Eraser

 

 

 

 

誰もが口を閉ざしていた。

父の言葉に賛同も、異論も唱えることなど出来なかった。
決定は、だから沈黙をもって下されたし、それでいいと思った。
言葉にして賛成や反対を言ってしまえば、自分が死んだときの罪悪感が増えるだけだろう。
それを卑怯だとは思わない。
死ぬつもりはない。
生きて辿り着く。必ず帰る。
苦境を乗り越え続く平和を守るため。この目で、それを見届けるため。
怖くないと言えば嘘になるし、足の震えは隠しようもなかった。けれど父の目を見れば淡く微笑んでいたから、だから自分も笑い返した。彼の息子であることを誇りに思った。
いよいよ役立てるその時を迎えたことを、ただそのことを喜んだ。

 

青年兵の中でも特に若く、容貌の幼く見える者を二人選び供に付ける。
なにも知らず森を越え、隣国へと旅をする風を装った。心にも肌身にも、ナイフや銃を隠し持ってはいたがそれはいつでも捨てられるようにもしておいた。万一捕らえられたときは、なにより懐に忍ばせた書簡を守り、また処分しなければならないからだ。

出発は午後、大陽が傾き始めた頃に決められた。

 

 

なるべく人目に付かぬよう郊外へ出る。
目前に広がる森のどこに敵が潜んでいるかは分からないが、牧場の続くなだらかな丘陵地帯を進み、草をはむ牛を眺めながら足を進めた。
森へ行くならここからの侵入が一番いいとされる場所で、牧場との隔たりがない分確かに自然に紛れることが出来そうだった。

あと二時間もすれば辺りは闇に包まれる。直進出来れば真夜中過ぎにはことを為し遂げられるだろう。油断は出来ないが踏み入った森の中は思いの外静まりかえり、近くに敵のいる様子もなくいつもの通り穏やかだった。

会話が途切れがちになるのを防ぐため、彼は実際に身の回りで起きた面白い話題を並べ立てる。家族のことは持ち出せず、自分に対し敬語を使いそうになる兵士にはさりげなく目配せをしながら、それでも懸命に“自然”を装う。日暮れまでは、そうして時間を費やした。

 

辺りが暗くなり、足下が覚束なくなった頃に漸くランプを灯した。
なるべく光りを抑えるよう、さりげなく体で隠しながら進むから途中で何度も躓きそうになりその度兵士に支えられた。

夜に入ってからは会話を控えた。暗闇に乗じて移動した方がいいのは当然だ。 時計を見ると時刻は午後八時になろうと言うところで、これからまだ三時間近く歩かなくてはならない計算だった。恐らく森の一番深い部分にガンマ団が潜んでいるであろうと推察されたため、これでも楽な経路を辿ってはいるのだ。それに泣き言など言える状況ではない。

木々に塞がれ、月も、星も見えない。
希望もいまは、まだ、見えない。
それでも必死に進むのは信じているから。自分を、父を、この国の行く末を。
信じているから。

この一歩が作り出す“日常”を守るため。

 

 「…静かですね」

青年兵が呟く。

無言で頷いたが、闇の中では見えなかっただろう。声を出そうと思ったが、なぜだか喉に張り付いて言葉は出てこなかった。
静かだ。
それは自分も感じている。静かすぎる、と言った方がより適切ではあっただろう。
夜が静かなのは当然として、それ以上にのし掛かる重さが奇妙だった。この圧迫感は更なる緊張を生み出し喉の渇きをいや増した。

 「静かですよね」

もう一度。

聞こえた声に、今度は答えようとした。
その時、逆側を歩く兵士の喉がゴクリと鳴った。

 「この森には…生き物が、いないのか」

 

ひらり。

 

ひらり、と。

 

生き物がいない、という声に応えるよう蝶が舞った。

赤い蝶はヒラヒラと、まるで風に流されるよう木立の間を抜けていく。
ひゅっ、と聞こえたそれがなんだったのか、それを理解する前に彼は唐突に気が付いた。
生き物がいない。
夜の森で当然耳にするはずの、そこに生きる獣たちの声。気配。
すべてが失われただ静寂が満ちたこの森の―――不自然さ。

