Eraser 誰もが口を閉ざしていた。 父の言葉に賛同も、異論も唱えることなど出来なかった。 青年兵の中でも特に若く、容貌の幼く見える者を二人選び供に付ける。 出発は午後、大陽が傾き始めた頃に決められた。 なるべく人目に付かぬよう郊外へ出る。 あと二時間もすれば辺りは闇に包まれる。直進出来れば真夜中過ぎにはことを為し遂げられるだろう。油断は出来ないが踏み入った森の中は思いの外静まりかえり、近くに敵のいる様子もなくいつもの通り穏やかだった。 会話が途切れがちになるのを防ぐため、彼は実際に身の回りで起きた面白い話題を並べ立てる。家族のことは持ち出せず、自分に対し敬語を使いそうになる兵士にはさりげなく目配せをしながら、それでも懸命に“自然”を装う。日暮れまでは、そうして時間を費やした。 辺りが暗くなり、足下が覚束なくなった頃に漸くランプを灯した。 夜に入ってからは会話を控えた。暗闇に乗じて移動した方がいいのは当然だ。 時計を見ると時刻は午後八時になろうと言うところで、これからまだ三時間近く歩かなくてはならない計算だった。恐らく森の一番深い部分にガンマ団が潜んでいるであろうと推察されたため、これでも楽な経路を辿ってはいるのだ。それに泣き言など言える状況ではない。 木々に塞がれ、月も、星も見えない。 この一歩が作り出す“日常”を守るため。 「…静かですね」 青年兵が呟く。 無言で頷いたが、闇の中では見えなかっただろう。声を出そうと思ったが、なぜだか喉に張り付いて言葉は出てこなかった。 「静かですよね」 もう一度。 聞こえた声に、今度は答えようとした。 「この森には…生き物が、いないのか」 ひらり。 ひらり、と。 生き物がいない、という声に応えるよう蝶が舞った。 赤い蝶はヒラヒラと、まるで風に流されるよう木立の間を抜けていく。 再び、ひゅっ、という音がする。 蝶と。 不自然な音とともに、体の左右に感じた温もり。 瞼が、落ちる。 目が覚めると、そこは白い明かりに満ちた異世界だった。 土壁ではない金属質の囲い。寝かされた寝台も簡素な作りで、部屋には自分と、ベッドと、それだけしかない見付けられなかった。扉さえ、どこにあるのか分からなかった。 「やあ、目が覚めたようだね」 壁と見分けの付かなかった一角が、微かな物音で口を開く。 「気分はどう?きみには一切の危害を加えぬよう言っておいたんだけど、さすがに大人しく従ってはくれなそうだからね。お招きだけは手荒になってしまったよ」 言いながら歩いてくる。まるで旧知の仲のような気安さで微笑み、蒼い瞳を見せつけるように近付けた。 「大事なお手紙だったみたいだけど、血の染みが付いてしまってね。申し訳ないが処分させてもらった。尤ももう必要のないものになってしまったから、構わないよね」 絶望は、目覚めたときから感じていた。けれど突き付けられればなんとあっけないことで、力の抜けた体はフラリと倒れ込みそうになる。 「残念だよ。私も自分の目で見て、これなら取っておいてもいいかなと思ったんだけどね。あんな手紙をきみのような少年に持たせた上、危険な夜の森を歩かせるような大人ばかりの国ならなくなってしまっても仕方ない」 「なくな、…って?」 「ああ。…そうだね、牧場に行けば、ミルクは無理でもバーベキューなら楽しめるかも知れない。尤もあれほど焦げてしまえば、味わうことは出来ないだろうけれど」 「ぼくは…ぼくは、どれくらい眠っていましたか」 「子供には丁度いい睡眠時間だよ」 そっと横たえられたベッドの感触は堅い。棺に寝かされた遺骸は、こんな風に感じるのだろうか。 「ぼくは、いつ、父の元に行けますか」 「そうだね、いつでもいいよ」 「では、いま」 「いまは無理。これから私の息子が来るんだよ。あの子が欲しがったものを上げようと思っていたのに、うっかり黒こげにしてしまったからね。甘やかして育てたせいか、少し我が儘なところがあって…今度も、謝ってもなかなか許してくれないかも知れない」 「ご子息が…欲しがった、もの」 「テレビ番組で見たらしいよ。広い牧場に寝転がって、絞りたてのミルクが飲んでみたいと友人に話したそうなんだ。子供の頃はとても素直に、色々なものを強請ってくれたんだけどね。最近はちっとも私のことを構ってくれないし、笑顔だってなかなか見せてくれないんだ。私はあの子に、笑って欲しいだけなのに」 拗ねた瞳で。 「きみのように利発な少年を見ると、私の子育ては間違っていたのかと不安になるよ」 「あなたは間違いだらけの人間です」 「おや」 微笑んで。 「私を“人間”だと思ってくれるのかい?」 屈めていた体を起こし、ゆっくりと離れていく。 「息子が来る前にもう一仕事片付けないと。きみの国の周りで、降伏したと言いながらなにか悪巧みをしているらしいところが幾つかあってね。でも卑怯なのはきみが頼ろうとしていたその国の連中だよ。