月光譚 10 「お前が付いていながら…と、言いたいところだが」 椿さんがきつい目で睨んでくる。通い慣れた関東医大の廊下も、ひんやり冷たい空気が張り詰めた今、ここが『病院』だという事実を嫌と言うほど思い知らせるだけだった。 再び現れた未確認は姿を消していた間に完全復活を果たしていたのか、戦いは決して楽なものではなかった。廃工場に誘い込むように戦いながら、それでも有利な状況になってきたと思ったその一瞬の油断が最悪の事態を招いてしまった。 一条さんは、ライフルを構え俺の後ろに立っていた。援護射撃をするため、常に俺と未確認からの間合いを取っていた彼は瓦礫に足を取られ躓いたが、素早く体制を立て直しまた銃口を未確認の方へと… 俺は、転んだ彼に手を差し伸べようとあろう事か敵に背中を向けてしまった。一条さんの動きをチラチラと目で追っていた未確認から、躓いた瞬間殺気めいたものが立ち上るのが見えた。 一条さんを庇おうとした俺。 俺を庇おうとした一条さん。 しまった、と思ったときはもう、彼の生身の体はまるで玩具のように軽々と掴み上げられ、後方の木材を積み上げた辺りに投げ付けられた。 悲鳴は、本当に微かにしか聞こえなかった。息を吸い込む様な細い音。 崩れる木材が濃紺のスーツを飲み込む。正常な考え…人としての判断が出来たのはそれが最後だった。目の前が赤く燃え、そして次の瞬間俺は……… 「で、お前の怪我は?」 「俺は…胸とか、ちょっと痛かったけど…もう平気です」 「治癒能力が更にパワーアップか。一条に半分分けてやったらどうだ?」 馬鹿にしたような視線で俺を見下ろす。静かな怒りは肌に突き刺さるようにはっきりと投げ付けられ、今の俺にそれを躱す術は一つもないからただ黙って俯いていた。 「全身打撲と擦過傷…木材に打ち付けてあった古釘に因るものだと思われるが、右脇下に深さ五センチ程度の刺し傷がある。肺に達していたら厄介なところだったが、幸い処置も早かったからな。全治一ヶ月というところか」 「…一ヶ月…」 「大人しくしていれば、自宅療養を許可できる程度って意味でな」 多分、そんな約束は守られないだろう。無鉄砲さは俺の何倍もある一条さんが、大人しくベッドで休んでくれるはずがないのは俺も椿さんも嫌って程分かり切っている。 「バカだとは思ってたけど、あいつ本当にバカだったな」 「…怪我人に…酷いです」 「安心しろ、お前もバカだから」 言いながら椿さんがちょいと指で俺を招く。あんまりお近づきになりたくない人だけど、状況が状況だしと諦め耳を貸す素振りで一歩だけ近寄る。 「大方お前と繋がれば自分も未確認になれると思ってたんだろ」 「なっ、」 「おいおい恥ずかしい奴だな。顔くらい洗えよ」 一瞬意味が分からず頬に手をやり、相変わらず意地悪く笑ったままの椿さんの視線に漸く気付く。『顔に書いてある』と、言いたいのだろう… 「お前みたいな問題の固まりで、しかもバカに引っ掛かるとは薫も大した人間じゃないな」 「…そんな言い方ないでしょう」 「ああ、気に障ったなら言い換えようか。『金持ちでもバカ』じゃあ、身近にいられても嬉しかねぇな」 唇の端をねじ曲げて笑う。 やっぱり怒ってるんだ。俺のこと。一条さんを守れなかった俺を、恨んでる。 「一瞬のことで…一条さんが俺を庇おうとして…俺はクウガだから大丈夫なのに」 「大丈夫ってことはないだろう。お前の体組織が奴らと同じってことは、負けたら大爆発とかするんじゃねぇの?あ、そうなると益々あいつの安全は危機的状況って訳か」 「…負けません。負けるわけにはいかないから…」 「そう願いたいね。とにかく」 バンッと手を打って椿さんが向きを変える。 「バカとは言っても友達だ。俺は医者だし…それに邪な考えがないとも言い切れない」 「なに…言ってるんです」 「別に。さて、ICUで愛しのバカが待ってるから行くとするか」 「俺も…会いたいです」 「ダメ」 「どうしてっ」 「図々しいな、少しは反省しろよ。俺は結果的に『クウガ』であるお前に守られてる人間には違いない。だけどその為に全て差し出せと言われて頷けるほど聖人君子でもないんだ。あいつの脇の傷は一生残るぞ。それを見るたび思い出す。いつかお前なんかと無関係になる日が来ても、その傷を見れば思い出すんだ。