再び、ひゅっ、という音がする。
そして今度こそ、本当にすべての気配が消えた。

蝶と。
両脇を歩く二人の、兵と。

 

不自然な音とともに、体の左右に感じた温もり。
馴染みのない鉄の匂いを感じた瞬間、自分の体が前のめりに倒れていくのをぼんやりと自覚する。

瞼が、落ちる。

 

 

 

 

 

目が覚めると、そこは白い明かりに満ちた異世界だった。

土壁ではない金属質の囲い。寝かされた寝台も簡素な作りで、部屋には自分と、ベッドと、それだけしかない見付けられなかった。扉さえ、どこにあるのか分からなかった。
半身を起こすと、必死で歩いていたためいままでは忘れていた足首以外に痛むところはなく怪我がないのはすぐに知れた。けれど脇に置かれた小さなテーブルの上に乗せられた上着には、両肩から腕にかけ血の染みが広がっているのが見て取れる。
ひゅっ、というあの音は、まるで息を吸い込むときのそれに似て。
二人はもう、生きてこの世にあることはない。握りしめた拳が震え、掌に爪が食い込んだ。

 

 「やあ、目が覚めたようだね」

壁と見分けの付かなかった一角が、微かな物音で口を開く。
虚ろな瞳で見たそこには、深紅の軍服を着た大柄な男が立っている。金髪が白い光りを弾くように輝いて、真っ直ぐに見つめる眼差しは蒼く冴え渡っていた。
禍々しいその気配に眩暈がする。
まるで力で四肢を押さえられたような気さえした。

 「気分はどう?きみには一切の危害を加えぬよう言っておいたんだけど、さすがに大人しく従ってはくれなそうだからね。お招きだけは手荒になってしまったよ」

言いながら歩いてくる。まるで旧知の仲のような気安さで微笑み、蒼い瞳を見せつけるように近付けた。

 「大事なお手紙だったみたいだけど、血の染みが付いてしまってね。申し訳ないが処分させてもらった。尤ももう必要のないものになってしまったから、構わないよね」

絶望は、目覚めたときから感じていた。けれど突き付けられればなんとあっけないことで、力の抜けた体はフラリと倒れ込みそうになる。
支える腕が、最も憎むべき相手だというのに拒めない。その気力すら湧いては来ない。

 「残念だよ。私も自分の目で見て、これなら取っておいてもいいかなと思ったんだけどね。あんな手紙をきみのような少年に持たせた上、危険な夜の森を歩かせるような大人ばかりの国ならなくなってしまっても仕方ない」

 「なくな、…って?」

 「ああ。…そうだね、牧場に行けば、ミルクは無理でもバーベキューなら楽しめるかも知れない。尤もあれほど焦げてしまえば、味わうことは出来ないだろうけれど」

 「ぼくは…ぼくは、どれくらい眠っていましたか」

 「子供には丁度いい睡眠時間だよ」

そっと横たえられたベッドの感触は堅い。棺に寝かされた遺骸は、こんな風に感じるのだろうか。

 「ぼくは、いつ、父の元に行けますか」

 「そうだね、いつでもいいよ」

 「では、いま」

 「いまは無理。これから私の息子が来るんだよ。あの子が欲しがったものを上げようと思っていたのに、うっかり黒こげにしてしまったからね。甘やかして育てたせいか、少し我が儘なところがあって…今度も、謝ってもなかなか許してくれないかも知れない」

 「ご子息が…欲しがった、もの」

 「テレビ番組で見たらしいよ。広い牧場に寝転がって、絞りたてのミルクが飲んでみたいと友人に話したそうなんだ。子供の頃はとても素直に、色々なものを強請ってくれたんだけどね。最近はちっとも私のことを構ってくれないし、笑顔だってなかなか見せてくれないんだ。私はあの子に、笑って欲しいだけなのに」

