大体、写真にはろくな思い出がない。

 

 

つまらなそうだったり、あからさまに不機嫌だったり、時には泣き顔だって晒している。

 

 

父の所持するアルバムは自分の失態ばかりが集められているから、写真には、ろくな思い出がない。

だから。

 

 

 

 

だからいまさらこんなことに気付いたとしても、それは。

 

 

 

 

 

 

 

Photograph   40*15

 

 

 

 

士官学校に入学して寮生活が始まると、自宅に戻る頻度は極端に減った。

それは当然のことだし、勿論意図してのことでもある。

総帥の息子だと言われることには慣れていたけれど、かといって甘んじて受け入れるだけの軟弱な根性もしていない。言いたいなら言えばいい、けれど自分にはそれを跳ね返すだけの器量がある。何事にも負けず常に一番上を目指し、そしてその高みからすべてを見下ろすのだ。

父のようになりたいとは思わない。

その為の一番ではない。

結局それが劣等感の表れだとしても自分が潰れないためには必要な決意だったのだ。

シンタローにとっては。

 

生来の負けず嫌いであることは確かだとしても、本来彼は争いごとというものがどうにも苦手で、加えて人付き合いというものにも不慣れだった。

如才なく振る舞うことは出来る。

誰とでも気安く接することは出来る。

けれどそれは処世術の一つであったし、シンタローが目指すものになるために必要不可欠なステップでもあった。

敵など、世界中に転がっている。

父を脅かす存在は、彼がどれほど強くとも存在するという覆しがたい事実がある。

だからシンタローは強くなければならないし、誰をも従える力を持たなければならない。いずれ総帥という地位を継ぐからではなく、父を守るために。

この世で唯一自分という存在を動かすことの出来る彼を守り抜くために。

その思いを、けれど一度も口にしたことはなかったけれど。

 

それほどに大きく、そして当たり前に大切な人だから。

 

 

学生寮に入寮してからと言うもの、父は事あるごとにシンタローを呼びつけた。

主席であり、学年代表でもある自分が理事長に呼び出されるのは当然である。けれど時には一日のうちに二度も三度も呼び出され、挙げ句用件と言えば『今度、学生たちを連れてピクニックに行こうと思うんだけど、どこがいい?』とか『ほら、日本の縁日?お祭りの晩に屋台がズラリと並ぶあれ。あれをね、開催したらどうだろうかと思って』などという、これまでであれば食事時の話題程度の戯れ言だから始末が悪い。

シンタローとて寂しくない訳ではない。

長く共に暮らした相手だし、なにより四六時中同じ時間を過ごせていた訳でもない。

総帥という職にある彼は多忙を極める存在だし、希に顔を合わせても懐かしさに甘えられるほど素直な性格もしていない。

だから、二人きりで話をすることは、実はとてもくすぐったくて、実はとても嬉しいことだ。

 

それも、口にしたことは、ないけれど。

 

 

本当は大好きなんだよ。

子供の頃から変わらずに、あなたのことが、大好きだよ。

 

いつだって言葉は胸の中に溢れているのに、口を開けば憎まれ口ばかりを並べてしまう。“照れちゃって”と言われれば、不機嫌に目を逸らし、無視して歩き去ることも既に慣れてしまったこと。

不器用な自分を分かって欲しいし、分かってくれていると知っていてももどかしさは募るばかりで。

喩え世界中が彼を許さなくとも自分は許せる。

それが人殺しでしかかなくとも自分だけは彼の手を取れる。

鮮血にまみれ、腐った肉の臭いの染み付いた背中であっても自分は進んで守れるし、腕に余る広さであっても、包み込める自信があった。

 

それこそが特権だった。

シンタローだけに許された、親子以上の繋がりすら感じる強い絆。

自分だけが、彼を、マジックという男を理解出来る。共にある。

錯覚ではないそれを思うたび、いつでもシンタローは言いしれぬ優越感に身震いを感じるほどだった。

 

 

 

