きのう、みた、ゆめ
「行くのは俺だぞ!」 「ヤダッたらヤダーッ!」 じたばた。 じたばた。 ジタバタ。 相手が子供だとしても苛付くに違いない、手足を振り回すという古典的な抵抗を繰り広げるマジックにこめかみが痛くなるシンタロー。 「やだよぉ、ここじゃなきゃパパ、認めないからねっ」 「…誰がパパだ」 涙ぐんで、あたかも虐められているような被害者ぶった顔で。唇まで尖らせた彼は間違いなく自分より大人だ。さらに言うなら保護者でもある。 「シンちゃんの意地悪。ひどいよ、シンちゃんひどいよ」 責める言葉を口にしつつ、立ち上がった彼が向かう先にはソファーに凭れるシンタローがいる。腕を伸ばして、捕まえられて、たちまち抱き込まれる我が身の不運を嘆いてはみるが余計な抵抗をして事を荒立てる愚を冒さない程度には学習した彼である。 こうなったら暫くは、好き勝手にさせておくしか手はない。 「シンちゃんのおバカ。パパはどーっしても、ぜっ、―――ったいに!認めないよ」 「あっそ」 ぎゅうぎゅうと締め付けられて苦しいけれど、我慢。 いまはただひたすらに、我慢。 「毎日ちゃんと車で送るから、遠くたって問題ないよ。ね」 「………」 「帰りだって迎えにいくよ。まあ、行けない時もあるかもしれないけど、でもその時はタクシー使っていいから」 「………」 「なんならタクシー券を買っておこう。そうすれば安心でしょ」 「………」 「あっそれよりハイヤーの契約をすればいいんだ。朝はパパ、帰りはハイヤー。で、パパが迎えに行けるときは門のところで待っててあげる」 名案。 痛んで仕方ないこめかみに口付けられ、シンタローは海より深い溜め息を吐いた。 後悔は後から来るから後悔だけれど、自分の選択は誤りだったのかもしれない。いや、あの時はシンタローに選択の余地はなかったし、なにより選択肢を提示してもらった記憶もない。我に返ったときには決まっていたのだ。 ここで、こうして、彼と暮らすということが。 マジックとともに生活するということが。 「とにかく座れ。ちゃんと座って、一から話し合おう」 「一を千まで話したって、私の鉄壁の意志が撤回されることはないよ」 きっ、と表情を引き締め、けれどシンタローと目が合っているという事実にすぐにとろけそうな笑顔に戻る。スキスキ、と繰り返しつつ腕の中に抱えた体をさらに強く抱き締める。 日本には、そんな恥ずかしい習慣はない。 そこをいくら説明したところで彼はこの国の者ではないし、仮に純度百パーセントの日本人であったとしてもこの人格が覆るとは思えない。 ああ。 ああ、嫌だ。 本当に嫌だ。 すっごく嫌だ。 でも。 「あーもーシンちゃんってどうしてこんなに可愛いのかなぁ」 「…目が腐ってるんじゃねぇか」 隠して見せない、心の一番深いところで、嫌がっていない自分が一番。 イヤダ。 シンタローの叔父夫婦を、明らかな脅しとはったりで言いくるめたマジックは、彼を自分の手元に引き取ることを強引に決定しその通りにしてしまった。 冷静に考えればおかしなことだが、シンタローとしても彼が自分を騙そうとしている訳ではないと本能で理解していたし、なによりあの家を出て求めてくれる相手と暮らすことに異存はまるでなかった。 いい暮らしがしたい訳ではない。 ただ傍にいたかった。好きだと言ってほしかった。必要だと。 誰にも理解してもらえず、また理解されようとも思わなかった。一人でいいと決めていたし、そうやって生きていくのだと思っていた。 けれどいつでも寂しく、冷たく凍えた体を持て余していたシンタローは、彼に出逢い、ふれあうことで優しさを知ってしまったから。認め合える存在だと逸る心が決めてしまったから。だから“うちにおいで”と改めて言われたとき、黙って頷いてしまったのだ。 彼と生きると、決めてしまった。 だからそれ自体を悔やむことはない。いまだって、彼の言っていることも分かる。