9.和室   53*28

 

 

 

 

 

日本では“中秋の名月”と呼ばれる、それは見事な月が見られる夜がある。

秋の、濃紺の空に浮かぶ金色のお月様。

黄色いそれはまるでホットケーキのようだと言ったら、父は小さな声で笑い『ではバターを乗せてあげよう』と返してきた。

 

丸い月。

まるいまるい、月。

うさぎが棲んでいるとも聞いた、その星にいつか行ってみたいと思っていたけれど十を越える頃にはそれがお伽話でしかないことを知ってしまい、夢は夢ですらなくなった。

そうしてなくしたものは幾つもあって、それを惜しむ心はあるが思い返すこと自体薄れていく。大人になるというのはそういうことだし、それを拒めば成長もまたないということになる。

 

大人になりたいと思っているうちは本当に幸せで、悩みのない子供の頃に戻りたいと思う頃には手遅れだ。

 

なにが辛いとか、悲しいとか。

重いとか痛いとかやるせないとか。

そんなことばかりが増えて本当のことが見えなくなる。分からなくなる。

ひとりでいると、気付けなくなる。

だから。

 

だから、傍にいる。

一緒にいる。

見えるように、気付くように、分け合えるように。

 

愛せるように。

 

 

愛せるように。

 

 

 

 

月が見たいとマジックが言いだし、そんなヒマはないと言い返す。

愚図って駄々を捏ね、“行こう行こう”と喚いたならいまここにはいなかった。

日本支部の敷地内にある庭園。

枯山水のその庭に、ひっそりとある家屋は純和風。昼であれば日を浴びた瓦屋根が黒く光り、真夏には白い雲が映り込むほどに輝きを放つ。

到着したのは今日の夕方のこと。

どのみち夏も過ぎ、既に秋の気配漂ういまでは日中であってもその光景を見ることも叶わないけれど、それでもここに来ると落ち着くのは決して気のせいなどではない。

様々な思いが交錯する。

ここは、そういう場所だった。

 

誘われても、簡単に頷けるはずがない。

冷たく切り捨てると俯いて、『そう。そうだね』と言った彼の横顔が本当に寂しそうだったから。

罪悪感なんて、そんな大袈裟なものではないけれど。

 

 「なに、シンちゃん。顔が怖くなってるよ」

 「怖くもなるわ」

 「なんで?」

心の底から“分かりません”という顔で見下ろすマジックの顎に手をかけ、ぐいと押しのける。

いい加減回りきった日本酒で、思考も指先も痺れているし拒む力も出し切れない。

嫌いじゃない。

嫌いなはずがない。

この世にただひとり、彼のために生まれた自分を否定することは出来ないし無意味だ。赤とか青とか、そんなことではなく。

生まれた意味と意義と生きていくなにもかもが彼のために用意されたもので、はじめは作られたものだという事実に打ちのめされもしたけれど。

違う。

いまは違う。

確たる根拠はなくとも本能が知っている。

彼も。

自分も。

迷うことも疑うこともないほどの強さで。

思いで。

 

これはもう恋だ。

手遅れの。

 

 

 「俺もあんたも、処置なしだよなぁ」

 「そうだね」

笑いながら寄せられる顔。押し返してやったのに、懲りることなく迫ってくる。唇が頬に触れ、額に触れ瞼に触れ。

彼の膝を割り、胸に背中を預けている。

凭れかかる体は記憶より細くはなっているけれど、それでも貧弱さの欠片もない男のもので。自分と変わらぬ見劣りのない逞しいもので。

なのに落ち着いてしまうのは。

求めてしまうのは彼だから。

マジックだから。

愛するものだから。

笑って、手に持った猪口を差し出すと後ろからお銚子が傾けられる。濃く、甘い日本酒の香りが独特の音とともに広がりシンタローの耳と心を満たした。

さほど酔っている訳ではないが、相手には酔っぱらいだと思わせておいた方がなにかと都合がいい。普通なら酔わせた上でよからぬことを企むのだろうが、マジックに関して言えばまったくの逆だ。

