月光譚 4

 


弟は騙されている。

大切な弟を見殺しに出来るはずがないし、危険に曝すなどとは以ての外だ。この家の主として大切だと言うことだけではない、あなたにも肉親はいるでしょう。静かな、けれど反論を許さない厳しい話し方だった。

どこまでが本心か分からないけどね。

検体の予定は一つもなく、急ぎの用件はなにもなかった。早いけど昼飯にしようかな、なに食べる?秀一くん。なんて自問自答していたところに鳴り響いた内線のベル。

いやな予感は、朝からあった。

  『五代が帰っていないというんだが…そこにも行っていないとすると…』

お前は父親か?そう言いたいのをグッと飲み込み、取って付けたようにそりゃ心配だと呟いた。言葉の端を、取り逃がすような一条じゃない。

心当たりはないが時間はある。じゃあマスターに聞いて探してやるよと返してみたら、低く唸ったあと『頼む』と言って電話を切った。

昨日の経緯を知らなければ俺だって焦ったよ。あいつは四号で、世間どころか味方のはずの警察だって最後のところではどう考えてるのか分からない。生物兵器になる可能性を示唆したのは他ならない俺なのだ。危険分子は排除する。至極当たり前で、且つ人間が生きる上での悲しいまでに非情な、それがルールだから仕方ない。

仕方ないけど、見殺しになんてしたくないじゃないか。

ナースセンターに顔を出して、早退しますと自慢の笑顔で言ってみたら『代返のお礼は高いですよ』と返された。いいでしょう、美人は好きです。なんなら本当のフルコースで、と続けたところに運悪く主任が戻ってきて睨まれた。悪い人じゃないけど、院内で勝手に振る舞う俺をよくは思っていないのだから仕方ない。彼の旦那も医者で、苦学生だったが腕のいい名医としてご近所の評判は上々らしい。

悪かったね、お坊ちゃんで。

ボクちゃんのパパは大金持ちで、医師会でも影の最高権力を握ってるような人ですよ。

あんまり…大分好きじゃないからここにいるんだっつの。人の命は金じゃ買えない。買えない命を金で捌く。金、金、金って、お前はカネゴンか。いや、あんな可愛いものじゃないな。デブだし。ハゲてるし。

ヤダなおい、俺も将来ハゲちゃうか?医者だもんな、早めに自分で処方しよう。植えるのと地道に生やすの…どっちがいいかねぇ。一条も誘ってやるか。

なんて脱線したこと考えながらさっさと白衣を脱ぎ病棟を出る。駐車場には愛車がデーンと構えてるけど、そろそろオープンカーはやめよっかな。風圧はハゲの敵よ。

そうして真っ直ぐやって来た屋敷の前で車を停めると、当然のように設置されたカメラに俺が映っていたのだろう。門がゆっくり左右に開き、家政婦らしきおばさんが玄関前で恭しく頭を下げて待っていた。

 

で、通されたのが二十畳はありますねっていう客間だった。

 

 「あれは世界中を旅していると言いますが、私から見ればまだまだ子供です。善悪の区別が付いていない」

 「付いているから闘うことを選んだのではないでしょうか」

 「いいえ」

笑うと、少し一条に似ている。

 「付いていないから、その道を進んでしまったんです」

出迎えてくれた五代の兄ちゃんは俺よりデカイ。大企業のトップにいる割に引き締まった体は医者として実に褒め称えたい均整の取れたものだったが、こっちが卑屈になるほど立派な体格してらっしゃるとお願い事がし辛くて仕方ない。

ただでさえ俺は結構本気でどうでもいいことなのに。

   『お兄さん、雄介くんを僕に下さい』

か?

 「あなたも将来有望な医師でらっしゃる。雄介の体のことを考えれば、当然引き留めて下さると思っておりましたが」

 「それは確かに。彼の安全を第一に考え、限界を超える前に手は打つつもりです」

 「ではその限界とやらが急激に襲ってきたらどうします?あなた方の言う、戦闘中にそれが起こってしまったら…雄介はどうなりますか」

 「それは…」

誰にも分からない。五代にだけは分かるのかも知れないけど、あいつは絶対、自分から口に出したりしないだろう。

大丈夫。

その言葉の刺をあいつは知らない。言われる度に傷付いた、一条の本心なんて知らない。

 「俺は…私たちは五代くんを信じています。彼も私たちを信頼してくれている。だから闘えるんです。迷わず進むことが出来るんです」

 「それはあなた方の言い分でしょう」

立ち上がると洋酒の並ぶサイドボードの前まで歩く。取り上げたのは木製の写真立て。

 「夢だけを食べて生きられれば、それは確かに幸せなことでしょう。けれど母は、雄介の母親はその望みを叶えられることなくこの世を去らねばならなかった。五代という人物と出会わなければ雄介が生まれることもなかったけれど…悲しいまま逝かせることもなかったでしょう」

