月光譚 6 おやっさんには関東医大の先生のところに行くと言っておいた。 「だから、もし一条さんから連絡が入ったら…」 『冒険費用を援助してくれてるパトロンの所に行った、って言えばいいんだな』 「…そうですね」 『分かったよ、奴が本気で心配しない程度に具合が悪いってことにして、今はぐっすりお休みですよって言っておいてやる』 「本当に心配させるような言い方はしないで下さいよ?駆けつけて来ちゃったら話にならないんですからね?」 『偉そうに言うなよ、俺はお前の事なんてどうでもいいんだぞ』 「分かってます。でも、一条さんが不利になることはしたくないでしょ?」 『俺を脅すとは…ムカツクからもっと意地悪してやる』 「どうぞ。好きにして下さい」 頼みましたよ、念を押してから電話を切る。 これで、もし連絡があっても椿さん経由で実家へ…居心地が悪いだけの大きな家へ用件だけを転送してもらえる。まずい人に知られたけどその点だけはよかったかな。 溜息は、自分でも呆れるほど大きく長いものだった。 「どこに電話していたんだ?」 「え、あの…店に」 「雄介、一々嘘を吐くのは止めなさい。お前さえ約束を守れば私も無理なことはしない」 「はい…すいません」 「まあいい。客間にみなさんお揃いだ、着替えておいで」 「これじゃ駄目ですか?思うんですけど、ありのままの俺を見てもらわないと意味ないんじゃないですかね。喫茶店の幽霊店員がこんな財閥のトップなんてどう考えても勤まらないんだし」 「無駄口を叩くために呼び寄せた訳じゃない。着替えなさい」 赤いチェックの一枚1900円のシャツだって、俺には一番似合ってる服装なんだよ。それを否定されたら俺自身を否定されてるのと同じで…じゃあ俺じゃなくてもいいじゃん。って結論に辿り着くんですけど。 兄さんの後ろに控えていた怖い顔の秘書――榊原さんっていう名前だった。いつも目で合図するだけで動く人だから、これまで呼ばれているのを聞いたことなかったんだけど。その榊原さんがスーツ一式揃えたデカイお盆?を持って近付いてくる。 ここに、自分を置くつもりはない。 なのに飛び出すことをしないのは、確かにこの家が母さんの生まれ育った場所だと言うこと。身寄りのないはずの俺たち兄妹が、帰ることを許された『我が家』だと言うこと。 俺に万一のことがあれば、みのりは一人になってしまう。人間を裏切った兄を持つ者として、謂われのない中傷を受けることになるかも知れない。その時、この家が後ろ盾になってくれれば、少なくとも直接耳に入るであろう世間の非難は防げるはずだ。余計な痛みは感じずに済むはずだから。 俺が、継ぐ必要はない。そのつもりもない。だけど妹は正しくこの家の正当な血を引く人間だし、きっとそれを成し遂げる力も持っている。 それなら今は大人しく従い、状況が変わった時きちんとそれを話せば兄も分かってくれるだろう。俺には何もできない、許されない。それを拒むことは多分ないから。 俺に、返したいと言ってくれたこの人なら。 一条さんだって、きっとその時は分かってくれるはすだから。 今日は役員が数名と、親しい付き合いのある取引先の代表を交えての懇親会だという。何をするのかと思ったらまだ日のあるうちにワインだブランデーだと蘊蓄をたれて、ゴルフや旅行の話をするだけだった。 会話には全く付いていけないし、面白いなんて微塵も感じられないけどなんだかみんなやたらと愛想良く話しかけてくるから退屈な顔もできない。あーイヤだ、早く帰りたい。そう思いながらスーツの裾を引っ張っていたとき、榊原さんが兄さんの側に寄り耳元に何か囁いた。 「雄介」 「はい?」 「電話が入っているそうだ。椿のご長男らしいが…約束でもしていたのか?」 「え、ええ。そうです。今日はここにいるから勤務が終わったら連絡をもらえるようにしてあって」 「そうか…」 探るようにじっと見つめて、それから手招かれる。 「退屈なのは分かる。だから今日は解放してやってもいいが…彼に、会うのなら許さない」 「違いますよ、約束は椿さんとしてるんです。同僚の方が海外研修に行くって言うから、向こうの本で欲しかったものがあったを頼んでおいたんです」 「調べれば嘘か本当かすぐに分かるんだぞ?」 「兄さんは俺を信じてくれないんですか?」 見返す視線に怯んだ表情を読まれてはいけない。 「…いいだろう」 あくまで平静を装い電話を受けるために客間を出る。