自分が足手まといになったと悔やんで、いつまでも忘れることなくお前とのことを…」 椿さんは、俺を見ないまま、けれどものすごく鋭い視線で遠くを睨んだ。 一条さんの、傷。 「雄介!」 「…兄さん」 走ってきた兄さんは、いつもの落ち着きを何処に捨ててきたのか両手で俺の頬を挟み、まるで子供にするような仕草で胸に抱き込む。 「怪我はないのか」 「…はい」 「本当に?」 「はい」 「心配した」 「ごめんなさい」 「本当に…心配した」 「………ごめん、なさい…」 抱き締められる。それはなんて気持ちのいいことだろう。自分を思ってくれる心が伝わって、温かくて…泣きたく、なって。 「…雄介?何処か痛むんじゃないか?」 「いいえ…いいえ……」 「彼は雄介の主治医だと言っていたな。先生、弟は何処も怪我していないのですか?」 「…と、本人が言ってますし。それに大抵の傷は数時間で自然治癒しますよ、彼の体は極限までに強化されていますからね」 「そうですか」 そこにある微妙な空気を読んだのか、兄さんはそれ以上椿さんには何も言わず俺の背中を優しくさすってくれる。こんなのいつ以来のことだろう。父さんが死んで、母さんが逝って。誰にも頼らず、甘えず過ごした長い時間の中で、本当はいつも求めていた『優しくされる』という高級な行為。無償の好意。 「聞けばあの刑事が一緒だったという…雄介は、もう会わないと約束してくれたのではなかったか?」 「…未確認が…現れて」 「その件に関しても、私はもう関わってはいけないと言ったはずだ」 「でも…でもみんなを守る為なんです…俺がやらなきゃ駄目なんです」 「それで、一人犠牲になって…感謝もされずこんな泣きそうな顔をさせられるのか」 「これは…俺が、悪いから…」 「先生、一条刑事は負傷したと聞きましたが怪我はどの程度です?」 「真面目に治療に取り組んでくれれば全治一ヶ月というところですが」 「それは良かった」 「良かった?」 「ええ。一月の間身動きできなければ、これ以上余計な口出しをされることはないでしょう。雄介を惑わせることのないうちに処置できます」 「過保護なことで」 「大切な跡取りですから。そう言えば椿の家は弟さんが継がれるとか?お家の事情に口出しする訳ではありませんが、名門の名を汚すような真似だけは慎まれた方がいいでしょう」 「ご忠告、有り難く受け取っておきましょう」 二人のやり取りを止めなければと思っても、俺を見る椿さんの冷たい目に晒されては何も言葉が出てこなかった。何も、許されないような気がした。 「今後、雄介の主治医には私の尤も信頼する医師にお願いしますので、こちらでのカルテを全て渡していただきます」 「生憎ですが彼に関するファイルは全て警察関係に報告義務のある極秘事項ですので。お渡しすることは出来ません」 「そうですか。では結構」 兄さんが合図を送ったのは後ろに控えていた秘書の榊原さんだ。携帯を取り出し何処かに電話を入れる。少しの間があって、相手が電話口に出ると兄さんに渡される。嫌な感じ。 「高徳院です。ええ、先日はどうも。以前から話していた件ですが…ええそうです、弟に関する警察保有資料のことですが、今現在健康管理に関して関東医大病院の椿医師に一任している様ですが申し出通り変更していただきたい。…即刻です。…事情は分かりますがこちらとしては今後、弟を危険な場に行かせるつもりはございませんので。……検察庁職員であるあなたの立場も分かりますが、こちらは全くの民間人。守られて当然のものを最前線に立たされ、あまつさえ主治医と言われる人間とは信頼関係の欠片もない。…ああ、そのお話はまた今度、改めて伺わせていただきますが今はこの病院にある弟に関する資料全てを引き渡していただくよう手配して下さい。事情は何であれ私にはここに弟を預けるつもりは毛頭ないのです。これ以上言わせる前に対処願います、失礼」 ピッと、通話を断ち切る音が廊下に響く。 「これであなたと雄介の関わりは消滅する。後はご友人の治療に専念なさるといい」 「…言われなくとも」 椿さんは少し青ざめた顔で、だけどはっきりそう言った。 どくん、と。 「では雄介、帰ろうか」 ドクン 「雄介?」 