月光譚 3

 


連絡を入れると言っていた。

頻繁に訪ねるわけではないが、見慣れた店の駐車場に停車させた車内で一条は鳴らない電話をもう一度強く握りしめた。

別にどうということはない。彼にだって友人はいるし外せない用事もある。行動を逐一報告する義務はないし第一今日は先に事情も聞いている。電話が近くにないと言った。バイクからも離れている。連絡の付かない状態を詫びたのは五代で承諾したのは自分だ。

彼の、不在。

五代雄介という一人の人間の不在が、ここまで胸を締める大事になっている現実を今更のように噛み締めた。

掴み所のない空気を纏った青年を確かに初めは嫌悪したのに、気付けば無意識に目で追う自分が理解できずに苛立った。

子供のような純粋さで慕ってくれるその温もりが怖くて、傷付けていると自覚しながら遠ざける態度で追い詰めた。

なにも求めない。彼は、なにも欲しがらない。気持ちさえ隠そうとする、けれど震える瞳に飲まれてしまえばもう後戻りは出来なかった。

八時。店の明かりは温かそうだが、そこに彼がいる可能性は低く身の置き所はないだろう。

溜息と共に携帯電話を取り出し表示を睨む。時間を知らせるだけのそれに完全の八つ当たりで毒突こうとした。その時。

窓ガラスを叩く音に、弾かれるように顔を上げる。弛みかける口元を引き締める必要はもうない。

けれど。

「…椿」

ニヤニヤと意地悪く笑った友人が出てくるように即す。抵抗しようかと思い…すぐに諦めドアロックを外す。扉は、椿が開けた。

「なにやってるんだよ、入らないのか?」

「いや、少し考え事をな」

「五代か?」

腐れ縁、という言葉があるが、自分と彼の場合それは相応しくない。腐って、もう随分前に発酵して、発酵しすぎて水に戻った。掬いようのないそれ。

「なんでお前がいるんだ」

「沢渡さんに呼ばれた。賑やかな方がいいからってな」

「確かにお前が一人いれば十分すぎるだろう。…なんだ」

相変わらずいやらしく笑ったままの友人を心からの不快感で睨む。それを躱されるのが分かっているから腹立たしい。

「薫ちゃんは、愛しい五代くんがいないから賑やかさが余計に染みてイヤですか」

「…怒らせたいのか」

「まさか。まだ死にたくないからね。今狙ってるお姉さん、ファッション誌じゃ有名なモデルなんだよ。せめて一度は寝ないと俺として恥ずかしいし。あー、それに死ぬならもう一度薫ちゃんにも、」

無言で、表情を消して見る。彼は苛立っている。自分以上に…何かに。

「椿、何かあったか?」

「別に」

本心を知られることを嫌がる。自分をさらけ出すことを嫌がる。意地っ張りはお互い様の、手の着けられないひねくれ者。

「さーて、お前みたいなつまんない奴構ってないで沢渡さんにイーコイーコしてもらうかな」

「おい」

「なんだよふざけて悪かったって。お前はどうする?まだそこで待つのか?」

「いや…」

「帰るのか。それなら自分で断れよ。お前が来てるの、ばれてるぜ?」

顎で示された先の窓から、五代の妹、みのりの心配そうな顔が覗いている。目が合うと笑う、その表情が驚くほど似ていて。

今更『用事が出来ました』と断る勇気はない。

諦めて歩き出す、胸の携帯電話を気にしながら。

  

  

  

  

「そろそろ失礼させてもらっていいですか?」

「なんだ、さっきから時計ばかり気にしていると思ったら。今日は泊まっていきなさい。いや…」

全く似ていない『兄』が、意外なほど柔らかな表情で笑う。

「ここは雄介の家なんだから、泊まれはおかしいよな」

「はあ」

自分の言葉が面白かったのか、上品に右手の指で目元を押さえて笑う。

全体的に純和風の屋敷の中でここだけは重厚な洋式の家具や調度品で統一されてる。兄には似合うが俺はいるだけで浮いてしまうから、差し向かいで飲んでいるのがヤケクソのワインでもちっとも酔ったりしなかった。二人で、もう三本空けてるのに。

「初めに言ったじゃないですか。今日は用事があるから早く帰りたいって」

「駄目だ」

「兄さん」

「雄介、お前のことは色々調べてある。隠そうとしていることは、大概な」

一条さんに、少し似てる。顔そのものが、と言うより輪郭や雰囲気…こんなにオーバーアクションじゃないけど、あの人も

育ちの良さが窺える洗練された仕草をする人だから。

好きだと思った。言葉ではなく心を重ねた。後悔も迷いもない、一緒にいたい人。いる人。共に闘う人。愛しい人。

未確認生命体第四号の、自分。

「探し出すだけでどれほど苦労したと思う。興信所を何社も使い、やっとのことで探し当てれば母さんは亡くなったあと。雄介は『冒険中』で不在。その後も何度もすれ違いがあって、やっと見つけたお前は何処の民草とも知れぬ一警官なんぞに騙されて…この目で見るまでは信じないが、本当なのか?お前があの『四号』だというのは」

