5.電話 53*28 電話、かけてね。 待ってるからね。 いい子にして待ってるから。 だから絶対、かけてきて。 眠くても。 ご飯を食べていても。 お風呂に入っていたっていい。 すぐに出るから。 すぐに、すぐに出るから。 ひとことでいいから。 声が、聞きたいから。 「…いってらっしゃい」 「いってきます」 今日も、言えなかった。 本気じゃないからじゃない。 勇気がないんじゃない。 我が儘だから。 それは、我が儘だから。 言っちゃいけないから。 「パパ、今度はいつ、会えるの?」 赤い服が見えなくなってから呟く。 知られないように、困らせないように小さく。 ひっそりと、小さく。 子供の頃の自分を思い出すと、いまでも胸が苦しくなる。 それは懐かしく切ない記憶。 こんな夜は、必ず、蘇る。 前線から後退し、戦線を離脱したところで漸く体の力を抜いた。 空は、星も少なく濃紺の帳を降ろしている。 兵士としての戦闘力は大したことがないくせに、所持する武器が大量でこちらも下手に動くことが出来ないため睨み合いばかりが既に四十日以上続いていた。 遠征に出ればもっと長期に渡ることもあるが、今回の戦闘は消耗戦に近いものがあり先に動いた方が負けるような強迫観念めいた空気までが漂う。誰もが疲れ、苛立ちはピークに達していると言ってよかった。 本部までは、最新型であるシンタローの艦の最高速度で飛行すれば五時間足らずで移動出来る距離にありそう遠い地ではなかったけれど、今回ばかりはそんなことはなんの慰めにもならなかった。 仕置き、という大義名分の元にこちらから仕掛けることが出来ればいいのだが、今回は隣接する国々から“極力穏便に”という注文を付けられているので無闇に動くことも出来ない。まずは和平交渉からと使節団を送ったものの、返答を保留された状態のまま身動きが取れずいたずらに時間ばかりが過ぎていったのだが、今日になってやっと“再度の交渉を”という返事か寄越されたのだった。 交渉はキンタローに任せてある。 請われれば出向くが、正式な和平に結びつく確証はどこにもない。当然自ら赴くつもりであったシンタローを留め、『俺が呼ぶまで大人しくしていろ』ときつくキンタローに言われやむなくその場は譲ったのだ。 自分たちの不利になるようなことは言えない。 そして相手の挑発に乗ることも出来ない。 シンタローとて総帥だ、戦時下の折衝が如何に微妙で難しいかはよく心得ている。けれど今回ばかりは勝手が違い、苛立った気分のまま会談の席に着くのは得策であるはずがなかった。 気が短いとは思わない。 けれど長いとも思えない。 戦線とは名ばかりの区域から離れ、全軍の配置を使節団警護の形に組み替え終えると、自然と大きな溜息が漏れ出てしまった。 艦内の自室に戻り、上着を脱ぐ。 そのままベッドに放り出すと、右袖がだらしなく滑り落ち床に着いた。そんな些細なことでも苛々が募る。こんなことではいけないと、両手でぴしゃりと頬を叩くと、今度は溜息ではなく意図して大きな深呼吸をした。 『いっぱい武器を持ってる国だからね。気を付けてね』 まるでその辺に買い物に行く息子を送り出す気安さで言ったマジックは、片手をヒラヒラ振りつつ自分を見送った。 本当は、やれ心配だーだの、早く帰ってきてねーだの言いたいところだろうが、こと戦線に出向く自分にその言葉がぶつけられたことは一度たりとなかった。 当然だろう。 それまで見送る立場にあったシンタローだからこそ、それが禁忌であることは嫌と言うほど知っていた。戦闘員全ての命を預かる総帥として、一度戦地に出れば自らの保身など構うことが出来ないのだ。 勿論、軽々しく死ぬことも出来ない。当然だろう、総帥の命は即ち全軍の命運と同列にある。なにがなんでも生き延びて、窮状を勝利へと転換させる責任がある。 心配でも、無事な姿が見たくとも。 自分たち二人にとって、戦地に赴くときに交わす言葉は常に簡潔で、決して背負わせるものであってはならなかったのだ。 上着同様ベッドに体を投げ出すと、無機質な天井をじっと見詰めて思索に耽る。 マジックが総帥職に就いていた間に、彼が怪我をして戻ったのは全部で三度。一度は本当に危ないと言われたこともある危機的状況だった。 それでもあの男は数日後にけろりとした顔で自分の前に現れると、出ていくときと同じような気安さで『ただいま〜』と語尾にハートマークを付けて駆け寄ってきた。 シンタローの怪我に至っては既に片手では足りず、それどころか両手すら越えているかも知れなかった。尤も数えているのがマジックなので切り傷ひとつでもカウントされるのだから分が悪いが、静かな、寂しげな目で巻かれた包帯を撫でる彼を見ていると訂正させる気にはなれなかった。 言わなくても分かる。 聞かなくても、分かる。 