拗ねた瞳で。
まるで小さな子供のように。

 「きみのように利発な少年を見ると、私の子育ては間違っていたのかと不安になるよ」

 「あなたは間違いだらけの人間です」

 「おや」

微笑んで。

 「私を“人間”だと思ってくれるのかい?」

屈めていた体を起こし、ゆっくりと離れていく。

 「息子が来る前にもう一仕事片付けないと。きみの国の周りで、降伏したと言いながらなにか悪巧みをしているらしいところが幾つかあってね。でも卑怯なのはきみが頼ろうとしていたその国の連中だよ。まさか私自らが乗り出しているとは思わなかったらしく、はじめは勢いづいていたけれどあっと言う間に撤退してしまった。かなり目障りだから、次はあそこをパーティー会場にしようと思ってるんだ。よければきみも参加しないかい?」

返事はしなかった。なにを言う気力もなかった。

 「自ら死を選ぶのは自由だが、私はきみのような子が本当に好きだよ。とても綺麗な目をしている。それに私の目を真っ直ぐに見られる者は少ないからね。気が向いたら起きておいで。私のしていることを間近で見せてあげよう」

 

白い、壁だけの世界に戻ったその空間で、ただぼんやりと天井を見上げた。
なにも考えることは出来なかったし、考えたところですべてが無駄だった。
無力さを味わうだけの余裕もなく、ただ、ただ息をして、白い闇を見詰めて。
なにもかもが、霞んで。

 

 

泣いている自覚はなく、けれど流れるそれを感じていた。

ただそれだけを。

 

それだけを。

 

 

 

 

 

 

 「ああー、疲れた」

 「やれば出来るじゃないですか。さあ、潰れていないで隣で着替えを済ませてください。チョコレートロマンス、お前は着替えを手伝って差し上げろ」

 「はーいはい。さあ総帥、こちらへ」

同僚はぐずぐず言う彼の手を引き隣室へと連れて行った。
書き上がった書類をまとめ、机の上も簡単に片付けると総帥室前の秘書席へと戻り外出の準備をする。これから本部を出て、飛行艇で一時間ほどの距離にある開業百年を誇る老舗ホテルへと向かわねばならない。友好関係にある国との会談は大抵そこで行われることになっていて、今日も先方からのご機嫌伺いを申し入れられやむなく予定を組んだのだ。
友好と言っても求めてくるのは先方からで、ガンマ団としてはいつ寝返られたところで痛くもない。けれど余計な戦いを増やせば最愛の息子と過ごす時間が更に減ると耳打ちし、要求を呑ませている。

戦うことが嫌なのではない。血を流すことなどどうでもいい。
祖国を失い、生きる場所はここだけとなった自分に他国のことを思う義理はないし、ガンマ団自体がどうなろうと本当は知ったことではないのだ。

ただ、目が。
あの目が。
あの蒼い煌めきが見詰める先にあるものを見たいと思ったから。
彼がどこに向かっているのか、それを知りたいと思ったから。

自らを人間ではないと言った彼が、すべてを映すその瞳で本当はなにも見ていないということを知っているのは自分だけだ。崩壊する街を、焼け落ちる大地を眺めるそれは、真実ただ眺めているだけだということを知っているのは。
彼の溺愛する息子ですら知らない、その、空洞。
すべてを失った自分と同じその気配を、あの時感じたからこそここにいるのだ。仇敵である彼に従うという、一族を、国を裏切るその行為を自らに許したのだ。
 
無力で、なにも出来なかった。
なにも出来ないことすら気付かなかった。だからこれは罰だ。辱めを受けながら生きることこそ、自分に与えられる最大の。
いつかあの蒼い瞳が閉じるとき、その時こそ自分の罪も晴れるのかも知れない。
生きながらに死んでいた数日のうちに考えたのはそのことだった。すべてを掌握する彼が抱えた深淵に触れ、知ることで内側から暴く。きっと知られたくないこと。彼が、自らを生かす理由。奪う理由。殺す理由。

なにも出来なかった。後を追う資格もなかった。その自分に残された唯一の救いはそこにある。違うかも知れない、けれどほかには、なにもない。

フラフラと歩み寄る自分をあの森で見た赤い蝶が遮ったけれど、彼の手が翻り蝶を握りつぶしてしまった。
掌にくすぶる煙。漂う、肉の焦げた香り。祖国と同じ匂いを発する彼。
差し伸べられたそれを取り、まるで敬うように、親愛を捧げるように。誓うように。
口付けたあの時、決まったのだ。

いつか、どこかに辿り着くまで。どこかを、彼が、見付けるまで。

 

