the opposite bank …parallel story それから少しの間は黙ったまま歩き、目的の店の手前で足を止めた。 「この先です。二つ目の建物があなたの探していた店です」 「なんだ、通りはあってたんだ。やっぱりあいつの地図の書き方が変だったんだな」 あいつ、というのが彼を輝かせることの出来る存在なのだろうか。 曖昧で暗い表情をしたけれど、それは子供の自分では分からない感情で踏み込ませたくはない領域にあるものなのだろう。 通りがかりの道案内が触れられる限界は超えている。 「助かったよ。マジックくんもなんか買うんだろ?お礼に俺が買ってやるからさ」 「僕は行きません」 「え、僕も行くって言ってなかった?」 「僕は…」 爪先を睨む。拳を握る。 恋なんて半分以上は錯覚。そうだ、“さっかく”とは事実と異なることをそうだと思い込むこと。日本語の辞書にはそう記してあった。 だからこれは錯覚だ。 彼が太陽なのも。自分が月なのも。 すべて。 「僕は、行きません。さようなら」 「え、あ、さよなら」 「さようなら」 さようなら。 日本語の授業で一番初めに習ったのが“こんにちは”と“さようなら”。 二つの言葉は対を成し、出逢ったときと別れるときに使う言葉だと教えられた。 さようなら。別れの言葉。 もう逢えない。 僅か数分のうちに落ちた恋は、一ブロック先で消えてしまった。 去っていく彼の背中を見詰めたけれど、振り向くことなく店の中へと消えていった。黒髪が、吸い込まれるかのごとくうねる様はまるで自分を拒絶しているかのようで益々悲しくなってくる。 こんな恋をするのは、世界中でも自分だけに違いない。 望めばなんでも手に入る。 誰もが自分にかしずき敬う。 すべてがあってすべてが皆無の冷めた日常の中、初めて出逢った温もりなのに。 自ら見つけた太陽なのに。 きっと、やっと、出逢えた。 通行人の邪魔にならないよう隅に避けて立っていた。 じきに級友たちが出てくるだろう。寮には一人で戻るべきではないと思ったので仕方なく立ち尽くす。もし先に彼が出てきたら気付かぬ振りをすればいい。声を掛けられたらもう一度“さようなら”と答えよう。名誉も、伝統も、こんなときには何の役にも立たない。 常に背筋を伸ばし前を向いて進むようという指導は受けていても実践出来るとは限らない。背を丸め、石畳を見詰めるうち悲しい気分が盛り上がりだんだんと視界がぼやけてきた。 ぽつり、ぽつりと水滴が落ちる。 爪先の周りに雨が降る。 傘を持つ習慣はほとんどないが、それでも制服を濡らすのは嫌だと思う。重たい燕尾服は惨めな気持ちを増長するから、だから出来ることならやんでほしい。 降り始めたばかりだから、きっと、すぐにはやみそうにもないけれど。 「泣くなよ」 ぽん、と。 「俺が泣かせたのか?なんか気に障ること言ったか?」 頭に乗せられた掌。温かなそれ。 「中学生にはなってると思ってたけど…もしかしてもっと下か?」 「した?」 「いまいくつ?何歳?」 「十二歳です」 「うわー、俺より十歳も下かよ」 「あなたは、十八歳くらいだと思っていました」 「俺は童顔じゃねえぞ。ってまあ日本人は若く見られるって言うもんな」 苦笑して、それから指が髪を梳く。 「お礼、ちゃんとしたいからさ。これ」 差し出されたのは赤い包装紙に包まれた小箱。彼が訪ねた店の名前が印刷された、金のリボンが巻かれている。 甘い匂いが微かに漂い、それが益々切なくさせる。 「わっなんで余計に泣くんだよ!」 「にほ、んは、」 「は?日本?」 「日本、では、好きな人に、チョコレートを渡すのでしょう」 「ああ、バレンタインのこと?」 「僕のことは、好きでは、ないっでっ、しょ、」 「あーあーでかい目が大洪水だぞ。蒼いからマジで噴水みてえ」 「好きでは、なっい、なら、渡しては、いけませっん」 「や、これバレンタインのチョコじゃないし。お礼だし」 「お礼なら、いりっません」 「えっ!なにそれ、じゃあバレンタインなら受け取るのか?」 「は、いっ、うっ、はいっ」 「いや、はいって言われてもさ…」 困ったように首を傾げる。ああ、益々彼に嫌われることを言ってしまったのだ。そう思うと涙は止まるどころか際限なく湧き上がる。 「日本のバレンタインって女の子が好きな男にチョコを渡して告白する日だって知ってる?」 「なぜ、女性に限定するっのです、か。男性が贈っては、いけなっ、い、のですか」 「いけないことはないけど…まあ日本じゃ普通しないなぁ」 「ぼ、僕は、あなたが、好き、です。