その日、父は長い戦いの日々を終え帰還するはずだった。

予定では午後の早い時間であると聞かされていたから、授業を終え課題を済ませるとシンタローは急ぎ自宅へと駆け付けた。

寮の部屋はあまり広くはないため、必要なものを入れ替えるため時折戻ることがある。他の生徒からすればそれも特権と陰口を叩きたくなるところだろうが、なにを言われてもそれだけはやめるつもりのないことだ。

父に会う。

彼と過ごす僅かな時間。

大切な、貴重なそのひとときを守るため、普段は断ることの多い軍用車での送迎すらも喜んで受け入れた。

 

彼が戻っていないことを確かめると、自室の荷物を少し散らかし、いかにも“荷造りに手間取っています”という風を装った。

そのくせ数分おきに窓辺へ歩み寄り外を眺めているのだから矛盾もいいところだ。

見破られているかも知れない。

いや、恐らくばれているだろう。

そんな小細工が通じる相手ではないし、本当に、ただ荷物の入れ替えのためだけに帰宅していると思われているのは悲しい。

だからシンタローは、持っていく必要のない荷物をさも迷ったような振りで眺め降ろし、難しい表情を浮かべ溜息すら吐いてみせるのだ。

すべてはあなたのために。

この世でただひとり、シンタローという世界の中心に位置する彼のために。

 

 

 

 「…遅い、な…」

 

窓外は、庭を照らす灯りにぼんやりと霞んでいる。

時計は既に深夜に近い時刻を告げ、寮にいれば疾うに消灯時刻を過ぎていた。

帰宅の予定が狂うことは間々あったし、守られたことの方が少ないのが現実だ。だからそれほど落胆することではないし約束をした訳でもないのに恨むのは筋違いだ。

けれど不安になるのは。

心細くなるのは彼だから。

ガンマ団総帥という、罪と、罰と、怨嗟をその身に纏う彼だから。

だから怖い。

二度と逢えないのではないかという恐怖に飲まれ、押し潰されそうになる。何度も。何度でも。

士官学校への入学を希望したとき、父は黙って見詰めてきた。

そして一言、許可する、と呟いた。

広いはずの背中がその時だけは小さく見えた、それは決して錯覚ではなかっただろう。

許さないと言ったところで自分の決意が変わることはない。正しくそう読みとったマジックは反対の言葉こそ口にはしなかったけれど、その後抱き締めてきた腕が震えていたのをいまでもはっきり覚えている。

庇護されるだけの子供が巣立つその瞬間を寂しがる、それだけではない痛みをシンタローも共に感じていた。

けれどいつか。

いつか、死ぬときが来るとしたら。

自分は父を守ると決め、その為に彼の腕の中を抜け出すのだから後悔はない。

泣くだろう、気が狂ったように叫ぶだろう、そうは思うがそれでも決意は揺らがない。

自分が死んで彼が残るのであればそれでいい。

それがいい、シンタローは本気でそう思っている。

 

青の一族であるはずの、証をなにも持たない自分。

 

その異端である身の息子をただ愛してくれる彼に報いるために、この命は最後の一欠片まで捧げてしまった。

入学式で、新入生挨拶の壇上で彼を見詰めたその時に。

もし、死ぬときが来たらそれは彼のため。

強い父がそれでも膝をつかねばならぬ時のため。

だから強くなる。強くなる。強くなる。

誰よりずっと、強くなる。

一番でなければならないのは、だからその決意のため。

 

 

また一つ溜息を吐き、今夜は戻らないのだろうと諦める。

諦めがいいのは彼に関することに限ってで、そんな自分が少し、嫌だ。

約束を破られることには慣れていたし、元より彼は自分相手に適わぬ誓いは立てなかった。なので、悲しく思うのは自分の勝手であり、恨む方が筋違い。

散らかった自室を出て、マジックの部屋に向かう。

この部屋の鍵は預かっていて、不在中に入室することも許されていた。

けれど実際に足を踏み入れたのは数えるほどで、なにをする訳でもなくただぼんやりと室内を見回し、ソファに掛け、湿った溜息を吐いて部屋を出るのが常だった。

その日。

だからその日、書棚に近付いたのは特に意図してのことではなかったし、気まぐれに本を抜き出してみたのも殆ど無意識のことだった。

 

