03.薬    53*28

 

 

 

 

 


朝、自宅を出るときにクシャミをしたら、見送りに来ていたマジックが大騒ぎをしながら自室へと駆け戻っていった。なんでも先週日本に行った際、よく効くと評判の漢方薬を手に入れたそうで、それを取ってくるから待っていなさいとドップラー効果を起こすほどの声で叫びながら走り去っていく。

クシャミのひとつで騒がれても困る。

自分の立場を弁えてはいるから健康管理に気を遣うのは当然だが、大袈裟にされるとむず痒くなるのは性分なので仕方ない。

父が戻る前に、サッサと歩き出してしまう息子は薄情なのか、正常なのか。

 

エントランスが見えなくなる直前、窓外に見えたマジックの表情がとても悲しそうだったことに少し、ほんの少しだけ胸が痛んだ。

 

 

 

 

 

昼食を一緒にと誘われ、仕方なく頷いた。

シンタローの目の前に立つ、薄く微笑んだ叔父は相変わらず綺麗で年齢というものを感じさせない。彼が本当にマジックの弟なのか、未だに信じがたい部分もあるが他人に対し徹底的に無関心なところと、そのくせ身近なものにはかなりの執着を見せるアンバランスな精神を併せ持つ辺りはまさに血縁である証なのかも知れない。

サービスと二人なら、久しぶりの対面を素直に喜べたし、気分だって良くなったに違いない。

朝一の会議を終え、総帥室に戻った辺りから微かな頭痛を感じ始めたシンタローは、実のところいま相当に気分が悪くなっている。

見た目で気付かれることはないだろうが、弱ったところを見られるのは嫌だし、知られるのもいやだった。だから極力なんでもない振りをして、叔父に手招かれるまま彼の車へと乗り込んだ。

運転席で、笑顔の大安売りをしているのはジャンだ。

ミラーに映るそのヘラヘラとした顔を見たくなくてサービスの方を向くのに、一々話題に入ってくるから無視することも出来なくなる。

彼は、いつでも笑っているがその実シンタローだけは気付いていることがある。

実際そう感じるのがシンタローだけなので、それが事実であるかどうかは分からないが、誰に対しても始終笑顔でいるはずのジャンは何故だかシンタローにだけは意地が悪い。笑っていても、その目の奥は笑ってなどいないのだ。

冷めて、嘲笑するような。

そんな色を隠している。

そう見える。

人前では常にシンタローの方が優勢であると見せかけ、ジャンは道化役に自ら甘んじているのではないか。彼のことは軽くあしらいながらも、そのくせ絶対的な信頼を向けるサービスを見るに付け、そんな自分の考えこそがおかしいとも思うのだがそれでも。

それでもシンタローはジャンのことが苦手だった。

彼を包むふんわりとした温かさがいやだった。

 

 

叔父の近況や団内で起きていることなどを手短に報告しあい、事務的な話が尽きれば嫌でも三人に共通した話題へと流れていく。

サービスの双子の兄、ハーレムのことであればシンタローが口を挟む場面も少なく聞き手に回ればいいから気は楽だった。

けれど、まるでタイミングを計っていたかのようにジャンの口から“マジック様はどうしている”と尋ねられた途端、抑えていた諸々のものが一気に吹き出したようにシンタローを責めだした。

 「シンタロー?」

口元に手をやり、俯いた甥に気付いたサービスが肩に触れてくる。

 「具合が悪いのか」

 「べつに、大丈夫」

 「顔色が悪い」

ジャンが。

心配そうに、彼が。

顔を覗き込む気配がする。

シンタローと同じ顔。いまの、自分の体の、本当の持ち主。

 「体調が悪いなら言えばよかったのに」

そう言いながら、サービスに店を出ようと合図を送る。叔父は小さく頷き支払いのため給仕の方を向き片手を上げた。

 「大丈夫か?」

サービスの意識が逸れると、ジャンが一気に距離を縮めシンタローの背に手を当てる。

 「なんでも、ない」

 「致死量には届いてないはずなんだけどな」

思わず視線を上げると、いまの、不自然なほどにのんびりとした台詞を吐いたジャンが目だけは真剣にこちらを見ている。

凝視するシンタローと暫し見つめ合い、それから怪訝そうな顔つきに戻ると小さな声で呟いた。

 「あれ、いまの、笑うところだったんだけど」

笑いで盛り上げようと思ったのに、失敗?

