月光譚 5

 


部屋の前で待つのは躊躇われたから。

そう言ったら少し怒った顔で『だったら連絡してくればいいだろう』と言い返された。

一条さんは、俺のことをじっと見てそれから静かに笑った。

笑って、しゃがみ込んだ俺に手を伸ばした。

触ってもいい?

この手を取ってもいい?

心を、重ねても………いいの?

引き上げて、目線を同じにして一条さんが覗き込む。俺の全てを見ようとする。

隠してること、話したい。

そう思ってきたけど、この大きな目の中に映る自分はただ静かに笑っていて、きっと決心は揺れたまま心の奥に沈んでいく。まだ早い。まだ。彼にも自分にも準備がない。

駐車場の、彼のスペースの近くに座っていたから、確かに少し冷えている。冷たい手だと笑った彼は、当たり前のように先に立って歩く。

開かれた扉の中に招かれて、俺はきっと彼が好きな笑顔を浮かべ頭を下げる。優しさに満ちた嘘の静けさ。嘘の安らぎ。

俺たちは、だけど絶対嘘なんかじゃない。

声に出して言うことは出来ないけど、あなたにだけは本当のことを知って欲しい。

今はまだその時じゃないから、だから安心できる言葉を伝えることは出来ないけれど。

俺が好きなあなたの瞳を、曇らせることだけはしないから。

 

 

 

 

 

「で、どこにいたんだ」

「えっと、友達のところです」

「五代」

ムッとした顔が俺を睨む。たださえ俺は座っていて、一条さんは立っているから見下ろされる視線は怖いというのに。

自覚、ないんだろうな。刑事の目って一般人にはかなり鋭く見えるんですよ。

「俺に嘘を言うのはもう止めにしないか」

「…それは、賛成ですけど…」

別に嘘を吐いてるわけじゃない。本当のことはまだ話せないってだけで…ああ、それが嘘になるのか。なんて、こんな言葉遊びで誤魔化されてくれる一条さんじゃない。

「五代」

苛々した様に、殆ど叫ぶように一条さんが詰め寄る。まずい、ここに来た意味がなくなる。

「嘘なんて言いません。ねえ一条さん、おなか空きません?俺、今日は心配させたお詫びに色々持ってきたんですよ。スーパーの閉店前って殆どが半額処分だからすごく得した気分になるんです。ほらこれなんか、」

手にしたスーパーの袋から、牛肉のパックを取り出し見せようとした。

それが膝にぶつかり、床に落ちる。

抱き締めてきた一条さんはあったかくて、知らず凍えていた俺のことを包むような温もりで安心させてくれる。

一条さんだ。

俺の好きな人。

俺が見つけた人。自分で。

愛した人。

「心配…させちゃいましたね。ごめんなさい」

「謝って済むなら警察なんていらないんだ」

「まあ…それじゃ失業しちゃいますしね」

「俺が失業するような世の中ならなんの問題もないだろう」

「そっか…そうですね。じゃあもし一条さんがリストラで無職になったら、おやっさんに頼んでポレポレに再就職するってのはどうです?」

「いきなり喫茶店の店員か?」

「俺と一緒ですよ?嬉しいでしょ」

「…どうかな」

「嬉しいくせに」

笑うと、頬に触れた一条さんの胸も小さく震える。笑ってる。

好きだけど、言葉では伝えられない。多分、二度と。

「先輩店員の俺が腕を奮ってる間に風呂に入って下さい」

「普通は先輩が先だろう」

「いーえ。役に立たない新米は風呂掃除から始めるって決まってるんです」

「そうか?」

「はい」

それでも一条さんは、暫くの間動かず俺を抱き締めていた。その先にあるものの影は確かに俺にも見えているけど、踏み出す勇気は、この人にはない。

決して責めてるわけじゃないけど。

俺の目を、潤んだ瞳で見つめながら一条さんが離れていく。頬に当てられた掌が熱くて、きっとそれは素直な気持ちの表れだって分かってるけど。

握り返すことはしなかった。そんな資格はないから。

 

 

一条さんが風呂に入っている間に、俺は慌ててリビング全体を調べ始める。盗聴器が仕掛けられそうなところは結構限られるけど、あの兄が下した命令なら油断は禁物だった。

部屋中のコンセント部分を調べ、ソファ脇のスタンドプラグの挿してあるそこから小さなマイクを発見した。それから天井の照明器具のところ。思ったより時間がかかって、慌ててキッチンに飛び込み人参の皮を一本分剥いたところで一条さんが出てきてしまった。

