやる。父と別れ、母と別れた博将にたとえ狐であっても引き裂くことなど出来ようはずがない。はじめからいかに晴明のためとはいえ、この博将に自らの手で"生きるもの命"を絶つことなど出来ようはずがなかったのだ。 それを知りつつも彼にそうさせようとする敦仁の真意が量れない。彼は博将を大切にしているのではないのか。それ故に己を遠ざけようとしているのは分かるが、ならば博将を伴わず自分だけを召しだし狐の前にでも放り出せばよいのだ。それで"狐の子"と定められても、その場で斬られることとなっても、博将の目に映らぬのならそれはそれでいい。勿論黙って殺されるつもりはない、何がしかの策を講じ窮地より逃れる術はいくらも浮かぶ。 「博将様、間もなく皆様がお戻りになられるでしょう。首尾よう運べば母狐は生きたまま捕らえられておるはずです。しかしもう、私にこれを討てとは申されませぬか」 「言わぬ。あの子狐の元に帰してやらねばならぬ」 「生きていればそう致しましょう。ですが万一、既に息絶えていた時は…」 ひくり、と背が引き攣る。 「博将の所為だ。狩に行きたいなどと申したから…あの狐は一人になってしまった。親をなくしてしまったのだ」 「まだそうと決まった訳ではございません。ですが手負いの傷が深ければ、生かしてやることの方こそ苦痛になることもあるのです。その時はどうか、ご自身を責めたりすることのなきよう」 「…だがもしそうであれば博将の所為だ」 「そう仰せになられるのでしたら、狐の子と噂される私にこそ責がございます。その時はまず晴明をお叱りください。よろしいですね、私をきつく叱らねば、博将様はご自身を責めることをなさってはいけません」 「晴明に罪はないぞ。だから叱ることも出来ぬ」 「では博将様にも罪はございません」 ただの屁理屈に過ぎないが、強く言われるとそんな気になるのか首を傾げた博将はやがて小さく頷いた。 「晴明を叱ることは出来ぬ。分かった、もし、狐を生かしてやることが出来ずとも博将は泣かぬ。それでよいか」 「はい」 泣かぬと言いながらも既に潤みきっている眼をそっと拭ってやりながら、脇に控える侍を流した視線で見遣る。今のやり取りを聞いていれば事情は分かろうが、彼も晴明が狐ではないかと疑うものの一人なのだ。皇孫を誑かす妖しの言うことと、胡散臭げな眼差しで眺め返されたが彼は唇の端に笑みを浮かべると侍に向かい薄く唇を開き呪を唱えた。 保憲の一件以来、自らの持つ力がより強くなった自覚がある。人の心に働きかけ、見たものを見なかったことにさせたり聞いたことを聞かなかったことにさせたりと、その程度のことは出来るようになっていた。 侍は幾度か瞬きをすると、どこか呆けたような表情になり四方に視線を飛ばし始めた。何事かを思い返そうとしているようだが、繰り返すたびその感覚は薄れていく。やがてなにを思い出そうとしていたのか、それすら分からなくなる頃、一際大きな狗の声と馬の嘶きが響いた。そして"縄を打て"という叫びに続き見事獲物を捕らえたのか男たちの歓声が上げられた。 「どうやら、首尾よく生け捕りになされたご様子ですね」 「殺してはおらぬのか」 「はい」 頷いてやると安堵したように肩で息をつく。 さて、なんと言いくるめたものか。 縋る博将をあやしながら、晴明は薄く微笑んだ口元を釣り上げる。 やがて森の中から興奮しきった気配が近付き、晴明は笑いを収めた。 首と四肢に幾重も縄を巻かれた狐の体が引き摺られてくる様を、彼は冷たく煌く両の目でじっと見詰め続けていた。 |