月光譚 9

 


部屋を出たら、それで何かが一つ終わってしまう。

そんな気がした俺が布団の中で思い切れずに丸まっていると、眠っていると思ったのか一条さんは気遣うように音を立てずそっとベッドを下り寝室から出ていった。多分風呂だろう、微かな水音がすぐに聞こえてくる。なんか…いいね。一人じゃないんだって思う。

実はあんまり寝れなかった。だって夕べ、ずっと思い続けた人と体を重ねたベッドにその当人と一緒に横になってたんだから。度胸はあるつもりだけど、こういう色恋に関して未熟な俺では平気な顔して『おはよう』なんて言えるはずない。普通にしていればいいんだろうけど、その『普通』だって俺にとってはわざとらしく作ったものでしかない訳だし…ああ、こんなことなら何もない方がよかった。少なくともお互いに嫌いじゃないのは分かってたんだから、我慢して感情を押さえ込んで、気付かぬ振りでいればこんな気まずい状況になんてならずに済んだはずなのに。

なんて。

今更なことを思い溜息が出た。だって、夕べの一条さんは傷付いていた。俺はその痛みを和らげる手段を知っていた。重ねたのは体だけじゃなく、心の深いところまで一つになって結びあった。もう、間違えないと誓い合った。

恥じることはしていない。悔やむこともしていない。守ると決めた一条さんを、愛しい人を手放したりしない。迷わせない。

「でもやっぱり恥ずかしいし…なんて言えばいいか分からないし…それにここから出たら終わっちゃう気がするんだよな」

「なにが」

な、にが?

「…………………げっ」

「色気のない声だな」

びっくりして、飛び起きて見たドアの前に立っていたのは紛れもなく今一番会いたくない人。風呂上がりの一条さん。

「悪い、俺が起こしたのか?」

「え?あ…いえ、別に…はあ、そうです…かな」

「五代、嘘が吐けないのは悪いことじゃないけど、吐けない嘘なら無理に言うことないんだぞ」

「は?」

濡れた髪をタオルで拭いながら入ってくる。来ないで欲しいけどここは一条さんの部屋だからそんなこと言えない。

ニヤニヤと、この人には珍しい顔で入ってくるとベッドの端に座る。俺と向き合うように座るから、きっと真っ赤になってるのも見えちゃってる。そういえば…

一条さんが乗ってる所為で、布団を引っ張っても胸元を隠すのが精一杯だった。

「鬱血くらい、一晩寝たら消えるかと思ったんだが…アマダムの力もいい加減なものだな」

「いっ言わないで下さいっ」

一条さんが悪いんだ。痛みが走るくらい強く吸われて、その時は不覚にもすごく嬉しかったりした記憶がまざまざと蘇ってくる。ああ何やってるんだろ、俺。

「とにかく、寝た振りを止めたなら風呂に入ってこい。タオルも出してあるから」

「寝た振りって…」

「寝付けなかったんだろ?耳元で盛大に溜息吐かれりゃ俺だって分かる」

「………すいません」

ほんっと、時々ひどい人だよね、一条さんは。

笑いながら後ろを向いてくれたのはまあいいとして、『その辺に落ちてたぞ』って言われた次の瞬間。

大爆笑する一条さんなんて初めて見たし、それは心を許してくれた証拠みたいで確かに嬉しかったんだけど。

ベッドの脇に落ちてた下着を掴んで、一条さんのバカって言いながら風呂まで走った。

 

 

「あのまま本当に会えなくなっちまうかと思って心配したよ」

杉田さんは大声で言いながら俺の背中をバンバン叩いた。その隣の桜井さんは感無量って顔で天井を睨んでいる。俺が、この人たちと打ち解けられてる証拠みたいで嬉しい。仲間なんだって、胸を張って言ってもいいんだね。

「ご心配かけました。でも大丈夫です、俺のことは確かにグチャグチャありますけど、未確認を倒すことについては家も兄さんも関係ありませんから」

「五代くんの口からそう言ってもらえると安心するよ。しかしなぁ、本当にきみはあの高徳院の跡継ぎなのか?」

「はあ…そうらしいです。それをご説明したくて一条さんに無理言って連れてきてもらったんですが」

俺の隣で一条さんが苦笑している。

風呂から出て、俺は益々窮地に立たされてることに気付いた。パンツは拾ってきたけどその他は部屋に脱ぎ散らかしたままで、脱衣所に佇んだまま暫く考え込んでしまった。女の子じゃないからタオルで胸元を隠すのは変だ。かといって指摘された通り、彼が盛大に残した鬱血を見られるのも道徳面では常識的なはずの自分には耐え難い恥辱だと思う。