譲歩できる部分はしなければならないとも思う。 でも。 それでも! 「公立に入れるのにわざわざ金のかかる私立に行く必要はない!」 「でもその公立高校に行きたい明確な理由もないんでしょ」 「それはっ、だから…近いし、滑り止めなくても受かるって言うし」 「こっちもそうでしょ。合格圏内だよ」 ほら、と言って指し示されたのはテーブルの上の学力調査票で、そこには先日の模擬テストの結果と希望校への合格率が印字されている。 抱きついていたマジックは、なんとかシンタローを膝の上に抱き上げようとしているから、それには無言の抵抗をしながら調査票の隣に広げられたパンフレットを顎で示す。 「だから、ここから遠い」 「送っていく」 「あのなぁ」 「送っていく。迎えも万全」 パパ完璧。 得意げに、ふふんと鼻で笑いつつえい、とばかりシンタローの脇に差し入れた腕に力を籠める。こうなると抱え上げられるのは必至で、まんまと彼の膝へと座らされた。 こんな姿、誰にも見せられない。 「あんたが、」 「パパ」 「…マジックが、」 「パパ」 「…おま、」 「パ、パ。パパ。父親のパパ。ダディのパパ。パーパのパパ」 「…ぱっぱらぱーの、パー」 また可愛いこと言ってぇ、チュウしちゃうぞ。 と言いながら実行してくる。唇は死守しているが、頬やこめかみや額などは既に触れられていない部分がないほどに侵略されている。 外国人との接触がなかったゆえにシンタローが知らないだけで、これが一般的なのかもしれない。ふとそう考えてもみたが周囲の基準はどうでもいい。キスをされまくるという事実だけが重要なのだ。 外では一切するなと言い聞かせ、確かにそれは守っているためこれ以上の文句は付けられない。なにかを禁止すればその代替案を必ず提示してくるやつなのだ、マジックという男は。 ご機嫌でシンタローを膝に座らせたマジックは、片手を伸ばしパンフレットを取り上げると彼にも見えるよう一番初めのページをめくった。 「ほら、まずパパがこの学校に通って欲しい一番の理由はこれだよ!」 ビシッと指先で示されたのは、これは絶対に生徒じゃなくてプロのモデルだろうと言いたくなるような見目麗しい少年が、いかにもお金持ちのご令息だけが通える伝統ある学校に相応しいといった感じの制服に身を包み談笑しているシーンの写真だ。 学年で違うのか、好きな色が選べるのか知らないが、グレー、ベージュ、ダークブルーの三種三色を基準に構成された作りで、ジャケットは無地だがズボンとネクタイはチェック柄になっている。これに冬はショールのようなものがついたコート、夏は基本色をパステルに置き換えたサマーセーターが付属品となるらしい。 身嗜みには気を使うが、おしゃれには無頓着なシンタローにとってお仕着せがましいそのスタイルは敬遠したい出で立ち以外のなにものでもない。 「シンちゃんがこれを着たら…って想像すると、パパはもう気が遠くなるほど嬉しいよ」 「だからっ!着ないって。ってその前に誰がパパだ!」 「私」 「あア?」 「私。パパだよ」 この男のずるいところを、シンタローは既にいくつか見てきたけれど、一番ずるいと思うのはこれだ。 ふざけて、バカで、大人のくせにガキで、むかついて。 「私のこと、パパだと思って欲しいんだ」 なのにこうして、突然穏やかに、けれど決して逆らえない威厳のようなものを籠めた眼差しで見詰めてくる。シンタローのすべてを見透かすような蒼い眼で真っ直ぐ覗き込まれるから、だからなにも言えなくなる。飲まれたように、据えた視線がはずせない。 大きくて強い腕なのに、抱き締めてくる指は驚くほど繊細だ。 いまも、まるで大きな蛇が獲物を締め付けるような音のない拘束をどんどん強めてきているのに逃げ出したいという意志すら奪われる。捕らわれる。 子供なのは確かでも、簡単に触れて、愛玩されるような幼さはない。だからシンタローにとってこれは不快なことのはずなのに、相手が彼だと思うだけで許してしまう。