まさか私自らが乗り出しているとは思わなかったらしく、はじめは勢いづいていたけれどあっと言う間に撤退してしまった。かなり目障りだから、次はあそこをパーティー会場にしようと思ってるんだ。よければきみも参加しないかい?」 返事はしなかった。なにを言う気力もなかった。 「自ら死を選ぶのは自由だが、私はきみのような子が本当に好きだよ。とても綺麗な目をしている。それに私の目を真っ直ぐに見られる者は少ないからね。気が向いたら起きておいで。私のしていることを間近で見せてあげよう」 白い、壁だけの世界に戻ったその空間で、ただぼんやりと天井を見上げた。 泣いている自覚はなく、けれど流れるそれを感じていた。 ただそれだけを。 それだけを。 「ああー、疲れた」 「やれば出来るじゃないですか。さあ、潰れていないで隣で着替えを済ませてください。チョコレートロマンス、お前は着替えを手伝って差し上げろ」 「はーいはい。さあ総帥、こちらへ」 同僚はぐずぐず言う彼の手を引き隣室へと連れて行った。 戦うことが嫌なのではない。血を流すことなどどうでもいい。 ただ、目が。 自らを人間ではないと言った彼が、すべてを映すその瞳で本当はなにも見ていないということを知っているのは自分だけだ。崩壊する街を、焼け落ちる大地を眺めるそれは、真実ただ眺めているだけだということを知っているのは。 なにも出来なかった。後を追う資格もなかった。その自分に残された唯一の救いはそこにある。違うかも知れない、けれどほかには、なにもない。 フラフラと歩み寄る自分をあの森で見た赤い蝶が遮ったけれど、彼の手が翻り蝶を握りつぶしてしまった。 いつか、どこかに辿り着くまで。どこかを、彼が、見付けるまで。 『きみを、なんと呼べばいい?』 『…あなたのお好きなように』 『そう。じゃあ、きみにはうんと似合わない名前を付けよう』 『意地が悪いんですね』 『そうでもないよ。似合う名前は、私には付けられない』 本物は、ひとつしかないものだから。 「ティラミス、総帥のお支度は終わったけど、出られる?」 「ああ。面会が済んだらお前もそのまま上がっていいから、荷物は持って出ろよ」 「そのまま泊まっていいから、とか言われたらもっと嬉しいんだけどなぁ」 「構わないさ。自腹なら」 「…薄給の美少年になんてこと…」 「おや、きみはそんなに安い賃金で働かされているのかい?それじゃあ明日の昼は私がうんとご馳走してあげよう」 「えっいいんですかっ」 同僚とともに顔を出した彼は満面の笑顔で微笑んでいる。 「好きなところに連れて行ってあげるから、考えておきなさい」 「うわぁ、どこがいいかなぁ、なっティラミスは行きたいところある?」 「…お前が行きたいところでいいよ」 「ほんと?やった!」 騒々しい子供。自分と年は変わらないが、父親もガンマ団員だという彼はここでの暮らしに慣れている。慣れというより、疑問を感じたことすらないのだろう。 「やっぱり肉かなぁ。でも高級店の寿司も食べたい。あー迷う!」 「明日まで死ぬほど悩め。総帥、お時間です」 「よーし、頑張ってとっとと終わらせてシンちゃんとラブラブするぞーっ!」 「動機はこの際どうでもいいです」 子供たちはさっさと帰らせ、戻ってからまた仕事をしよう。書類作成の監視をしていた分、今日のうちにやっておきたかったことが殆ど出来ていない。 賑やかに歩き始める上司と同僚。 似ている。 きっと。自分たちは。 「やっぱり肉!…でもお寿司も捨てがたいー」 「じゃあ両方食べればいいじゃない。ティラミス、明日の昼休みは三時間ね」 「いいですよ。では当然執務は三時間押しで」 ええーっ!! 二人から上がる悲鳴を無視して歩き去る。総帥令息と言えば聞こえはいいが、彼の苦労を思うと羨むことなど出来ようはずもない。 「ティラミスって、シンちゃん並みに冷たいよ!」 「温まって溶けかけている方が始末に負えないと思います」 「ああいえばこういう、そういうところも似てるよねー」 「シンタロー様とティラミスの共通点を見出せるなんて、総帥の目はすごいですね」 「ふふーん、伊達に秘石眼じゃないヨ」 立てた指を食い違ってやろうか。そう思いながら出るのは溜息ばかりで。 「はい、ここから先は一般課の兵士が溢れています。戯れ言は謹んで下さい」 「はーい」 一変した気配を感じながら、総帥専用の飛行艇に付けられたタラップを上がる。 なにがあれば人はあんな目が出来るのだろう。まだ若い自分には推し量ることも出来ないけれど、それでも。 それでもいつか、分かる日は来るだろう。 「ティラミス」 「はい」 「…呼んだだけだよ」 笑みに、笑い返そうとさえする自分は、一体。 インク消しでは消すことの出来ない染みを抱え、自分たちは、どこに向かって行くのだろう。 END |
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