困ったなぁと言いながら、会計を済ませたサービスに“ごめんなんか俺が更に悪化させたかも”と神妙に謝罪し、車を回してくると席を立ち足早に店を出ていった。

 「どこか痛むとか、辛いとか、あるか」

 「ないよ。…多分ただの風邪だから」

 「自覚症状があったのか?」

 「朝から少し寒気がして…でも本当にそんな大袈裟なことじゃないから」

 「お前がどうであろうと、総帥がそんな顔色でウロウロしていていいはずがないだろう。まったく、兄さんが知れば大変な騒ぎになるぞ」

 「そうだね」

 

たかが風邪だ。

気分が悪くて、寒気がして、きっと熱があって今夜はもっとひどくなる。

それでもこれはただの風邪だし、叔父に誘われた食事の席で症状が進んだのもそこにジャンがいたのもただの偶然に過ぎない。

だからこれに“原因”なんてものは、ない。

 

サービスに支えられながら車に戻ると、ジャンは先ほどの悪ふざけをもう一度詫び、静かに、丁寧に発進させた。

それはどう見てもシンタローに対し悪意を持つ者の態度ではなかった。

 

 

 

 

団には戻らず、そのまま自宅へと送られ報せを受けていたマジックが自ら玄関で出迎えてくれる。

久しぶりに戻った弟にリビングでくつろぐよう勧めると、シンタローの体に手を回し抱き込むようにして歩き出す。

大袈裟だ。

そう言おうとした、刹那。

 「シンタロー、さっきの、本当にごめんな」

 「ジャン?なにかしたのか」

 「いや、気分が悪そうだったから、ちょっと笑いでもと思ったんだけど…」 

「お前の笑いに対するセンスは最低だからな」

サービスの溜息がそれが事実であることを如実に語っている。

 「きみにも世話になったね。ありがとう」

ふいに。

足を止めた父が、少しだけ振り返りジャンを視界に入れる。

マジックの口元が、微笑んだ。そして。

 「…いえ…」

 

 “…いいえ、マジック様”

 

その、僅かな、間。

 

 

 

ベッドに腰掛けると、まるでメイドのような身のこなしでシンタローの衣服を脱がせ寝間着へと着せ替えさせる。子供の頃にはよくこうして世話になったが、あの頃と変わらぬ繊細な指先がとても心地よく同時にとても苦しくなった。

 「今度こそ薬を飲んでくれるよね?」

 「…ああ」

 「待ってて。すぐに戻るから」

部屋を出て、言葉通りすぐに戻ったマジックが水差しからコップに注いだ水と薬を差し出してくる。

古風な、赤い紙に包まれた薬。

毒が入っているような。

 「あんたも…俺のこと、殺したいの?」

 「なにを言ってるんだい?」

 「…べつに」

俺を殺して、二人で。

二人でどこかに、行くの?

今度こそ。

 「飲めない?手伝おうか」

今度こそ二人で。

初めから俺じゃないから。

 「シンちゃん?」

俺は俺ですらない。“俺”というものは、初めから、そしていまも、存在すらしていなくて。

 「大丈夫、パパがいるからね。隠さなくていいんだよ、心細いならそう言って、私を頼って」

愛されたいのに。

 

 

ここにあり、求められる。

自分が“自分自身”であること。

当たり前のはずの、けれど俺にとって一番難しいこと。

 

 

掌の赤い包みを握りつぶして、声を殺し泣き続けるシンタローの体を、マジックは両手を回し抱き締めた。

訳は問わず。ただ、ただいつまでも。

 

いつまでも。

 

 

 

 

 

ジャンは、自分を蔑んだりしていない。

そんなこと分かってる。

マジックの囁く愛の言葉は本物だ。

それも事実と確信している。

それでも。

 

不安を生み出すのはいつでも自分で、自信を失うのは自らの弱さを克服出来ない脆弱さの所為で。

シンタローの病はより深く心を蝕む。

地上のどんな薬も効かない、それは、“念”という名の、不治の病。


 

 

 

 

 

 

END