あなたから、チョコレートを、贈られたいです」 「あー…」 再び首を傾げ、頬を掻く。彼の癖なのだろうか。 けれど今度は笑っていた。優しく、温かく、包むような笑顔で見詰めてくる。くすぐったそうに、という言葉があるが、きっとこういう笑顔のことを言うのだろう。 「なんだかわかんねぇけど、マジックくんが欲しいっていうならあげるよ」 「僕が、ほしいと言えば?」 「バレンタインのチョコ、俺から欲しいならあげる。これは、俺からきみへ、心を籠めてプレゼントする」 太陽が。 「ハッピーバレンタイン。…って、言うらしいぞ」 照れた分、輝きが増した太陽。 雨上がりの空によく似合う。 「僕に…」 「嬉しいのかどうかわかんないけど、泣くほど欲しいって言われて拒むほど勿体付けられる身分じゃないし」 掌に載せられた箱は軽くて、けれどそこに籠められた気持ちはとても重い。 生まれて初めての重み。 きっとこの先、二度とは得られない彼の気持ち。 「…ありがとうございます」 「うん」 「ありがとうございます」 「うん」 「ありがとう…ござい、ます…」 「…また泣く」 頭の上の温もりが染み入る。 彼が好きだと繰り返す。 言葉にしないなんて、そんなこと、出来るはずもなく。 「あの、」 「シンタローはん」 「…なんだ、今日は別行動って言っただろ」 「わての方はもう用事が済んでしもうたんどす。はよホテル戻りまひょ」 「俺はまだ買い物途中だっつの」 黒い髪。けれど太陽ではない。 夜の闇のような男が彼を見ている。傍にいる自分などまるで視界にすら入っていないかのように、我が物顔で彼の腕を掴む。引き寄せる。 「日本とちごうて物騒な国やし、あんさん一人で歩かせる訳にはいきまへん」 「ガキじゃねえよ」 「ガキやないから始末におえんのどす。みてみい、こないな子供にまで引っ付かれて。わての気持ちも考えとくれやす」 「なんでお前の気持ちなんか考えなきゃ、」 「わて、だからどす」 毒、という言葉を習った。 それは体に害をなす薬物のことを指し示すものだが、他にも意味があると教えられた。 毒のある言葉。 毒のある笑顔。視線。 「さ、行きまひょ」 「おいっ」 「行きますえ」 「おいって、」 「シンタローはん」 彼には笑顔を。 自分には。 「なんや知らんけど、あんさんシンタローはんになに言わはったん?このおひとになんやしたなら、子供かて許さへんで」 毒のある、という形容を理解した。 彼が輝きを翳らせるもの。 太陽を覆い、その光を遮るもの。 月ではなく夜。 夜そのもの。 「ほな行きますえ」 「お前な、マジックくんはわざわざ道案内をしてくれたんだぞ!」 「その礼は手のもんで果たしたやろ」 顎で示された小箱を背後に隠す。汚されるようで嫌だった。 「だけどものには言い様ってもんが、」 「いい加減にしなはれ」 ぴしりと切るように言い放つ。 「行きますえ」 再度腕を引かれると、彼は、諦めたように付き従った。 諦めたように。 彼には相応しくない、その冷めた表情。 誰かに似ている。 きっと、誰かに。 自分に。 「シンタロー!」 「…え」 驚いたように振り返る顔。黒い瞳がまるで救いを求めるようで。 「シンタロー、僕は、あなたが、好きです」 「え、あ…」 「僕はあなたが好きです!好きです!好きです!」 哀しそうに。けれど嬉しそうに。 「ありがと」 笑って。 「ありがとな」 笑って。 「ありがとう」 その背中はすぐ、人通りに紛れて消えた。 手の中の小箱がなければ、きっと、夢の中にすら埋もれ忘れる刹那の出逢い。 彼のことが好きだ。 だからしっかりその言葉を繰り返す。 彼のことが好きだ。 好きだ。この気持ちに嘘はない。いまだけのものじゃない。好きだ。 消えてしまった背中を、その幻影を追いながら、それでも心の中は澄んでいた。 これは一瞬の出逢いなどではなく、永遠に続く恋の中の一秒。 必ずいつか。 いつか必ず取り返す。 彼を。 思いを。 恋を。 きっと。 きっと。 「マジック」 「…ああ、用は済んだのかい?」 「勿論。空輸できる一番大きなサイズを頼んだよ」 「それはよかった」 「おや、きみは店には入ってこなかったような気がしていたけど。誰に渡すんだい?」 「………」 「マジック?」 赤い箱。 恋の箱。 封じ込めた。 「太陽さ」 いまはまだ遠く離れた、無限の岸の、煌きに。 END or NEXT?
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