月光譚

  

部屋の外を見てる。

窓から、外を見てる。いつも見ている見慣れた景色は、それはとても安心するものだけど同時にとても苦しいものだったりもする。だってここは俺の部屋で、俺が一番自分でいられる唯一の場所で。

明日も、ここに帰ってこられるかどうかの保証のない日々に足を踏み入れたのは、確かに自分の意志だったけど、

でも。

『雄介、電話!』

階下からのおやっさんの声に返事をして。

この扉を閉めれば、それで自分が終わるかも、知れない。

「なんだ、また出掛けるのか」

「ごめんなさい、急いで戻るから。えっと、もし俺あてに電話があったら無線で呼びすように伝えてね」

「いつの間にバイクに無線なんて付けたんだよ」

おやっさんはまだ何か言いたそうだったけど、出発前に時間をとられて、長く関わり合うのは嫌だったから急ぎポレポレを飛び出す。外は、今にも降り出しそうな曇り空。

  

つまらない話は、聞いてる方は勿論、している方だってつまらないはずなのに。

正座なんて普段し慣れないものをしているから意識は余計にどうでもいいことばかり追ってしまう。足の痺れを紛らすためにも必要だし。そうだ、今日はみのりが来るって言ってたっけ。なにか美味いものを作ってやろう。

そうだ、桜子さんも誘ってみよう。最近、毎日のように店に顔を出しては手伝ってくれる。きっと俺のことを考えてそうしてくれてるんだろうけど、そういう恩着せがましいことは一切言わない。桜子さんも、戦っている仲間の一人なんだって。そういうところでより強く感じられた。

「…相変わらず、上の空だな」

「え、あ…すいません」

「いつものことだ。…と言って許せることではないがな。始めに言った通り今日はお客様も大勢いらっしゃる。

雄介がそれでは恥をかくのはこの家全体と言うことになるんだぞ」

「…俺は…別に関係ないんじゃ…」

「まだそんなことを」

大袈裟に溜息を付かれて、それから後ろに控えていた怖い顔のお兄さんに合図をする。同じスーツ姿でも、一条さんとは全然違うな。なんか、上品さがないって言うか…

「着替えたら私の書斎へ連れてくるように」

「はい」

「あ、っと、あの、兄さん」

「なんだ」

「俺、今日ちょっと用事がありまして、これで帰らせてもらいたいなー、なんて」

「………五分後だ」

聞き入れられるはずないって、知ってるけど。

怖い顔の男は兄さんの秘書だ。怖いのは顔だけだって知ってるけど、それでも俺の味方じゃないのは確かだから

愛想笑いで誤魔化してみるなんて手段も当然通用しやしない。

ごく普通に開けて、そして閉めていくその襖絵も名のある画家の描いたものだ。床の間の掛け軸と季節の花を生けた花瓶。テレビドラマの中の金持ちが住んでいる家ってのはこれだ!って屋敷。

見たことのない、『家族』が住んでいる、家。

「雄介さん」

「…はあ」

俺の言うことなんて聞いてもらった試しがない。それにこの人、兄さんには絶対服従だもんな。

これって漆塗りだよね?という大きなお盆みたいなものに置かれたスーツは、きっと一条さんが着たらすごく似合うと思う。紺色のそれは俺が見ても仕立ての良さが分かるものだった。

ああ、おやっさんに電話を入れておかなきゃ。なるべく早く帰るようにはしたいけど…無理かな。

だけどね、こんな時に未確認の奴らが動き出したら兄さん、あなたはどう責任を取るつもりですか。

「着替えるなら指先だけではなく、手を動かしていただきたいものですね」

「すいません」

人差し指を振り文句を言っていた俺だけど、きっとそんなことお見通しなんだろう。取り上げたワイシャツをズイっと差し出されついでに三割り増し怖い顔を向けられた。昔の任侠映画の若頭って感じ。

文句を言うのも面倒で、さっさと着替えを済ませることにする。隙を見てバイクに戻って、一条さんに連絡しておこう。何処にいる、なんて言えないけど、取り敢えず状況を尋ねてすぐ動けるように対処しておかなきゃ。