カタン、と。乾いた音で写真立てが戻される。きっと五代に似た眼差しの、哀しい女性。

「返して下さい。あれは私たちにとってこそ必要なものです」

「それは承知していますが、その問題は当人を交え、警察関係者とも話し合って下さい」

「何故です?家族を守りたい、それは正当な理由でしょう。それをどうして警察組織に意見を聞くような真似をしなければならないんですか」

「彼は、彼一人の体ではないからです」

「そうしたのは雄介ではない」

「しかし、」

「あの刑事…一条、とかいいましたか」

…なんだよ、呼び捨てにするな。

「雄介の行動はかなりな度合いで彼に左右されているらしいですね」

「ですから、それは五代くんが自分で決めたことに対し本来の職務として彼を守っていることに過ぎません。決して一条が勧めているわけでも、追い込んでいるわけでもない」

「それはあなたが彼の友人だから言えることでしょう?私たちにとっては不信の固まりでしかない」

「しかし、」

「一介の警官如きがどれほどの権力を持つというのです?万一警察組織が雄介を危険なものと見なしたとき、彼に守りきることは出来ますか?無事な姿で我々に戻すことが可能なんですか」

「あの…自分のことは自分でします…けど」

「雄介、どうやって…」

五代が申し訳なさそうに顔を覗かせている。扉にかけた指が遠慮がちに引っ込んでいき、体半分が見える程度に押し開いた。

「ごめんなさい、ドア、壊しちゃいました」

「壊した?」

「だっていつまで経っても開けてくれないし、窓は…塞がれてるし」

鉄格子で。呟いた言葉を聞き逃しはしない。なんだこの家は、時代錯誤もいいところだ。

「なんか人が来たみたいだなーって思って、じゃあ俺も一緒に帰らせてもらおうかと。椿さんだったんですねぇ」

「雄介、まだ私の気持ちが分からないのか」

「分かります。心配してくれてるんですよね?それは本当に嬉しいです。俺、今まで妹しかいなくて、俺が頑張らなきゃっていつも思ってたけど…兄さんがいて、俺にも頼れる人が出来たんだと思うとなんか安心するって言うか」

「それなら私も安心させてくれないか」

サッと五代の側まで行き、警戒する奴の腕を掴み引きずり込む。なんか、ちょっと…

「雄介は私にとってたった一人の弟だ。大切に思ってどこが悪い、身を案じることのどこがいけない」

「あの、だから俺は俺の考えで動いてるんです。一条さんに言われたからとか、みんなの期待に踊らされてとか、そういう兄さんが思ってるような悪いことじゃないんです」

「口答えは感心しないな」

似てない兄弟。…当たり前だけど、違いすぎて聞いてるのもバカらしくなってくる。五代の脳天気さは嫌と言うほど知っていて、それはもう天然だから諦めた。だけどこいつの言い方は…なんか裏があるような気がしてならない。

「雄介は騙されているんだ。都合よく利用されているに過ぎない」

「一条さんはそんな人じゃありません」

「では聞くが、清廉潔白な人間が人目を憚るようなことを自らするのか?飼い殺しのように扱われて、それでお前は納得するのか。彼は………雄介に、何を与えた」

五代の目が逸らされる。

その先にいた俺を見て、ひどく傷付いた目で俯く。指先が、震えている。

「ここにいなさい。閉じ込めたりはもうしないから、自分の部屋でもう少し冷静になれるよう考えるんだ」

「…冷静ですよ」

「雄介」

「お取り込み中すみませんが、私はこの辺で失礼します」

「あ、俺も」

「雄介っ」

強引に引き寄せられた腕を、震えた指が引き剥がそうとしている。泳がせたままの視線は既に泣きそうに潤んでいた。

「話を…ちゃんと話をさせて下さい。どこにいるかも話してないんです、きっと心配してるから」

「二度と会わなければそれでいい」

「そんなわけにはいきません、約束したんです。中途半端はしないって、約束して、それで一緒にここまで来たんです」

「では今、一番半端なことをしているのは誰だ?彼じゃないのか?雄介の気持ちを利用して、踏みにじって」

「そんなことないですっ!」

悲痛な叫びだった。聞きたくないと言うように、無理に振り払った腕を呆然と見て、それから逃げ出すように走り出した。

「では、私もこれで」

「彼に伝えて下さい」

目前に立たれると俺でさえ見上げなけりゃならない。結構ムカツク。

「雄介に近寄るなら、それ相応の覚悟はして欲しいと」

「はあ。じゃあそちらの愛犬にも伝えて下さい。リードを取る人間は一人きりだって」

フラフラさせてるのはてめーだろ。バカ。

頭を下げて退出する。背後では、押し殺した気配が音を立てるようだった。殺気としか言い様のない、音が。

 