いい加減冷えてしまう…そう思った時、ドアが思い切りよく開いて俺の服を抱えた一条さんが入ってきた。

   『…風邪を引くだろう』

そう言って渡してくれた服を呆然と抱え、ありがとうは?と尋ねられたから素直にありがとうと答えた。はい、お利口さん。そう言ったと思ったら、次には至極当然といつた態度で俺を引き寄せキスしてきた。この人…一条さんは、やっぱり怖い。真面目な人ほどキレると恐ろしいっていうのは本当だったんだ。

もしかしなくても、その点で言えば俺は早まったかも知れない。

でも追い詰めたのは俺だし、兄さんだし…文句言うのも筋違いなのかな。長い溜息は朝から何度目のものだっただろう。諦めるしかないかと呟いたら上機嫌な顔が綺麗に笑った。

先のことを考えると怖くなりそうだから、まず目前の問題を片付けるべく俺は頼み事を一つした。曰く。

「夕べは遅かったんで、一条さんにも詳しいことは話してないんです。だから、それなら皆さんにも聞いてもらおうと思って」

「家庭の事情ってやつなら踏み込むのも悪いが…事が事だけに聞かせてもらえると有り難い。でもいいのか?なんなら一条だけでもいいんだぞ」

「いいえ。これから多分、兄の妨害はもっとあからさまになると思うんで。俺自身の気持ちをちゃんと伝えておきたいんです」

「そうか。なんか疲れた顔してるからな、心配になった」

「そ…れは……」

「いやぁ杉田さん、五代はこう見えても第四号。クウガですから」

「そっそう、俺ってばクウガですから。もー全然平気!」

「あ?」

あっはっはとわざとらしく笑い合う俺と一条さんを、疑わしく見る杉田、桜井コンビ。

戦闘の疲れとは違って、それは不快なものではないんだけど…とにかく恥ずかしくて顔が上げられなくなった。一条さんめっ!と逆恨みせずにはいられない。

「ええっと、とにかく座りません?」

警視庁特捜本部、対未確認生命体関連用の会議室の一角に四人が席を定める。さり気なく隣に座る一条さんをまた意識してしまい、イカンと頭を振ってから俺は話し始めた。

「俺の父さんはきちんとした勤めを持ってはいたんですが、まあ『五代父』ってことで冒険家だった訳です。母さんと出会ったのは、父が上司の替わりに出席した系列会社の創立記念パーティーかなんかだったらしくて。本人は相手の一目惚れだと言ってましたが、互いにそう言っていたんで真相は分かりません」

母の大きな目はみのりに似ていた。父の笑顔は自分に似てる。紛れもなく二人が愛し合い誕生させた子供たち。仲の良い親子だと、それが一家の自慢だった。

「父さんは身分違いの恋だけど、そんなものに負けちゃいけないって母さんを励ましたそうです。それまで所謂温室育ちだった母さんには、きっとそんなところも逞しくて素敵に思えたんでしょうね。亡くなる少し前に自分の実家のことをほんの少しだけ話してくれたとき、そう言ってました。家族を捨てたのは今でも悔やむこともあるけど、自分の家庭を持ち守ってきたことは一生の誇りだって」

そんな両親を持った自分は決して不幸なんかじゃない。楽ではなかった暮らしを振り返ってもそれは負け惜しみではなく言える、俺にとっても誇りだということ。

「当然のように反対された二人は結局駆け落ちするしかなくて、かなり長いこと転々としたらしいです。人目に付かないところを渡り歩いて、それで北海道にいた時、俺が生まれました」

北の大地。白くて、白くて、どこまでも白い世界。父さんに抱かれて見たその光景の全ては、今も鮮明に記憶の中に焼き付いている。

「逃げてるなんて微塵も感じさせない、ゆったりとした時間でした。俺は大好きな両親の元で何も知らずに育って。父さんの方も旅が好きだという会社社長と知り合って、その人のところで働くことになったそうです。神奈川の山奥に越してきて、そこで新たな生活を始めました。その頃にはみのりも生まれていて、家の中はもっと賑やかになっていて…余裕が出来たことが、結局徒になってしまったのかもしれないけど…」