酔って砕けた口調で、なんでもないことのように明かされる手の内。隠せるなんて、思ってなかったけど。

「一条さんを悪く言わないで下さい」

「ふん。警官としては優秀なのかも知れないが、人間としては最低だ。雄介、自分が何をしているのか考えてみなさい」

「考える必要はないです。俺は俺のために、みんなのために闘ってます」

「みんな、を支える必要はない。雄介はこの家にいて、この家の為だけに振る舞えばいい」

「いやです。兄さん、あなたは確かに戸籍上では兄かも知れないけど、だけど分かり合うにはまだまだ時間がかかると思います。俺は俺の人生を生きてきて、これからもその道を進んでいくつもりです。この家は初めから俺とは無関係のもので、」

「無関係?馬鹿なことを言うんじゃない。雄介は当主として戻ってきたんだ、家長として守る義務がある」

「だからそれは兄さんに、」

「聞き分けの悪いところはおじいさま譲りか?頭を冷やしなさい」

立ち上がって出ていこうとする。当然と俺も後を追ったら扉の前で胸を押され押し戻された。

「ここで、自分が本当になすべきことを考えるんだ」

「だから考えてるってば。俺は俺にしかできないことをするんです。一条さんと、協力してくれる仲間と、」

「その仲間が、いつお前を裏切らないと断言できる」

「出来ます!俺たちはみんなで一つのことを目指して、誰一人いなくても成り立たない信頼の上に、」

「だから甘いと言うんだ」

冷たい目。一条さんが、時々する、目。

「友情信頼大いに結構。だがな雄介、愛情はすぐに風化するぞ。冷めたとき、一番始末に負えないものだ」

「なに…なんのことですか」

辛うじて立っていた。だって俺たちのそういう気持ちのやり取りは、いくら優秀な調査員が調べたって分からないはず…

「盗…聴?」

「いざとなれば総監に動いてもらう。雄介自体の身柄に問題はないが…彼の進退までは責任持てないな」

「卑怯だ」

「それがお前の生きる世界のルールだよ。警部補だろう?向こうにとっても失うには惜しい人材だろうな」

鼻先で笑いながら出ていく。なにも言い返す言葉がなかった。

      『俺、一条さんのこと好きになりませんから』

背中に負われたあの夜、初めて重なった心に届くように。そう言った。一条さんは静かに笑っていたけれど、言いたいことは届いていた。ちゃんと、真っ直ぐ。

恋人を作らないと言った一条さんは、自分の弱さを認めてくれた。失うのが怖くて避けていたその場所を、怯えながらも俺に解放してくれたから。いつか来るかも知れない別れの時を、二人共に覚悟して。

強くあれると、信じるために。

柔らかな時を、刻むために。

  

  

  

  

  

カウンターの一番端に座り、会話に耳を傾けている振りでぼんやりしていた。時刻は約束の時間を大幅に過ぎ、誰もが彼の不在を認めてしまった後だった。

「じゃあ、雄介いないけどお開きってことで。じゃあ桜子ちゃん、三本締めの音頭をよろしく」

「えーっなんで夕食会で三本締めなんですか」

「いーじゃないの、三本でも四本でも、けじめが大事よ」

「そうですか?じゃあ」

嫌だと言った割に乗り気の桜子に即され手を叩く。なにかめでたいか?五代がいないのに。そう胸の中で吐き捨てて、隣に立つ男の視線に気付き余計苛立つ。

片付けを手伝い、椿に送っていけとせがまれたのを無視してマスターの側に寄るとかねてから希望していたことを頼んでみる。

許可は、いとも簡単に下ろされた。

  

着いてくる男は無視して階段を上がる。彼の部屋に続くそれはひどく長く感じられた。

「へぇ、意外と片付いてるじゃないか」

「ああ」

五代の部屋は生活に必要な最低限のものでまとめられていた。それでいて、旅先で見つけたのだろう用途の分からない雑貨や装飾品などが並べられていてなんだか不思議な空間となっていた。

「一条、ほら」

示された窓枠には、むき出しのまま飾られた写真。自分が、彼と並んで笑っている。

それはつい先日撮ったものだ。科警研に出向いたとき、榎田が好意で撮ってくれたもの。五代は、彼は子供のようにはしゃいで、喜んで。出来上がったそれは自分の手元にも届いているが、まだ封は開けていない。本人に会うのだ、写真の中に閉じ込められた笑顔ではなく、本物のそれを間近で見られる。

だから、写真など、必要ない。

「なあ、この先どうするんだ」

「どう?」

「交際してる、ってことだろ」

「さあ。俺は五代のしたいようにするつもりだからな」

「おーお、惚れてるね」

「そうだな」

視線が険しくなる。だから、笑い掛ける。

「お前と五代は違いすぎる。お前といると自分が毒にしかならないのはよく分かってるからな」

「なんだ、じゃああいつは解毒剤か」

「いや」

「じゃあなに?」

「そうだな、強いて言うなら……」

  

一条さん!

   

「一般人より更に、警官が手を出してはいけない薬…かな」

吹き出した彼と、共に笑った。

なにも手を付けず、置き手紙もせず。そのまま、立ち去る。

  

  

  

  

  

  

  

「はーい、五代くんは思うんですけど」

手を挙げて呟く。広くて、居心地の悪い、『我が家』

「普通の家庭の窓に、鉄格子なんか入ってちゃいけないんじゃないでしょーか。それに…電話がないなんて…」

金持ちなんて、嘘なんじゃないの?

一条さん、ごめんなさい。俺って未確認以外のものには恐ろしく無力です。あなたにも。

何かしてあげられる、なんて図々しいことを考える訳じゃないけど。

「携帯…持ってればよかった」

逢いたい。