失くしてしまった甘えたい心を、小さかった自分を、取り戻せるような気がして。 いつもいつも後悔するのだけれど、それでも彼の腕の中は温かいから。幸せだから。 抱き込まれて、目を閉じてしまうのは、だから仕方のないことだと自分自身に言い訳して。 「ねえ、シンタロー。私たち、親子になろうよ」 「…おや、こ」 「そう。私はきみを愛しているよ。その寂しそうな目を見ると心が痛む。なにと引き換えにしても守りたいと思う。私がきみに、一番に幸せを与えられる存在でありたい」 髪を撫でながら、唇は額やこめかみに触れる。 接触自体に不慣れなシンタローはその度に肩が跳ねそうになるけれど、それがマジックだと思うと安心できたし、嘘ではないと信じられた。 なぜたろう、彼は、どうしてここまで自分を愛してくれるのだろう。 なにもかもを認め求めてくれる。 無償の思いは、確かに博愛の域すら超えている。 「だめかな。私では足りない?家族にはなれない?」 「…そんなの…分からない…」 「それは考えられもしないということ?それとも、」 「分からないって!ここに来てからまだ二ヶ月も経ってないのに、急にそんなこと言われても…分かるわけ、ないだろ…」 マジックとの暮らしはなにもかも順調で、すべてがうまくいっている。自分ではそう思う。彼にしても、こうして親子になろうなどと言ってくるのだから自分を本当に必要だと思ってくれているのは分かる。同情だけではないと信じられる。 それでも。 「答えは急がなくてもいいよ。でも、私の気持ちは変わらないからね。私はシンタローのことを一番身近に感じている。血の繋がりより強いものがあると思う。だから、嘘は言わないで。逃げないで。どんな答えであっても手放したりしないから、ゆっくり考えて決めなさい」 「ここに…いていいなら、同じだろ」 「違うよ」 向かい合うように抱え直され、指先が頬を撫でる。 「ただ傍にいるだけではだめなこともある。血縁であっても、そんなものにはなんの意味もないことだって、あるんだよ」 「じゃあ親子になっても、それも意味なんかないかも知れない」 「そんなことはない。だって私はシンちゃんを愛しているからね。だからこの気持ちを形にしたいと思う」 「かたち?」 「そう。私たちは一緒にいるんだよって。心を繋げているんだよって。誰にでも言えるように、見えるようにしておきたい」 微笑むマジックを遣る瀬無い気持ちで見詰める。彼はシンタローを寂しそうだと言ったけれど、彼の蒼い目だって悲しげに見えることがある。まるで氷のように冷たくて、自分自身の冷たさに凍えるような。そんな悲しみが伝わることがあるのだ。 愛されたいと叫んでいる、その声を聞いた気がもう幾度もしている。 「考えてくれるかな?」 少し、自信のなさそうな笑み。彼には似合わない。 「分かった。考えておく」 「ありがとう」 言って、また抱き締める。 彼が好んで使うコロンの香りが、全身に染み込むようだった。 すぐに返事の出来なかったことを詫びる気持ちを籠め、回した両腕で彼の首にしがみついた。ともにありたいと願う心は同じだと分かってほしくて。嘘ではないと信じてほしくて。 嬉しいと、ありがたいと伝えたくて。 幸せになる。 きっと、二人で。 「んー、シンちゃん、いい匂いぃ〜」 「わっ!くんくんすんなっ」 高い鼻が首筋を這い回る感触に背筋が震える。 このバカは。 せっかくの感動的シーンを自分で台無しにしやがって! 心の中で悪態を吐きながら、それでもやっぱり、大して嫌がっていない自分はひたすらに隠しつつ握った拳で彼の頭をポコポコ叩く。 この分だと、来春からあの制服を着た自分が誕生するのは間違いないような気がする、ちょっと早まったかな?と思わずにはいられないシンタローであった。
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