「あだ?」

一条さんが眉を顰める。真剣に、聞いてくれてる。

「社長と二人で山登りに行くって。俺はすごく羨ましくて一緒に連れていってくれるよう頼んだんです。それまでに何度か一緒に登ってましたから、当然大丈夫だと思ってたんですけどなんでか今回はダメだって。虫の知らせでもあったんですかね。出発寸前まで泣いてごねたんですけど、結局おいていかれて。でも…父さんはそれきり、二度と戻って来なかった…『次は連れていく』って約束を果たしてくれることはなかったんです」

俺はもう、慣れた痛みを語るだけのことだった。泣いても騒いでも父さんは帰らない、その事実を子供心に刻みつけてしまった今、思い出は切なくともそれに抉られる傷を曝すことはなくなっていた。けど。

「あの…桜井さん、あんまり泣かれると俺が恐縮しちゃうんですが…」

「だっだって、そのっごっ五代さんはそんな辛いこと抱えてっ、しかも四号でっ」

「あーもう、ガキかお前は。ほら、これで鼻かめっ」

「ずびばぜん、ずぎだざん」

びーむ

なんか…気が削がれるっていうか…一条さんも口には出さないけど、恨みがましい目で桜井さんを見てる。ホント、同じ警視庁の刑事さんなのにまったく違うタイプで面白い。

「今は保障があるらしいんですが、昔は山岳救助ってすごくお金がかかったんです。ヘリを飛ばすとすぐに何百万ってかかるらしくて、一緒に行った社長の家でも結局会社は人手に渡ったそうですから。母さん一人じゃ払いきれる額じゃなかったはずなんです」

   『雄介はなんにも心配しなくていいの』

母は、笑っていた。働いて働いて、痩せていく彼女をただ見ているしかない子供の自分が歯痒くて。聞き分けのいい子になったのは、だから無意識のうちのこと。

「でもね、やっぱり亡くなる前に教えてくれたんですけど。お祖母ちゃん…母さんの母親に、内緒で援助してもらったんですって。居所は教えないまま、だけど子供に借金は残せないって…自分の保険金と、お祖母ちゃんの送金で借金は全額返済しました。親の愛情ってすごいですよね」

「うっうえっ」

「お前、いいから向こう行ってろ」

杉田さんが桜井さんの頭を押しやっている。

「諸々の借金も返して、俺とみのりは本当の二人きりになりました。幸い大学にも行けたし、みのりも希望していた学校に進めました。だから気ままに冒険にも出られて…おやっさんが親代わりになってくれたからこそなんですけど」

「おやっさん?」

「杉田さんたちはまだ招待してないですよね。俺が働いてる喫茶店なんですけど、カレーが売りなんですよ。すっごく美味いんで是非来て下さい」

「ああ、ポレとかポリとかいう」

「ポレポレです。おやっさんはそこのマスターで、俺の冒険仲間繋がりなんですけど。いろいろ話してるうちに、親戚の家で肩身の狭い思いするならうちに来いって。懐の大きな人なんです」

「駄洒落のきつい人でもあるな」

「そう言えば一条さん、初めは苦手そうでしたよね」

「苦手というか…どう反応すればいいのか分からなかったんだ」

「分かります。俺なんか未だに時々脱力しますから」

「駄洒落か…俺も葉月に言ってみるけど、さっぱり分かってくれないな」

「杉田さんはしつこいんですよ。何回も言うから奥さんだって聞こえない振りしてるじゃないですか」

「あれ、桜井さんは杉田さんのお家に行かれたことあるんですか?」

「よく夕飯をたかりに来るんだ。おお、今度は五代くんも来てくれ。一条と二人で」

二人で。別に当たり前の誘い文句なんだろうけど妙にドキッとした。一条さんも目が泳いでる。

「とまあ、俺の昔話はこんなところです。働かない従業員に文句も言わず置いてくれるおやっさんに感謝しつつ世界中を歩き回ってたんですが、今年の始め半年ぶりに戻ったその日に九郎ヶ岳の事件が起こって…あとは今日まで、皆さんと一緒に闘ってきました」

鮮明に覚えてる。これまでの記憶。一条さんと出会ってから今日までのこと。

闘うこと。分かり合うこと。思うこと。

恋を、すること。

「俺は自分のしてることを格好良く考えたり、正義の味方ぶったりすることは嫌です。ただ俺の大事な人に笑っていて欲しいから、諦めたり傷付いたりして欲しくないから、今日まで必死にやってきたんです。その気持ちはこれからも変わりません。それを信じて欲しいんです」