榊原さんは手近な内線を目で示したけど、そんなところで取れるはずがない。椿さんからの用事は一つしかない。 俺が頼んでおいたのは、一条さんから入る知らせの転送。その一つだったから。 「俺です」 『川崎に未確認が出た。すぐバイクに戻って一条を呼べ』 「分かりました。椿さん、」 『今度はお前の兄貴だろ?そっちは誤魔化しきる自信なんてないからな』 俺だってないものを押し付けることは出来ない。でもその時はいくら兄でも言い負かすくらいのことは出来る。奴らのことは、何をおいても優先される事項だから。 走りたいのを必死に抑え、門の近くに隠すように停めたBTCSの元へ急ぐ。エンジンはかけず外へ出て、それから起動しアクセルをふかす。 大きく深呼吸をして無線のスイッチを入れると待っていたように一条さんの声がした。 「体調はどうだ」 「あ、もう全然大丈夫です。ただの寝不足だっただけですから」 「そうか。川崎の浮島公園付近で未確認らしきものが確認された。すでに六人の被害者が出ているがいずれも死亡しているらしい…行けるか」 「勿論です!」 叫んだときにはもう発進していた。 闘いの場へと、意識の全ては飛んでいた。 「五代」 「はい」 未確認はあと一歩と言うところで逃がしてしまった。かなりな深手は負っているので、当分現れることはないと思うけど油断は出来ない。兄さんの所へ戻るつもりはないけど…かといってここにいるのも非常にまずい。 一条さんが走り寄ってきて、何か言いたげに俺のことを見つめた。きっとこの前の別れ際のことを気にしてるんだろうけど、俺から言うことは何もないから黙ってる。 お互いに卑怯だから、相手が動かないならそのままそこに立ち尽くして。だって俺には彼を欲しがる資格はなくて、彼は自分から進む勇気がどこを探しても見付からない。 踏み出したかった場所は世間一般ではタブーとされてるから、その気持ちは分かるし俺だって全然平気な訳なんかじゃないんだよ。 卑怯なあなたで良かった。だってこのままでいられるから。 「怪我はないか?」 「大丈夫です。椿さんの所でのんびり寝てたんで、体力有り余ってるくらいですから」 「そうか…でも顔色が悪いぞ」 「そりゃあ未確認相手に全力でぶつかった訳ですし。なんでもない方が怖いでしょ」 「あ、…ああ、そうだな…」 歯切れが悪い。 心配したい。本当は一条さんのこと心配して、俺の所為で沈んでるこの人を浮上させたくて。愛したくて。触れて、欲しくて。 「暴れたら腹減っちゃいました。帰っておやっさんに何か食べさせてもらおっと。一条さんは現場検証とかあるんですか?」 「そうだな、一帯を視察してから本庁に戻って被害報告をまとめないと」 「ご苦労様です。じゃあ俺、帰りますね」 ドクン 「五代?」 今…なんか、腹の中で… 「どうした、真っ青だぞ」 「いえ、なんでも、」 「なんでもないはずないだろうっ」 一条さんが腕を掴む。俺を引き寄せ、支える。拒みたいけど力が入らなくて、膝から崩れ落ちるように全身を虚脱感が包んでいく。 これ、前にもあった。 椿さんの家で話してた時…一条さんのこと、まるで好きだという気持ちすら持っちゃいけないようなこと言われたとき。あれより、もっと強くなってるけど… 「石、が」 「いし?アマダムか?」 「なにか…俺…あ……いち、じょ、さ、」 「喋るな。椿の所へ行こう」 嫌だって、言いたかったけど唇を動かすことさえ億劫で。 一条さんの腕は力強くて、縋りたくなる熱がある。包まれて、溶けて流れてしまいたいほど…自分を、任せてしまいたいほど 本当は考えなきゃいけないこと全部をどこかに放り出して、縋って泣いて、甘えたいほど。 「特に異常は見られないけどな。まあ元から異常だらけの奴だし、おかしいところは山ほどあるからどこがどうとは言い切れないけど」 「でもこれまでとは明らかに様子が違う。見落としてることはないのか?」 「うーん…五代、変なのは石か?ただの下痢とかじゃねぇだろうな」 「椿!」 「…ムキになるなよ、冗談に決まってるだろ」 そう言いながら俺のことを睨み付ける。まるで俺の所為で叱られたとでも言いたげな目だったけど、診察用のベッドの上で力無く横になってる姿じゃ抵抗なんか出来やしない。 一条さんは心配そうに色々なことを尋ねてくる。どこが痛む?熱は?吐き気は?って、まるで幼稚園児を相手にしてるような口調にはさすがに参ったけど、気にかけてもらえるのはすごく嬉しい。素直に、有り難い。でも。 