去っていく背中を見るのがこれで最後になるかも知れないと常に覚悟を決めながら、そのくせ生きて戻って欲しい、声だけでいいから聞かせて欲しいと願ってしまう。 いま、あの蒼い目をしたシンタローの思い人は、なにを見てなにを考え、誰と過ごしているのだろう。 楽しげに笑いながらも自分のことを思い出したりするのだろうか。 思い出して、あの寂しげな眼差しを浮かべたりするのだろうか。 会いたい。 声が、聞きたい。 戦地から電話をくれることはよくあった。 幼い子供を持つ父親としてそれは当然のことだったのかも知れないが、けれど自分が強請ってそれを求めたことは一度としてなかった。揺るぎないその采配が自分の不用意な言葉で崩れることなど招けるはずもなかった。 だから鳴らない電話は、時に一月を越えることだって、あった。 その一月を、今回は既に越している。 定時連絡は入れるし、必要があればキンタローが報告する。研究所勤めのグンマが直接通信を求めてくることもあったので、シンタローの無事は彼を通してマジックにも伝わっているのは確かだ。 けれど彼自身が求めてくることはない。 あの頃のシンタローと同じように。 安全圏まで後退し、着陸させたため艦内は静かだ。 まして総帥の御座船である緊張は乗組員全員を極限までに消耗させる。本部から送られた要員と速やかに交代を済ませたため、張り詰めた空気もいまは弛み、暫しの休息には打って付けの夜となった。 耳を澄ませば虫の声まで聞こえてくるような気さえして、シンタローは、ふと口元に笑みを浮かべた。 着陸しているとは言え地上からは何メートルも離れているし、鋼鉄の機体は飛行時の騒音すら遮断する厚みがある。 なにも聞こえない。 聞こえるはずがない。 聞きたいものは、声は、ここには、ない。 ふと。 思いついて、身を起こしたシンタローは投げた上着を取り上げるとポケットを探った。 勝手に機種交換させられた携帯電話はマジックと同じデザインで、彼手製の“マジックくん人形”がストラップ代わりに取り付けられている。 何度外してもしつこく付け直され、いい加減面倒になりそのままにしてあるのだ。団内でもそれは既に知られたことで、シンタローが、この不似合いなファンシーさを身に付けていたところで誰も注意を払わなかった。 揺れる人形を指先で突き、それから液晶画面を見る。 待ち受けの画像は、これも既に諦めたが週替わりの“マジック百面相”より、“シンちゃんあいらっびゅーんの顔”が設定されている。 どの辺があいらっびゅーんなのか、それ以前にあいらっびゅーんとはなにかと問い詰めてやりたいが、あの勢いで由来や撮影秘話など語り尽くされては堪らないので極力無視することにしている。 週替わりなのに、既に一月以上見ている、間の抜けた笑顔。 唇を少しだけ尖らせているのが“らっびゅーん”を表しているそうだが、そのセンスには脱力するより他にない。 着信履歴を見ても、最近はキンタローか本部、グンマからの通話ばかりが並んでいて、見たことをすぐに後悔する。深みにはまる自分の行動を呪ってみても、どうせ初めから結果は分かっていたのだからどうしようもない。 声が聞きたい。 会えないなら、せめて。 せめて声が聞きたい。 あの低い、深みのある声で名前を呼んで、その声音で抱き締めて欲しい。 慰めて欲しい。 女々しいとは思わなかった。 だって、好きだから。 欲しいから。 自分のものだから。 遠慮はいらない相手だから。 彼だから。 彼だから。 時差を考えれば、もう眠りについて暫く経った頃だろう。 物音には敏感な彼だから、たとえマナーモードに設定してあったとしても起きてしまう。ふざけたことばかりしているものの、それでも自分の我が儘でその眠りを破ってしまうのは躊躇われた。 朝になれば、この寂しさは消えるだろうか。 疲れが見せた幻だと、すべては夢だと思えるだろうか。 シンタローには、それが無理であることなど疾うに分かっている。 マジックという存在は、マジックでなければ補うことが出来ない。他のなにを与えられてもだめなのだ。 彼でなければ。 彼だけが自分を救える。 愛することが、出来る。 登録の、一番初めにあるその番号。 通話ボタンを押す指が震える。 心が。 震える。 ルルル… どうしたの? なにかあった? ルルル… 眠れないの? …寂しいの? 呼び出しのコールも彼の声も、鳴り響く胸の音にかき消されてしまいそう。 『――――シン、ちゃん』 だからきっと。 『やっと、だね』 きっと。 『やっと、私たち、』 きっと。 『声も、繋がることが、出来たんだね…』 ルルル… END ルルル… ルルル… ルルル… と三回鳴らして切ったら |
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