嘘も偽りもない。始めたときからの決心。自分の誇り。

「母さんは自分の出生を『少し、人とは違う』としか言いませんでした。それに母さんが捨てる決心をして出てきた家なら俺も欲しいとは思わなかった。みのりもおやっさんもいて、他に欲しいものなんてなかったから。だから兄さんが俺を捜してくれたと言った時は正直心が揺れました」

一条さんの目が細められる。杉田さんも、桜井さんも身を乗り出す。

話は核心に近付いた。

「未確認と闘うようになってすぐの頃です。店に不釣り合いなお客さんが来ました。俺を見るなり『そっくりだ』って呟いて、帰ってくるようにって言いだしたんです。訳が分からなくて取り敢えず話しを聞くことにして…その日、おやっさんは丁度出掛けてたから、そのまま店で話しました。その人は高徳院という家の戸籍上は長男で、少し前に養子縁組をした俺には義理の兄に当たる人だということ。母は五代姓を名乗っていましたが、戸籍を操作するのはあの家にとっては簡単なことなんでしょう。弟の実子が母さんの養子として迎えられていたんです。でも長年母さんの結婚を反対してきた父親も、亡くなる寸前に俺という孫がいることを蒸し返してきて、跡継ぎは絶対に何処かにいる俺にさせるんだって聞かなくなったそうなんです。俺には迷惑な話ですが」

「高徳院って言ったら、一般市民の俺からしたら雲の上過ぎて想像も付かないんですが」

「俺だって桜井さんと同じですよ。大体名乗られたってそんなすごい家だなんて事さえ分からなかったんですから」

「日本経済の中心にいる名家だからな。まあ五代くんとは…申し訳ないけど結びつかんよなぁ」

「杉田さん、失礼です!」

桜井さんは全面的に俺の味方みたいだ。嬉しくって笑い掛けると、視界の隅で一条さんの眉間に皺が寄るのが見えた。…やきもち?まさかね。……でも意外性の人だし。

「とにかく、本当に迷惑この上ないんですがお祖父さんが俺に跡を取らせるって遺言状に書いちゃったもんで、必死に探し出された訳です。未確認のことでいっぱいいっぱいのところに持ってきてこの話ですから、本当に途方に暮れちゃって」

「どうして一条に相談しなかったんだ?」

「え、だってその頃はそんな雰囲気じゃなかったし。それに未確認のことと俺個人のことは別問題だと思ってたんです。闘うって決めたんだから、他の誰にも口出しさせるつもりはありませんでした」

「なんだ、俺はてっきり初めからラブラブファイヤーかと思ってました」

「は、ラブラブ……」

一条さんが、絶句した。

「あ…えっと、なんでしょ、そのラブラブ…ファイヤーって」

「知りませんか?昔やってたんですよ、お笑い番組で。両方男なんですけどカップル戦士になって悪と闘うんです。一条さんと五代さんは息もぴったりですしね。似てますよ」

「似てますって…そんな自信持って言われても…」

この、バレバレだから止めてくれ!ってほど硬直した一条さんをなんとかして…

脱線は早めに修正。

「俺のするべきことは、まず未確認を倒すことだと思ってます。家のことも、確かに考えないといけないことでしょうが後回しにしてもいいことだと思うんです。兄はお祖父さんが亡くなってから数年は当主として十分勤めていたんですから、俺としては今更交代と言われても困ります。その為の勉強だって全くしてないんですからそれは当然だと思ったし。それにこれは情けないことだと思いますが、兄さんの周りの人も今更俺なんかが出てきても困るっていうのは顔にも態度にも出てますからね」

「横溝正史っぽいですね」

「桜井、お前はテレビ博士か」

言い得て妙…

「訪ねてきた頃は、俺が未確認だなんて当然知らなかったんです。でもあれだけの家ですから素行調査をされていたらしくて、急に止めろってしつこく言われ出して…確かに命を懸けてることです。危険がないなんて言えません。だけど俺が決めて俺が闘ってるんだから、家族なら応援してくれると思ったんですけど…大事にされちゃって…」

「きみの身を案じてるんだ、俺たちがとやかく言えることじゃないがな。でも正直なところ、今、五代くんに抜けられてはどうにもならん。警察だけで手に負える相手じゃない」

「俺も皆さんの協力があって初めて安心して闘えるんです。どっちが欠けても駄目なのに、兄さんは絶対に許さないって。その話になると認めないの一点張りで、仕方なく俺も頻繁に会ってたんですが、この前は付き合いのある人への顔見せだと言って呼ばれていたんです。その後にまた話をするつもりだったんですが、あんなことになって」