言いなりになられてはつまらないというのが表向きの理由だが、実際は意識の乏しい状態のシンタローを支配するのは紳士的ではないし、なにより愛情が感じられない…という本音があるらしい。

らしい、と言うのははっきり彼の口から聞いた訳ではないからで、以前、中途半端に酔った状態のシンタローに囁きかけた言葉から推察したことなのだ。

彼であればなんでもいいと思っているシンタローにとってみれば、意識があろうがなかろうが、翌朝に暫し文句を並べ立てればそれで気が済んでしまうことなのにそうはしない。

二人で過ごす時間はすべて記憶しておきたい。

それが執着なのか執念なのか、言葉を選べば良くも悪くも解釈出来る。

子供なのか大人なのか、言えることはどちらにしても彼は狡いということなのかも知れないが、その狡さを含んだなにもかもを愛しているから構わない。

構わないのに、そうしない。

マジックの、生真面目というべきかたんに融通が利かない性質を、気付かぬ振りで盗み見ながら溜息を吐く。

とっくに捕まえているのに、手に入らないと嘆く彼に盛大な、特大のそれを、またひとつ。

 

 「あ」

 「…なに」

 「忘れ物」

マジックが喋ると、その振動が背中に伝わりじんわり温かさを感じる。

まだまだ人恋しいというには早いけれど、それでもこんな夜は密やかに身を寄せ合うのが似合う。

口元にも、微かな笑み。

 「あーあ、持って来なきゃと思ってたのに」

 「なにを忘れたって?」

 「バター」

 「あ?なんに使うんだ」

日本料理に使うにはかなりくせのある食材だ。ムニエルやホイル焼きならともかく、いま饗されている膳の上には不似合いなそれを忘れたからと言って悔しがるのもおかしなもの。

マジックは、くすくすと笑ってまた猪口に酒を注ぐ。

寄り掛かったシンタローの手元は不如意で満たすには至らぬはずのそれなのに、面白がるように注ぐから当然零れて手首を伝う。

ああ、そうか。

舌を伸ばし舐め取ると、その軌跡をマジックもまた赤いそれで辿っていく。

いやらしい。

小さな声で言うと、ふふ、と息ばかりの笑いが返る。

こめかみに唇が押し当てられる。

 「バター」

 「うん?」

 「なんに使うんだよ」

 「…シンちゃんのエッチ」

 「あア?」

バター。

 「………ばーか」

 「やーい、シンちゃんのエッチぃ」

 「持ってこようとしたのも、忘れたのもあんただろ」

 「えへへー」

 「誤魔化すな。なんに使うんだ?」

 「ホットケーキだよ」

 「は?」

 「ホットケーキ」

言って、指先が伸ばされる。

濃紺の空の黄色い月。

丸い月。

さやさやと吹く風に土の匂い。

 「…しょうがねえな」

 「しょうがないねぇ」

 「こら、自分が言われてるんだろ」

 「そうなの?」

こめかみから、額に移る。

 「しょうがねぇから、明日、買い物に行くか」

 「行こうか」

額から耳朶。

 「うし。じゃ、バターと小麦粉と卵と…」

 「お砂糖と、メイプルシロップもいるね」

耳朶から、頬。

 「牛乳もいるよな」

 「いるね」

頬から。

 

 

 

 

月。

空の月。

視界から消えたそれが再び現れたときそれは子供の頃に見たものとは違っていたけれど、どきどきと高鳴る胸の鼓動はいまも昔も変わらぬ響きを持っている。

月と。

マジックの金色の髪と。

静かな、夜と。

 

 

頬から滑る唇が、唇に触れるまでの永遠の一秒。

 

 

 

 

虫の音の幽かな。

 

かすかな、恋の。

 

 

 

 

 

END