「なんだ、五代にしては手際が悪いな」

「すいません、安さにつられて買ったはいいけどメニューを決めてなかったもので。本当は煮込んだ方がいいんですけど…それは明日のお楽しみってことで、今日は出来立てのビーフシチューで勘弁して下さい」

「作ってもらうのに文句なんてないさ。それより材料費はいくらかかった?」

「ダメです。今日はお詫びなんだから俺が奢ります」

「そう言うわけには、」

「いくんです。…あっと肝心なものを忘れてた。一条さん、申し訳ないんですけどバターを買ってきてもらえません?」

「ああ。種類は?」

「拘りはないですけど、出来ればチューブじゃなく箱入りのにして下さい」

「分かった。なにか違いがあるのか?」

「チューブのはパンに塗りやすく作ってあるんで、他の料理に合わないかなって…俺が思ってるだけです」

「それは拘りって言うんじゃないか?俺はほら、なんだかあるだろう、バターの種類っていうのが。あっちを聞いたんだけどな」

「無塩とか?あれはお菓子とかパンに使うのが一般的なんですよ…ってああもういいから、早く行ってきて下さい」

「風呂上がりに外出させられる俺に労りはないのかね」

「……………そうでした。すみません」

いいよ。そう手を振って出ていく一条さんの背中を見送り玄関に立ち尽くす。

ごめんなさい。俺、本当はこの部屋に一度入ってます。

二千もの技があるから、マンションのドア鍵を開けるくらい簡単なことだ。店の閉店はおやっさんに任せて、昼間のうちに買っておいた食材を抱えここに来る。忍び込む。

半額シールの一枚くらい、手に入れるのは容易いこと。

だけど巧妙に仕掛けられた盗聴用マイクなんてそう簡単に見つけられるものじゃない。結局手間取っているうちにすっかり遅くなり、リビングを調べることが出来なかった。

大きく息を吐き電話に向かう。ダイヤルナンバーは無理に覚えた兄直通のもので…

「…俺です。リビングに二つ、キッチンに一つ。この親電話に一つと、寝室の子機、ナイトテーブルの下に一つずつ。洗面所の配水管に一つ…あとは、どこにありますか?」

『それで全部だ』

静かな声。兄の声。血の繋がりのない、肉親の声。

『嘘は言わない。雄介、帰ってきなさい』

「嫌です。俺は俺のいる場所を自分で決めます。兄さんに指図は…されたくないです」

『そうか。でも私は兄としての責任がある。この家の当主としての、お前を守る義務がある。分かるな?』

「そこは俺の家じゃないです。兄さんは俺より長くそこにいて、居続けてもいい人だってみんながそう思ってます。だから俺のことは、」

『雄介、お前は私の大切な弟だよ』

優しい声。一条さんに似てる。

『欲しいものは全て与える。なにも自由を奪おうというのではない。だけど雄介、お前はまだ子供で善悪の区別が付いていない。そんな子供を導くのは兄として当然だろう』

「世間では、二十五にもなった男をそんな風には扱いませんよ」

『私にとっては子供だ』

包むような。

一条さんとは違う暖かさ。一条さんの温もりは脆い。それは気持ちの曖昧さではなく二人の進む道がひどく儚く不確かだから。濁ったゼリーの中を泳ぐような、虚しく愚かな選択だから。

いつかは、手放す人。

殺す人。殺される、もの。

「その時が来たら…俺はここから消えます。兄さんのところに行くわけじゃないけど、それでもここから離れるのは自分で決めたことです。決めてる…ことです」

『お前がただ傷付いていくのを、私が見ていられると思うのか』

「兄さんなら…そうしてくれるでしょう?」

秒針の進む音。鼓動のようなそれ。

俺は、どこから来て、どこへ行くのか。人生を歩いていた、ついこの前までの俺はもう。

「五代雄介でいるうちに、せめて後悔しない道を見つけておきたいんです」

『お前の道はここにある』

「兄さん、」

『帰っておいで、雄介。お前一人が傷付くことはない。気付かないのか?その痛みを彼に話すことが出来ないのだろう?だからそんなに苦しむと言うことを、お前は気付かぬ振りで過ごしてる。それだけのことだし、それだけの男なんだ。あれは』