「レントゲンもCTスキャンも、超音波診断まで付けてやって問題大ありの異常なしだ。あと考えられることと言えば石自体の急激な変化が一瞬だけ起きたってことくらいだが…そう言えばお前、前にうちでも同じ様なことあったな」 「五代が逃げた夜か?」 「ああ」 「…逃げたなんて…人聞きの悪い…」 確かにあの時と同じだ。疼いて、いきなり小さく萎んだ様な気がした次の瞬間、爆発するみたいな衝撃で大きく弾けた…みたいな感覚。気持ち悪い。怖い。 なんとなく、ぼんやりとした向こう側にあるその疼きの原因は一条さんにある様な気がするけど。確かじゃないし、何よりその作用の意味するところも分からないから俺は何も言わず曖昧に『そう言われればそうかな』と呟いておいた。 椿さんは被害にあった人たちの検体があるからと話を切り上げ、心配ならそこで見張ってろと言い捨て出て行ってしまった。意地悪でちょっと腹立たしいこともある人だけど、二人きりにされると困るんだよ。仕事とプライベートを、ちょっとだけ分けられなくなり始めてる一条さんだから、尚更。 「あの、俺もう大丈夫ですから」 「もう少し休んでおけ。未確認がいつまた出現するか分からないんだ、その時きみが動けなければ困る」 「それは…でも本当に平気なんです。椿さんが言うように、ひょっとしたらただの腹痛かもしれませんよ?石がある所為でそれがちょっと大袈裟になってるだけかも」 「違うとは言い切れないが、全て否定することも出来ないだろう。俺は五代の安全を第一に考えたい。心配性の俺に付き合うと思って、もう少しここで休んでいてくれ」 「でも…一条さんは現場に戻らなくていいんですか?」 「…いい訳はない。けど、いい」 「けど、って…」 口を曲げて言い切る顔はまるで駄々っ子だ。みのりの所で見かける、幼い子供たちと同じ表情。それをこの人が、警視庁のエリートがするなんて、なんか… 「笑うな」 「すいません」 「笑いながら謝るなんて説得力がない」 「はい。すいません」 「だから笑うなって言ってるだろう」 ブチブチと口の中で何か呟きながら、隅に寄せてあった丸椅子を引き寄せ俺の枕元に座る。 ここには、隠しカメラもないだろう。 兄さんが仕掛けたそれは一応全て外したけど、あの一筋縄ではいかない兄が素直に引き下がるとは思えない。だから一条さんの部屋を訪ねることは出来ないけど、ここなら。 素直に、自分の気持ちを話してしまってもいいかも知れない。 「子供の頃は、具合が悪くても一人で寝てるだけですごく心細かったです」 「そうか」 「みのりがいてくれたけど、風邪とか移る病気の時は側にいてもらうことも出来ないし、第一自分が弱ってるところを見られるのも嫌だったんです」 「俺も一人でいるのが心細くて、無理に学校へ行った日もあったな」 「お母さん、看護婦さんですよね。怒られたでしょ」 「一度、夜勤明けで戻ってきた母さんに叩き起こされてな。何だろうと思ったらものすごい熱で大分うなされていたらしい。いやに煩いとは思っていたけど、まさか自分の声だとは思わなくて…つい笑ったら余計に叱られた」 「一条さんって、変なところで抜けてますよね?」 「………悪かったな」 「ほら、そうやってへそ曲げるところなんか子供みたいです。とても俺のためにあのバイクを勝ち取ってくれた人とは思えませんね」 「必死だったからな」 柔らかな空気。 ここは病院で俺は一応『病人』で。一条さんは刑事で俺はクウガで。椿さんがいて。 状況は何一つ良くなんかないのに、こうして二人で笑っている瞬間は本当に幸せだ。くすぐったくて、温かくて。静かで。 「五代」 「はい?」 「俺に、隠し事があるだろう」 「…断定なんですか?」 「そうだ。丁度いい機会だから話してもらうぞ」 「なに勝手なこと言ってるんです。いい機会なんて、俺は別に逃げも隠れも、隠し事なんてのも全然ないですよ」 「そうか?」 「はい」 大きな目。黒目がちの、長い睫毛の。意志の強そうな瞳の中に、この瞬間に許され存在するのは俺一人。見つめられてる。 それだけでいいんです。多くは望めない自分を知ってるから。だからそれで、それだけで。 「俺は一条さんのこと好きじゃないです」 「聞き飽きたよ」 「じゃあ一条さんは?俺のことどう思ってますか?」 「………嫌い、じゃない」 「普通?なんとも思ってない、とか。友達以下、なんてのもアリですね」 「五代、俺はふざけたい訳じゃないんだ。きみと話がしたい。