 『きみを、なんと呼べばいい?』

 『…あなたのお好きなように』

 『そう。じゃあ、きみにはうんと似合わない名前を付けよう』

 『意地が悪いんですね』

 『そうでもないよ。似合う名前は、私には付けられない』

本物は、ひとつしかないものだから。

 

 「ティラミス、総帥のお支度は終わったけど、出られる?」

 「ああ。面会が済んだらお前もそのまま上がっていいから、荷物は持って出ろよ」

 「そのまま泊まっていいから、とか言われたらもっと嬉しいんだけどなぁ」

 「構わないさ。自腹なら」

 「…薄給の美少年になんてこと…」

 「おや、きみはそんなに安い賃金で働かされているのかい?それじゃあ明日の昼は私がうんとご馳走してあげよう」

 「えっいいんですかっ」

同僚とともに顔を出した彼は満面の笑顔で微笑んでいる。
まるで善人のよう。

 「好きなところに連れて行ってあげるから、考えておきなさい」

 「うわぁ、どこがいいかなぁ、なっティラミスは行きたいところある?」

 「…お前が行きたいところでいいよ」

 「ほんと?やった!」

騒々しい子供。自分と年は変わらないが、父親もガンマ団員だという彼はここでの暮らしに慣れている。慣れというより、疑問を感じたことすらないのだろう。
秘書として、側近として侍ることを言い渡された自分に付けられる監視としては随分緩い少年で、初めは当然演技だと思っていたがこれが素だと知れると一気に気が抜けた。
隙があれば殺す。確かにそう思ってもいた。
その感情が薄れたきっかけの一つ目は、恐らくその時だったろう。

 「やっぱり肉かなぁ。でも高級店の寿司も食べたい。あー迷う!」

 「明日まで死ぬほど悩め。総帥、お時間です」

 「よーし、頑張ってとっとと終わらせてシンちゃんとラブラブするぞーっ!」

 「動機はこの際どうでもいいです」

子供たちはさっさと帰らせ、戻ってからまた仕事をしよう。書類作成の監視をしていた分、今日のうちにやっておきたかったことが殆ど出来ていない。
この年で肩凝りが持病になるなんて思ってもみなかった。

 

賑やかに歩き始める上司と同僚。
この二人は本当に仲がいい。彼等の方が親子と言われればしっくり来る気さえする。
残酷で、冷たくて。胸の内は誰にも明かさないで。
きっと不器用な人。人間ではないと言うその目の奥が、傷付いて涙も枯れ果ててしまった人。

似ている。

きっと。自分たちは。

 

 「やっぱり肉!…でもお寿司も捨てがたいー」

 「じゃあ両方食べればいいじゃない。ティラミス、明日の昼休みは三時間ね」

 「いいですよ。では当然執務は三時間押しで」

ええーっ!!

二人から上がる悲鳴を無視して歩き去る。総帥令息と言えば聞こえはいいが、彼の苦労を思うと羨むことなど出来ようはずもない。

 「ティラミスって、シンちゃん並みに冷たいよ!」

 「温まって溶けかけている方が始末に負えないと思います」

 「ああいえばこういう、そういうところも似てるよねー」

 「シンタロー様とティラミスの共通点を見出せるなんて、総帥の目はすごいですね」

 「ふふーん、伊達に秘石眼じゃないヨ」

立てた指を食い違ってやろうか。そう思いながら出るのは溜息ばかりで。

 「はい、ここから先は一般課の兵士が溢れています。戯れ言は謹んで下さい」

 「はーい」

 

 

一変した気配を感じながら、総帥専用の飛行艇に付けられたタラップを上がる。
彼が自分に科した宿命。その重み。
威圧感は、きっとそこから発するもの。

なにがあれば人はあんな目が出来るのだろう。まだ若い自分には推し量ることも出来ないけれど、それでも。

それでもいつか、分かる日は来るだろう。
その時、自分はどうするか。

 「ティラミス」

 「はい」

 「…呼んだだけだよ」

笑みに、笑い返そうとさえする自分は、一体。

 

 

 

インク消しでは消すことの出来ない染みを抱え、自分たちは、どこに向かって行くのだろう。

 

 

 

 END