「一条さんは…そんなんじゃ…」

『明日、もう一度来なさい。無理に閉じ込めたりはしないから』

「店が…あります。それにいつ未確認が出るかも分からないし…」

『それについては彼を交えて話す機会を持つ。場合によっては警視総監を同席させようとも思っているが…それは、避けたいだろう?』

脅しだ。こんなの脅しだよ。でも。

絶対的に逆らえないものは人生の中にいくらもある。

「分かりました。じゃあ明日、店の手が空いたときに行きます。必ず行きますから、もう一条さんに手を回すのは止めて下さい」

『雄介が聞き分けよく、最善の選択をするのなら』

「…………考えます、ちゃんと」

受話器を置く音は乾いて、遠く弾ける硝子細工のようだった。

俺か、それとも、彼か。

砕けるのは、それはどちらか一方で十分だ。

俺だけで、十分だから。

 

 

 

 

 

 

出来上がったシチューを、一条さんはすごく喜んで食べてくれた。残りはファスナー付きの袋に小分けにして冷凍庫にしまうと、洗い物をしながら『便利になったな』と呟く声がおじさんみたいでおかしかった。

おかしかったから笑った。

一条さん、大変な仕事だからって早く老けるのだけは勘弁して下さい。そう言ってやると不機嫌そうに唇を結び、それから意地悪を思い付いた目で俺を見た。

   『あんな名刺をいつまでも配ってる奴に言われたくない』

あ、それ結構傷付きます。シュンとしたら慌てて手を振り違う違う悪気はないって、何度も繰り返し謝ってくれた。俯いた頭にポンと手を置き、気遣う目で見つめてくれた。

甘やかされてる。

一条さんは、ある一線からこちらにいる自分を解放したようで、そこにいる間は子供みたいに触れてくる。友達と、それよりもう少しだけ深いもの。

俺はそれが嬉しくて、甘えてもいい限界まで自分自身を預けることにした。

好き、と。

簡単に恋愛には出来ない二人。性別や環境、状況。全てが、誰もが祝福してくれないそれは、続けていても意味のないものなのかも知れない。でも。

今この瞬間の彼が好きです。

何ものにも代え難いほど大切です。

嘘なんか一つもなくて、真っ白に染み一つない俺の本当の気持ちだけど。

叶えていいものじゃないということも、知っている。

 

 

 

 

「帰るのか」

「はい」

「まだ、どこにいたのか聞いてないぞ」

責める視線じゃない。

きっと、一条さんは心配してる。俺に何かあったと敏感に感じ取ってる。聡い、この人に隠し事なんて出来ない。

「心配かけましたよね。でも本当に大丈夫なんです。一条さんは忙しいのに、俺のことに気を回させるなんて…すいません」

「そう言う風に言われると余計気になる」

不機嫌だと顔に書いてある。分かり易い人。

きっと、俺にだけ。

「相談したいことは聞きたくないって言われても話しちゃいますよ、俺」

「じゃあ話せ」

「一条さん、子供じゃないんだから」

わざとそう言うと案の定目を逸らす。遠慮のない態度は嬉しいけど、せめてもっと早く出逢えていたら。こうなっていたら。

「言ったでしょ。俺は、一条さんだけは好きにならないって」

「…それは、」

「俺は俺の考えた通りに動いて、それで何とかなるうちは一人で頑張ることが出来ます。

でも一条さんなんか好きじゃないから、ダメだなって思ったときは嫌がられても寄り掛かって、聞きたくないって言っても耳を引っ張って話しちゃいます」

「きみの言い方は…なんだかこう、いまいちすっきり納得できない」

「そうですか?」

余裕って顔で笑う。そういうのは嫌いだって知ってる。

「大学の時の友達のところに行ってました。…実はちょっと調子に乗って飲み過ぎちゃったもんですから、きまりが悪くて帰れなかったんです。だって店にはみんな集まってたし、