「雄介さん、手が止まっていますよ」

「…電池、切れかけてるのかなー」

ああ、いやだ…

  

『丁度よかった、こちらからも連絡を入れようと思っていたところだ』

「事件ですか?」

『いや。きみに話があってポレポレに電話をしたんだが、その時夕食に誘われたんだ』

「おやっさんにですか?」

『ああ。それで、きみがいるなら構わないと答えたんだが…何時くらいに戻る?』

「え、っとですね…」

まずい。

『五代?』

「…はい」

まずいよ、言えないよ。

「あの…俺、ちょっと用があって…でも遅くとも九時か、遅くとも九時半までには帰ります」

『九時半か…まあ俺もそう早くは行けないが。その時間では却ってマスターに申し訳ないな』

「そんなの全然気にしないで下さい。一条さんに冒険の話を聞かせたくて仕方ないんですよ。だから、一条さんさえよかったら先に行っておやっさんのこと構ってあげて下さい。みのりも桜子さんも来てると思うし」

『そうか。じゃあそうさせてもらおうか』

「はい。あ、じゃああの、もし何かあったら俺、ちょっとバイクから離れちゃってるんで連絡遅くなるかも知れないんですけど…」

『そこは電話のない場所か?』

「………ええ」

『困ったな。まあ今のところ未確認に動きはないから、今日のところは大丈夫だと思うが』

「すいません、なるべくちょこちょこ戻りますんで」

『きみに頼り切った現状を思い知る瞬間だ。五代』

「はい」

『携帯を持つ気はないのか?』

「あー…」

今まで言われなかったのが不思議なくらいだけど。

「苦手なんですよ、いつでも何処でも連絡が付くのはいいことばかりじゃないでしょ。なんか、俺のこと考えろって言ってるみたいで」

『そう言うだろうとは思ったよ。まあいい、今日のところは既に出掛けてしまっている訳だし。俺の方はいつ連絡をもらっても構わないから』

「じゃあ、また後で電話しますね」

緑色の受話器を下ろすと、一条さんとの繋がりが解けた。寂しい感じ。

抜け出した屋敷の門は大きくて、都内でこんな大きな敷地を抱えている贅沢な人々をそのまま表すような威圧感があった。俺は、その中の人間じゃないのに。

「帰りたいな」

呟いたところで実行には移せない。だって、そういう約束だから。

ここに来ると溜息しかでない。憂鬱な気持ちで、だけど愛想笑いでやり過ごす。こんな俺を見たら一条さんはどんな顔をするだろう。驚くか…嫌悪、するか。

少し前に、一条さんは自分の中での俺の位置を「特別」という場所に置き換えたらしかった。

避けられて、それがものすごくショックで、逃げ出した。俺は自分の気持ちを誤魔化すつもりはなかったから、一条さんを好きだという感情も素直に受け入れてしまったけど、モラルと常識の固まりでそれを常に持ち歩かなければならない立場にいる彼からすれば、そんな気味の悪いもの、気付かされるのさえ嫌だったのかも知れない。

そう思って、逃げ出した。

結局、好きだという気持ちは消せなくて自分に嘘は吐けなくて。

明かりを点けない一条さんの部屋は海みたいだった。すごく安心して泣きたくなった。そこが居場所じゃないかって、俺の息が出来る本当の場所なんじゃないかって。本気で思った。

あの夜、二人でいた時間は他の誰かから見たらひどく曖昧でいい加減なものだったかも知れないけど、俺にとっては生涯で一番穏やかで優しい時で。キスして泣くなんて女々しいことも、この人の前なら普通だって思えた。

ただ、抱き締めあって。それで朝が来て。

一条さんの口から俺に対する感情が言葉で綴られることはなかったけど、流れ込む思いは本物だって信じられた。

きっと大丈夫だってそう思えた。

「隠し事…したくないんだけどな」

電話ボックスのガラス扉を押しながら呟く。話したくない訳じゃないけど、言えないこともあるんだよ。

俺の居場所じゃないそこに戻っていく。自分の息の出来ない、不快な世界。

  

  

「なんだ五代…なんでお前がいるんだ?」

この人…椿さんって、俺にとってどこまで鬼門なんだろう。