きちんと、今後のことを話したいと思ってる。非常時に不謹慎だがこうでもしないときみはまた逃げるだろう」 「なんですぐ『逃げる』って言うんですか」 「前科があるからな」 一度失った信頼を取り戻すのは大変だって、あれは本当なんだな。真剣な眼差しの大切な人を追い詰めた、あの時逃げなければもしかすると今頃… 「最近、出掛けていることが多いだろう」 「…そんなことないです」 「マスターに尋ねたら、益々働かなくなって困ってるとぼやかれた。電話で呼び出されて、行き先は必ず椿の所だと言ってるそうだが…それが嘘なのは分かってる。用もないのにきみが自分から椿の所に行くとは思えないからな」 「なんでです?椿さんと話すの、結構面白いですよ?」 「嫌味を言われるためにわざわざ来るのか?あいつは本気で嫌う相手を寄せ付けたりしないし、きみもそんな所へ自分から訪ねるほど愚かじゃないだろう」 「あ、やっぱり一条さんも椿さんが俺のこと嫌ってるって思ってるんだ。ひどいなぁ、俺なんにもしてないのに」 「誤魔化すな」 「誤魔化してはいません。嘘は吐いたけど」 「なに?」 「俺ね、椿さんが俺のこと嫌ってる理由はちゃんと知ってます。一条さんも分かるでしょ?」 「………まあ…なんとなくは」 「そういう煮え切らない態度だから、俺が虐められるんですよ」 言いながら体を起こすと慌てて止められる。だけどその手をやんわり払い、寝心地の悪いベッドを降りる。 「一条さんはズルイです。俺も卑怯なことしてるけど、でも一条さんよりはマシです」 「ひどい言われようだ」 「事実ですから。俺ね、そりゃ苦しいことが多いけどあなたに会えたことは本当に幸せだと思ってます。どこかにいる神様に感謝したいくらいにね。でもそれは俺の感情であって一条さんのものじゃない。共鳴して欲しい訳じゃないんです」 「言ってる意味が分からない」 「だから、俺はあなたが好きだけど、だから俺を好きになってくれなんて言いません」 言えません。 驚いたような目が、すぐに鋭く細められる。怒ってる。 「俺の気持ちは俺だけのものだ。誰の指図も影響も受けない」 「はい。でもね一条さん、好きだからって自分の全てを見せられる訳じゃない。好きだからこそ言えないことだってあるんです。知られたくないことの一つや二つ、あなたにだってあるでしょ?」 「俺は、…………俺は…」 ない、なんて言わせない。聞きたくないから問い質したりもしないけど。 俺と一条さんの間にあるもの。環境、価値観、性別。椿さん。 善と、悪。 俺は近い将来、きっとあなたに仇なす存在になるだろう。朧気なそれは段々と確信に満ちてくる。生物兵器、或いは、兄の… 無言の圧力から彼を守ること。正義感に輝く目を曇らせないこと。沢山の人と、なにより共に闘うことを決めた俺のため。信念を、きっと最後まで貫いて欲しいから。 「隠し事はないです。だから俺がそう言ったら信じて下さい。いつかきっと、もっと分かり合えるときが来れば…それが嘘じゃないって分かるから」 「駄目だ。なんだか最近の五代はおかしい、絶対俺に隠し事がある」 「疑り深いのは刑事だから仕方ないですけど、ちょっとでも好きな相手なら信じてみようって気になりません?」 「俺のこと、なんども好きじゃないって言ったくせに」 「それは卑怯なあなたに合わせた言葉です。俺ね、そのままの一条さんが好きですから、この瞬間以上のものを望んだりはしませんよ」 好き、って。やっと口に出せた。『好きじゃない』と言い続けた俺がそう言えたという意味を。きっとあなたが知るときは、もう… 「帰ります。おやっさんに怒られないように、ちゃんと優良店員してますから。あいつが出たら放り出して来ちゃうけど、でもそれまでは真面目に店にいますから」 言葉の少ない一条さん。感情の起伏を、わざと抑える一条さん。 不器用で、クールで子供で強情で。 「刑事は刑事、店員は店員。ちゃんと自分の仕事をしましょうね」 いつか来るさよならは、それは俺の意志で決めるものじゃないけど。だからこそそれを迎える前にきちんと自分の言葉で伝えたい。 「さよなら一条さん。無茶、しないで下さいね」 踏み込まれぬよう。俺が笑い続ける本当の理由。きっとあなたなら見破ってしまうから。 当たり前のように側にある、『さよなら』はいつだって突然だから。
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