こんな状況なのに酔ってるなんて不謹慎だし」

「まあ…それはそうかも知れないが。でもきみだってたまには羽目を外したいだろう、俺にそれを責める資格はない」

「そう言ってくれると思ってました。だから白状したんだけど」

「確信犯か?余計に重罪だぞ」

「あらら、刑期はどれくらいでしょう」

目を細めて、一条さんが俺を見る。とても温かな、とても静かな、何か眩しいものを見つめるような優しい目。瞳。

「椿さんに…」

「椿?ああ、あいつにも礼を言わないとな。きみのことを探してくれると言ったんだが…まあ結果的に成果はなかったわけだし、借りを作るのは嫌だから無視してもいいが」

「俺から言っておきますよ。じゃあ帰ります、お邪魔しました」

「本当に、その…」

靴を履きかけた俺を、歯切れ悪く呼び止める一条さん。何が言いたいか、本当は分かってる。俺は、だからまた言葉を飲み込む。椿さんのこと。

歯ブラシを買ってくれた。次は自分で買えって、笑いながらそう言った。

恋愛にするのが怖くて、自分の感情に怯えて逃げた。そんな一条さんを責められなくて、結局有耶無耶のまま過ごしてしまった時間がこんな風になるなんて。

答えを、出してしまえばよかった。恋愛にすればよかった。

「また今度、ゆっくり寄せてもらいます。なんたってここには俺の歯ブラシがありますからね。家出先にはもってこいの場所です」

「家出人は保護次第、送り返すことになってるんだ」

「ちぇ。せっかく広くて綺麗な部屋でのんびり出来ると思ったのに」

「五代の部屋も、居心地の良さそうな部屋だったけどな」

「あ、見たんですか?」

「勝手に済まない。どんなところで生活してるのか、是非見せてもらいたいと思っていたものだから。五代らしい部屋だな。きみが好きそうなもので囲まれていて、何もないここよりは退屈しないだろう」

「確かに。でも一条さんだって自分の部屋は好きでしょう?」

「好きというか…手を加える時間がないだけで、好んでガランとさせてるわけじゃないぞ」

「じゃあ俺が手作りで置物でもプレゼントしましょうか?」

「きみが?」

「俺が」

考え込む。顎に、指まで当てて。

「検討させてくれ」

「ひっどいなぁ、一条さんは俺の美的センスを疑ってるんですね?傷付いちゃった」

「それは済まなかった。じゃあ今度、何か作ってもらおうか。前衛的な花瓶でも」

「任せて下さい。思わず南洋の気味の悪い葉っぱでも飾りたくなるようなのを、精魂込めて作らせていただきます」

「…やっぱり考えさせてくれ」

「記憶したんで、キャンセルできません」

両手で耳を塞いだら、一条さんは猫みたいに喉の奥で笑った。

ベロアの毛並みのような、滑らかで暖かな時間。

「五代」

「はい?」

手招いて、一条さんが近付いてくる。なに?って傾げた首筋に、骨の目立つ指が伸ばされる。そうだね、きっと、今なら自然だね。

月の夜。

濃紺の空に神々しく輝くその月は一条さん。夜は椿さんの匂いで、俺はそこに居場所がない。見上げる地上はぬかるんだ足元で、天に向かって伸ばす腕だけが精一杯の哀れな囚人。

俺は、重力から解放された原子の体で何処かに流れて行くだけだから。誰にも知られず、その固体として求められることもなく。遙か時空の果てまでも。

憧れるだけ。

焦がれるだけ。

決して自ら、求めてはいけないもの。

唇を離して、一条さんは衝動からか俺のことを強く抱き締めた。だけどそれ以上には動かない。動けない。

いいんだよ。それで。それがいい。きっと。

だって俺には、あなたを欲しがることさえ許されないから。

下げたままの腕を上げ、拳で軽く彼の背を叩く。離れた一条さんは泣きそうな顔で、こんな女々しいところを見せたくないはずの彼をそれでも目の奥に焼き付ける。

兄の都合であなたを哀しくさせたりしない。

離れていくのは俺の意志だよ。だって俺は自分で選んだ、クウガとなって闘うことを。中途半端に拘わらないことを。だから今、このドアを開けるのは俺が自分で決めたこと。

「一条さん」

「…ああ」

「これからも、頑張っていきましょうね」

「五代?」

「俺、絶対に勝ちます。みんなと一緒に勝ちます。その勇気をくれたのは俺が大切に思ってる人たち全部だけど…一番は一条さんなんだって胸を張って言いますから。誇りを持って言えますから」

「なにかあったのか、夕べなにがあった」

「俺、一条さんを信じてます」

 

         信じてる、って言葉に出すのは

 

「絶対、負けたくないから」

 

         信じ切れていない奴のすることだ

 

「じゃあ、また」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

俺は強くない。

クウガとして闘う俺は強いけど、五代雄介として生きてる俺は『剛』くなんか、ないから。

 

 

 

卑怯なのは俺と、一条さん。

口に出せない勇気のなさを、互いに責めて罵り合えば、それで少しは救われるかも知れないけれど。だけどそれさえ許されないなら、黙って全ての扉を閉める。

今は、逃げるしかない。それしかできない。

せめてあなたに正直でいるため、今は何も聞かずにこのままで。

 

 

いつか、俺の気持ちが届くとき。

その時全てが、分かればいい。