シンタローには難解な哲学書や、まだ読みこなすには持て余す外国語の背表紙が並ぶそれは眺めていても退屈なだけですぐに飽きた。

それでも伸ばした指で本を弾き、抜き出し、足下に並べていく。

黒か紺か茶の革表紙ばかりで色味が悪い。

出した本を並べ替え、自分なりの法則に従い入れ替えたりしているうち、棚の本の殆どを出してしまったことに気付いた。

そして。

 

見付けた。

 

深い緑の色をした、掌に乗る小さな本。

開くと、そこにはシンタローの叔父、マジックの弟サービスが、彼には珍しい不機嫌そうな顔で写っている写真が一枚、挟み込まれていた。

 

年齢は、恐らくいまのシンタローと大差ないだろう。

その証拠に叔父は自分と同じ作りの服を着ている。士官学校の制服だ。

カメラを構えた相手に向けて怒っているのか、それとも機嫌の悪い時を狙って撮影されたものなのか。

とにかく、シンタローの前では柔らかく微笑んでいることの多い彼には珍しいその表情に少し戸惑う。

その目がひどく冷たかったから。

見たことのない鋭さを含む、険の籠もったそれだったから。

身内に甘い父だから勿論叔父にも優しげな表情でいることが多い。第一、この様な不機嫌な顔になるのはマジックの役目であり、大抵はサービスに懐くシンタローに不平を漏らすときに見せるものだった。

サービスは物静かで、けれどその静けさの中になにか言いしれぬものを隠している。“なにか”がどういうものを示すのか自分でもよく分からないけれど、微笑みつつも自分を見下ろすその瞳の中に浮かぶ色が赤いような、闇より深い漆黒のような、そんな気がして怖くなることがある。

誰にも打ち明けられないけれど、叔父のことは信じているけれど、時折。

 

なにを怒っているのだろう。

被写体の中心はサービスで、その他に映っているのはスーツ姿のマジックと、もう一人。

 

黒髪の。

 

マジックは写真の左端に、右頬を見せる角度で映っている。

サービスを見ている訳ではない。視線は向かいに立つ、黒髪の少年に注がれているようだった。

優しげに微笑んだその表情には見覚えがある。

自分だけに与えられるはずのその笑顔。

眩しげに伏せた睫毛の長さまで見て取れそうな、その光景。

サービスが幼いように、父も、随分と若い。青年の凛々しさはいまとは違う魅力を振りまいたことだろう。その時、共にあることの出来なかった自分を悔やみたい程度には。

そのマジックが見下ろしている黒髪の少年。

顔は見えないけれど、その微笑みが彼に向けられていることは嫌でも分かる。マジックの視界には彼しか納められていないのだから。

自分と同じ制服を着た、恐らく、同じような髪型の、少年。

鼓動が早まるのが、分かる。

 

シンタローは考えた。

混乱する頭を必死に動かし、周囲にいる人々の顔をものすごい勢いで思い描いていく。

黒髪。

黒髪。

そうだ、サービスと仲のよい校医。

従弟であるグンマの保護者的な存在として、団内でも確たる地位を得るあの男。そうだ、彼だ。彼に違いない。

どくどくと脈打つ胸を押さえ、どうしてこんなに動揺するのか、そんな必要がどこにあるのかと自分自身を叱咤しながら呼吸を整える。指先が震えているのが我ながら滑稽だった。

けれど。

震えが止まらないのは、写真がもう一枚あることに気付いているから。

指先に感じる二枚目。重なったそれをずらす勇気はない。

なんだろうこの焦燥感。

なんだろうこの既視感。

なんだろう。

なんだろう、この、恐怖。

怖くて。

唇も。

震えて。

 

 

 

 

 

どれほどの時間を、そうして過ごしていたのか分からない。

気付くと背後の気配が、優しく自分を抱き締めるところだった。

大きな手。長い指。温かな胸。

 

 「寝ているのかと思った」

のろのろと顔を上げたシンタローは、背後から抱き締めるマジックの笑顔を認め一気に力が抜ける。彼の腕の中へ沈んでいく。

 「随分散らかしたね。なにをしていたの?」

聞かれても答えられない。手にした写真も隠したいのに、動くことが出来ない。

隠したい?