「聞く耳持たんって態度だったもんな」

「ひどいですよね」

杉田さんと桜井さんは口々に文句を言っている。一条さんは。

伏せた睫毛が震えて、何事かを考えている顔になっている。この人を思い煩わせることは山ほどあって、だからこそ自分だけは足手まといになるまいと強く心に誓っていたのに。

自分の無力さは、こうも簡単に突きつけられるものなのか。

「それにしても五代さんのお兄さんは、なんだか一条さんを目の敵にしてる感じがしませんでした?」

「お前もそう思ったか。俺も一条のことを知ってるってのもおかしいとは思ったが…五代くんが何か話したのか?」

「いえ…あの、兄は色々調べていて…それで俺が未確認と闘うようになった経緯みたいなことも突き止めたらしいんです。それで一条さんのことも知ったんじゃないかと…」

「今時の興信所は警察以上の動きを見せることがあるもんなぁ。そうか、大事な跡取りを未確認生命体第四号にされた恨みとでも思ってるなら、あのいけ好かない態度も仕方ないことなのかな」

「いけ好かないって桜井…仮にも五代くんにとっちゃ兄貴なんだ、そう言ったら身も蓋もないだろう」

「すいません」

「いいんです。俺だっていつもあの調子で勝手に決められたり話を進められたりして、正直迷惑だと思ってるんです。俺はもう子供じゃないし、自分の意志で決めたことに向かって進むのを止めろと言われても困るじゃないですか。まして未確認の問題はもう俺一人のことじゃない。だから兄さんにはちゃんと分かってもらえるまで話して、その上で皆さんにも紹介しようと思ってたんですが…すっかり順序が狂って心配をかけてしまいました」

ごめんなさい。頭を下げたら杉田さん、桜井さんは恐縮したようにとんでもないと頭を下げ返してきた。一人考えに沈んでいた一条さんは、取って付けたように『気にするな』と言ったけど、目は、まだ思考の淵を眺めるように沈んだ色をしていたから。

この人を兄に会わせてはいけない。きっと自分の不利になることでもしてしまう、一条さんというのはそういう人だ。だけど今度は、今回ばかりは、軽率なことをして足下を掬われるわけにはいかないんだよ。あなたはこの警察という組織の中に、必要不可欠な存在として居続けなければならないのだから。

潔い、といえば格好いいけど。やっぱり無鉄砲という言葉がぴったりくるからね。

「警察の上の人は、きっと兄に言いくるめられて俺が闘うのを阻止しようとするでしょう。だけど俺自身は、今まで通り皆さんと一緒に未確認を倒していこうと思ってます。俺にもあの家のことはよく分からないけど、得体が知れないだけに何を言い出すかも分からない。だから皆さんには俺を信じてもらうしかないんです。何があっても」

「俺たちはこれまで通り、仲間として協力しあうつもりさ。な、そうだろ桜井」

「勿論です。俺はこれでも五代さんのこと尊敬してますからね。付いていきますよ」

「…お前の方が年上じゃないか?威厳がねぇな」

「そういう言い方はないでしょう。杉田さんだって五代さんには頭が上がらないって言ってたじゃないですか」

「それは人間として尊敬してるからだろ。付いていく、じゃなく、一緒に走るって言うんだ、こういうときは」

「なるほど。言われてみればそうかな」

二人の漫才みたいなやり取りを見て、俺は声を立てて笑った。

でも。

遠くを見つめたままの一条さんが気懸かりで、本当に笑うことなんて出来なかった。

 

 

 

 

「五代、きみの兄さんと会うことは出来ないかな」

やっぱり。

二人とは会議室の前で別れ、一条さんだけが俺を送ると駐車場まで付いてきていた。

相手の考えが読めるのはいいことだけど、こういう勘なら嬉しくない。

「まだ早いですよ。俺が説得できるうちは自分でケリが付けられるよう頑張ります」

「しかし、」

「話によっては警察の方に同席してもらうこともあるかも知れません。その時はまあ、現場代表で一条さんにも来てもらうことになるだろうけど…今は兄弟喧嘩みたいなものですから。俺がなんとかしてみます」

