きのう、みた、ゆめ

 

 

 

 

人生の中において、“抱き上げられる”などという記憶はほぼ持たないシンタローは、彼の行動が信じられず居心地の悪い思いもしていたが、正直、子供扱いという甘い経験のない我が身にとっては非常に恥ずかしいが嬉しくもある。

ほんの小さな子供をあやすような仕草で、抱き上げたシンタローの背を叩く掌は大きく温かい。欧米人は日本人と比べて体温が高いというが、安定感と安心できる温もりに気を抜けば眠気すら誘われることだろう。

身長は高い方だと自他共に認めるシンタローだが、マジックに並ばれるとかなり見上げなければならない。だからこうしていると近くで覗き込まれる瞳の蒼さに飲まれそうになり、それはひどく恐ろしい。

考えを見透かされる。

心の中を読まれる。

臆病に、卑屈に、いつでも身構えている不遇さを知られてしまう。持ったところで辛いだけのプライドを、それでも捨て切れない自分が馬鹿なのだと分かってはいるが、だからといって変われるほどに自分は身軽には出来ていない。

許されない。

使われた跡のないテーブルまで来ると、シンタローを抱えたまま椅子に掛ける。一連の動作があまりに自然で、自分が本当に小さな子供になったような気さえした。

マジックの首の辺りに頭を埋めるような姿勢で抱き込まれ、しくしくと痛んだ胸が速やかに落ち着いていくのが分かる。力が抜ける。

髪やこめかみに当てられるのは、恐らく彼の唇なのだろう。

そのように触れられたことのないシンタローにとって、それは不思議で、けれどとても安らぐ仕草だった。夢でも見ているような、そんな心地にさせられた。

 

それからどれほどの間そうしていただろう。

うつらうつらとした意識の隅に、小さく笑う彼の声を聞き慌てて閉じかけていた目を開くと間近に迫った蒼がまるで子供のような輝きで見詰めていた。

 「本当にシンちゃんは可愛いなぁ」

 「ばっ、お、おま、」

 「んー、どうしよう。取り敢えず抱き締めちゃえ」

えい。

言葉通り、シンタローの体を締め付けてくる彼をどうにか引き剥がそうとするが、力では当然の如く敵わない。とはいえとんでもない失態を犯したシンタローにとっては、まずこの腕から逃れることが先決なのだ。必死に身を捩り、彼の膝の上でバタバタと暴れた。

 「落としちゃうよ」

 「落とせ!落としていい!」

 「ダメ。シンちゃんに怪我なんかさせられないからね」

膝から落ちたくらいで怪我などしない。そう叫びたかったがまず“膝の上にいる”自分というシチュエーションが恐ろしくてなにも言えなくなる。

ああ、なんということだろう。

あれもそれもこれもみな確かに自分が引き起こしたことだが、なんだかどんどん恐ろしい状況に突き進んでいるのではないか。よく考えれば出逢ったばかりの、しかも身元の怪しげなアダルトビデオ男優などの部屋に上がりこみ、あまつさえ膝の上で抱き締められているなんて。

助けられたのではなく、体よく“お持ち帰りされた”のではないか?

今更ながらの事実に行き当たり、意識した瞬間シンタローの体は竦みあがった。

 「…どうしたの?」

カタカタと震え始めた彼を訝しみ顔を覗く。大きな目を見開いたまま、マジックを見ないよう顔を背けようとしているらしいシンタローに首を傾げ、なにがあったのか聞こうと思った、そのとき。

ぎゅっ、と、マジックの襟首が掴まれた。

本人は意識していないのだろうが、抱き締めたときに伸ばした腕が胸元に伸び、まるでしがみつくようにマジックのことを受け入れていた。接触することに不慣れな子供が、それでも救いを求めるような仕草に初めは笑いを禁じえなかったけれど、それが変わっていることに気付く。

初めて逢ったときから気になった。

誰にも興味を持たなかった自分が、今更他人に心を動かすことなど有り得ない。関わることは煩わしいことだし、不用意に傷付けられることなど堪えられない。

誰も要らない。

ひとりでいい。

そう思っていた自分の目の前に、突如現れた少年がなぜこうも気になるのか。

気になって、触れたくなるのか。知りたくなるのか。

 「嫌なことならしないよ。離せというなら離すから。だから私を怖がらないで」

祈るような気持ちで囁く。心に届くよう静かに、そっと、囁きかける。

 「私のこと、見て」

びくり、と肩が跳ねて。

かなり長い間躊躇っていたけれど、やがてぎこちなく廻らされた首がマジックへと向き直る。黒曜の瞳が濡れていて、それを見ただけでいたたまれなくなることを自覚しながら優しく、出来る限り優しく微笑みかけた。

 「ごめんね。怖かったよね。でも嬉しかったんだよ。シンちゃんと出逢えて、私は本当に嬉しかったんだ」

 「今日…初めて、逢ったばかりなのに」

 「うん。でも本当だよ。言ったよね、似ているって。私たちは、とても似ている。だからきっと、その所為だ」

 「…よく、分からない」

 「うん」

分かるよ。

それは分からないのではなく、分かりたくないだけだ。

一度閉ざした心を開くのは簡単なことではない。けれど、だからこそマジックには分かったのだ。彼が怯えるのは初対面だからとか、なにも知らないからとか、そんなことではない。

知って欲しい。

本当は誰より強く願ってる。知って欲しい。知り合いたい。互いのことをなにもかも、一番深いところに隠した醜ささえも曝け出して、それでも繋がりあえる信頼がほしい。

傍にいて欲しい。

ひとりで生きることは、それは、この世に存在するすべての痛みの中で最も耐えがたいものだ。だから同じ痛みを抱えている彼を見て、出逢ってすぐに気付いてしまった。

本能が求めてしまった。

ふたりでいることが傷の舐め合いでしかないと嘲笑われたとしても構わない。捨てることは出来ない、悲しいかな人間の身の上である自分を嘆くことも今日を限りに出来るだろう。

この出逢いがすべてを変える。

なにもかもを変えてくれる。

そう信じる。

信じられる。

賢しい小動物のような目で見上げてくるシンタローを、今度は細心の注意を払い抱き締めた。壊れやすいものを扱うようにではなく、触れさせて欲しい心に直接届くように。なにもかもを見せるから、だから見せて欲しい。その思いが伝わるように。繋がるように。

 

 

 

シンタローの腕がマジックの首に回されたのはそれから随分あとのことだが、その温かさはマジックの中に消えない炎を灯した。

 

なくさない。

離さない。

奪われない。

裏切られない。

決して。

 

決して彼を、失わない。

 

 

この執着こそが人として生きる最後の砦になるだろう。

抱き締める体の確かさを胸に、深く、深く、刻み付けた。

 

 

 





 

第一章 了  NEXT