どうして?

聞けばいい。これは誰?これは誰?これは誰?これは。

あなたが微笑みかけているこの黒髪の少年は一体。

 

だれですか。

 

 「…ああ、それはサービスがいまのシンタローより一つ年上の時のものだね」

指先が、強く掴んでいたはずの写真を難なく抜き取る。

見られなかったもう一枚のそれも、シンタローからは遠くなって。

 「確かこの時、高松に…校医をしている彼に、ひどくからかわれていたよ。写真を撮ったのも彼だ」

 「…へ、え…………そ、う」

 「士官候補が集う校内で“仲がいい”という言い方もおかしなものだが、それでも彼等はとても親しく付き合っていたからね。時にはこうして、互いを構い過ぎることもあったんだろう」

シンちゃんも、グンちゃんとは喧嘩ばかりだよね。

言いながら、マジックの指先が落ちていた深緑の表紙に伸びる。

拾い上げ、写真を挟む。

元通りに。

元の通りに。

何事も、なかったように。

 「本当に仲がよくて…私はいつも、羨ましくて…」

蒼い目の中に浮かんだそれは、紛れもない“痛み”。

 「…羨ま、しい、って…どうして…」

 「私には友人と呼べる相手はいなかったからね。じゃれて遊ぶ時間もなかったし」

答える彼の目の中には、もうその気配は見つからない。

隠すのがうまくて、はぐらかすのがうまくて、誠実な振りをしてとんでもなく不実な彼の、いつもの仕草。

 「本当にサービスは、私の欲しいものばかり持っている」

 「ほしい、もの?」

 「うん」

微笑みは、写真の中にあったものとよく似ている。

似すぎている。

どちらが本物か、分からない、ほどに。

 「友達とか、シンちゃんの“大好き!”とか、ね」

抱き締める腕すら。

 

 

 

 

抱え上げたシンタローをソファに座らせ、散らかった書籍を簡単に片付けると彼は再びシンタローを抱き上げ彼の部屋に向かった。

途中で帰宅が遅れたことを謝ったが、シンタローは答えることが出来なかった。

寒くて、ひどく寒くて、震えていたから。

 

ベッドに寝かしつけ、何度も髪を梳いてくる。

学校のことや訓練のことを聞いてくる。

逢えない時間を寂しがって、頬に、額に口付ける。

愛していると囁いてくる。

そのすべてが自分のもので、そしてすべてが朧気だ。

 

これは、この時という概念は本物なのか。

いまこの瞬間、ここにいる自分とはなにか、父とはなにか。

一枚の写真。

古びたそこに、映し出されたものこそが真実だとしたら―――

 

髪を梳く。

黒髪。

綺麗だと言う。素敵だという。とても似合っているという。

シンタローを構成するものの一つ。

黒く艶やかな、細く頼りない、髪。

繋がりのような。

 

だれと、だれの?

 

 

 

 

 「………髪」

 「うん?」

 「伸ばそう、かな…」

 

 

 

 

強くなる。

決めたのに。

 

決めたけれど。

 

 

 

 

 「そうだね…シンタローなら、似合うと思うよ」

 

 

 

 

 

あなたのために強くなる。

その決意はいまも変わらず、決して嘘ではないけれど。

 

 

見上げるその微笑みが、滲む前に目を。

 

 

 

 

 

 

 

閉じる。

 

 

 

 

 

 

END