「そんな単純な人には思えないがな」

「手強いとは思います。でも誰かがやらなきゃ兄さん自身の安全さえ保障できない状態なんですから。そこのところはちゃんと考えてくれると思いますよ」

「五代」

「はい?」

「彼は、その…知っているのか」

「知ってるって、………ああ」

一条さんが少し、赤くなってる。なんか、そんな風に無防備な態度を取られると俺まで思いだして…恥ずかしくなる。

「あ、えっと…知ってるような、知らないような…」

「話したのか?」

「まさかっ!」

ブンブンと手を振り回す。よもや『盗聴器が仕掛けられていました』なんて言えないから、勘のいい人だからとだけ呟くと、追求する方も恥ずかしいのか『そうか』とだけ言って俯いた。まったく、自分で仕掛けた地雷を踏みつけるようなことしないで欲しいよ。

「…ひょっとして、それも原因になってるんじゃないか?」

「なにがです?」

「俺と、きみが一緒にいるのが、その…心配だという…」

「そうですね。知ってるならそれもアリな考え方ですね。でも大丈夫です、普通そんな風には思わないでしょ。それに仮にばれてるとしても俺も一条さんも大人ですから。自分のことは自分でするっていう権利があるでしょ」

「家族としての義務はどうだ?決して威張れることでも、褒められることでもない。巻き込んでしまえば迷惑の掛かることなのは間違いないし、何よりきみの実家は大きすぎる」

「俺の実家はポレポレです。家族はみのりとおやっさん。恋人は……あなたです」

躊躇ったけど。口に出したらすっきりした。

「俺、一条さんのこと好きですから。絶対守ると決めてます」

「守られるだけは性に合わない。おれもきみの力になる」

「ありがとう。俺たちってお似合いかなぁ」

「…多分」

だから。いちいち照れないで。

守るよ。俺に出来ることはなんでもするよ。その言葉に嘘はないから。

「兄さんのことはもう少し俺に任せて下さい。本当は黙っていてもいいくらいのことなのにあの人が大袈裟にしちゃっただけなんですから」

「本当に?信じていいのか?」

「俺を信じなくて、一条さんは他に誰を信じるのかな?椿さん?」

顔を覗き込むとあからさまにムッとして口を尖らせる。

「きみは、俺と椿のことをどうあっても誤解したままなんだな」

「んー…一条さんがどう、とは、じゃあもう言いません。でも椿さんは俺のこと嫌いですよ。多分、夕べからは大っ嫌いに変更されてると思うけど」

「あれが子供っぽい執着の固まりなのは今に始まったことじゃないからな。でもきみを嫌っているとは思えないぞ」

「そうですか?」

「俺には隠して、椿にアリバイ工作を頼んだんじゃないのか?」

あー、その通りです。

高徳院の家に行くのに、一条さんからの連絡は椿さん経由で誤魔化してもらってるんだった。でもあれだって俺の弱みを握ったって喜んでたんだけどね。

「課題は兄さんだけじゃないってことか」

「なに?」

「なんでもないです」

ヘルメットに手を伸ばし、被る前に考える。辺りを見回し、人影も足音もしないのを確認して…

「一条さん」

「どうした?」

「キス、して欲しいかな」

「は?」

「色気のない返事しないで下さい」

んって。口を突き出したらすごく嫌そうに眉を顰める。それから、すぐに笑顔に変わる。

唇の端っこに、本当に軽くちょんと口付けてくれた。すぐ後ろを向いたから表情までは見られなかったけど赤く染まった首筋がとても初々しく感じられておかしかった。

からかってやろうか。そう思ったとき。

高い靴音は女性のヒールのもののようだ。走ってくる気配は俺たちを探しているのか、少し先の角のところに現れたのは制服姿の婦警さんだった。

「一条さん!」

「笹山くんか、どうした」

「未確認らしき犯行が中野区で発生したと通報が入ってます!」

顔を見合わせ、俺は素早くヘルメットを被る。ごめんねおやっさん、役立たずな従業員は引き続き店に戻れそうにもありません。

フルスロットルで飛び出す背後に、一条さんの指令を下す声が響く。次いで聞こえたサイレンの音は、すぐに小さくなっていく。でも。

現場で。

俺たちが共にいる、唯一正当化された神聖とも言える場で。

悲しい恋だね。とても、哀れな想い。

しがみついて守り抜きたい、けれど同時にあなたを追い詰めるものでもあるという矛盾に俺は堪えられるとは思えない。エゴを通すなんて出来ない。

ちりっと

痛むのは腹の中の石。疼く思念が何かを……

「今は、敵のことだけ考えなきゃ」

動き始めた時間の中に、踞るだけの自分ではないように。

石に、何かを奪われる前に。