 

「一条なら今日は本庁にいるらしいぜ?」

俺の愛車の横にバイクを停め佇んでいた五代は、何か言いたげに唇を開き、けれど声に出す前に閉じてしまう。その繰り返しの三度目で口を挟んだ。

「お前らのことはお前たち自身で考えることだ。第三者が口出しするのは筋違いだろう」

「…そうですね」

「でも一つだけ忠告しておくよ。お前がしてることはかなり半端だ。一つしか選べないなら片方は容赦なく切れ。天秤に掛けられるほど、お前は偉い奴なのか?」

「やっぱり…椿さんって意地悪だ」

「嫌いだから、これは普通の対応だ」

五代は、何処か憎めない笑顔を持っている。その頼りない微笑みで見つめる先にいる一条を、いつの間にか手に入れてしまった。

俺がどれほど欲しがっても、傾きもしなかった繊細で、けれど決して割れないガラス細工。

「決めるのは自分自身だ。でも心配するなよ、お前がいなくても一条には俺がいるし、割り切れないほど子どものままなら警察官なんて勤まりゃしない。お前が未確認と闘うのは、結果的にはお前の意志だ。その答えくらい自分で見つけろ」

「そんなの…簡単に出来るはず…」

「出来なきゃ潰されるだけだ。いいか、俺はお前が闘うことを選んだから力を貸すことにした。だけど途中で逃げるならそれもいいさ、命は誰だって惜しい。けれどそれも全て決めるのはお前であって、他の誰かの思惑なんか絡んじゃいない。答えは一つだ」

弱々しい、光のない、目。

「一条を巻き込むな」

ビクッと、肩が震えた。あいつの言い方に予想を付けてはいたが図星のようだ。二人のことは知られている、特殊としか言い様のない、社会的に極めて異端とされること。

今の警察官に求められるのは、正義感より清潔感。

父親の志を継ぐために諦めた夢を知っている。ぽつりと呟いた音楽室の、オレンジの光に包まれたグランドピアノ。

自分を犠牲にしたのは五代が初めなんかじゃない。

「未確認を倒したって無償、無保証、無関心な世間より、ドアを壊しても損害請求されない身内の方がいいんじゃないか?」

「別に蹴破った訳じゃないですよ?鍵穴が埋められてたからそれを穿って、ちょっとナイフでガチャガチャって…」

「ヒーローが錠前破りか。四号別件逮捕なんて洒落にもならんことはするなよ」

つまらない話は切り上げ愛車に乗り込む。

「椿さん」

「なんだ」

「俺は…一条さんが好きです。一条さんも、同じ気持ちでいてくれてると信じてます」

「あのな五代」

俺の顔は、笑わないと随分意地悪く見えるらしい。

「信じてる、って言葉に出すのは、信じ切れていない奴のすることだ」

唇を噛んで佇む姿を、きっと暫くは忘れないだろう。

哀しげなその横顔をミラー越しに見ながら門を出る。ここは、俺のテリトリーじゃない。

だけど五代。

お前にとってもそうだなんて、一体誰が言えるというんだ?危険な闘いに身を浸し、いつ来るとも知れない最悪の事態に怯えるその目を、お前の後ろで見守る連中が気付いてないと本気で思うのか。

最後のチャンスかも知れない。まだ、巻き戻すことが出来るかも知れない。少なくともそうすることで、『五代雄介』という男は『人間』の暮らしを取り戻すことが出来るだろう。そしてあいつも、一条も、悲壮な決意のまま五代の背を見つめることはなくなるだろう。

「………詭弁だな」

五代がいなくなれば俺には都合がいい。

誰のものにもならない、それはそのまま、一番近くにいる者の価値が一番上であると言うことに他ならない。それなら一条は五代に逢う前と同じように、硬質な冷たい目をしてそれでも俺を見てくれる。笑わないその頑なさで、黙して語らぬ薄い唇で。

「そんなの…お前が笑う顔を覚えちまったあとじゃ意味なさ過ぎるよな」

俺には、あんな静かな顔をさせてやる術はない。今までの時間で分かりきった事実。

五代、俺は本気で思うよ。お前が死ねば、きっと壊れたあいつなら手に入るだろう。だけど俺がお前から取り上げたいと切望する一条薫は、隣にお前という存在がいなければただの幻に過ぎないんだ。

いっそ死ねばいいのに。そう思いながら苦笑する。誰が?俺か?それとも。

「ホトトギスは、鳴かないなら殺した方が早いよな」

俺はそういう男だよ。でも。

そんなこと、出来るはずのないことだと言うことも、知っている。