鼓動が…いや、鼓動じゃない。何かの波動が…石が、蠢く。 「雄介?どうした、しっかりしなさい、雄介!」 アマダムの納まる辺りが激しく脈動する感じ。気持ち悪い、今までとは比べものにならないほど強いそれ。 「…や、だ……」 「五代!」 「雄介に触るなっ」 「そんなこと言ってる場合かっ」 「や………だ…」 「五代しっかりしろ、またか?」 椿さんの部屋でも襲われた、この変な感覚。冷や汗が出て、寒気がして、気持ち悪くて。 「五代!」 「つば、き、さ…」 「しっかりしろ、痛むのか?どんな感じだ」 「気持ち…わる、い…動いてる…みたい……」 「落ち着け、大丈夫だ。おい手を貸せ!」 大きな手。俺よりずっと、男らしさに溢れる体。 椿さんは悪い人じゃない。悪いのはこの人じゃなく。 「五代!!」 何も動かせない、変えられない弱い………自分。 誰か、いる ぼんやりと立っている。 背中を向けているからそれが誰かは分からないけど、俯いて立っているその姿はとても頼りなく情けない感じがした。何か大切なものをなくしたのか、子供のように震えた肩が痛々しくて見ていられない。 白い世界は、それは美しいものなんかじゃない。 何もなくて冷たくて、無関心な顔で広がる世界。そこにいる、誰か。 そして唐突に気付く。 誰かの足下には何かが落ちている。落ちている、と言うか、転がっていると言った方が正しいだろう。ぐにゃりとした大きなものがだらしなく足下にあって、誰かはそれを見下ろしているらしかった。 捻れた腕。人の関節を無視した方向に折れ曲がっている。それは両足も同様で、転がっていた物体が既に事切れた人間だということが分かる。 血に汚れた顔は青白く、苦悶の表情は襲った死が安らかではないことを物語っていた。 血溜まりの中に転がる死体。見下ろす誰か。 死体は、誰?見下ろすのは。 一条、さん。 「…だい、五代」 「…つばき、さん」 目を開けると、心配そうに覗き込んでいる椿さんの顔が見えた。 椿さんが悪いんじゃない。 唐突に蘇る記憶と血塗れた死体。あれは一条さんだった。きっと、俺が殺した、彼。 「神経組織が、増殖と収縮を数秒間隔で繰り返していたらしい。お前が倒れた後すぐに出来る限りの検査をしたが十五分程度で納まった。今までもこの症状が出ていたんだろう」 「腹の中で何かが動くような感じだったから…きっとそうです」 「落ち着いてからもう一度調べてみたが、その後の変化は全くない。何か心当たりはないか?」 「心当たり?」 「こうなること、の原因だ。ま、俺にはなんとなく見当が付いてるけどな」 原因は、確かに俺も薄々気付いてる。だって石は、アマダムは俺の感情により、意志によりその反応を見せている気がするから。 「あの、兄さんは?」 「えらい剣幕で帰ったぞ。何でも欠席できない会合があって、それにお前を連れていきたかったらしい。俺に預けるのは不本意だと大声で喚きながら秘書に引きずられて行った」 「すいません。悪い人じゃないんです、俺のことを思ってしてくれたことなんで…」 「分からなくもないが、ムカツク奴なのは確かだから歩み寄ったりはしてやらないぞ」 「その方が椿さんらしいです」 苦笑する目は優しい。俺にこの人を非難する権利はないし、まして自分を正当化することもしない。だって、俺が、彼を… 「一条さんはまだ眠ったままですか?」 「ああ。お前も休んでおけ、目が覚めたらまた騒ぎになる」 「どうして?」 「今は病院で倒れたんだ、無理に動かすこともできないと渋々お前を置いていった。一度ここを出れば幽閉されるくらいは覚悟しておいた方がいい。黙ってそれに従うなら俺は何も言わないが、それを知った一条が放っておくはずはないしお前だって怪我人に無茶はさせられないだろう。まったく、未確認だけで頭が痛いってのに、抱える問題が多すぎてストレスが爆発したんだ。この症状はまだまだ繰り返しそうだぞ」 「それは…嫌ですね」 「尤も、俺がただの医者として接してやれば少しは楽なんだろうけど、そこまでお人好しじゃないしお前のために自分の気持ちを変えるつもりもない」 「…厳しいな」 「五代に優しくして俺に得なんてねぇからな」 俺に構って得すること。人間関係が損得で成り立っているものじゃないのは『心』と呼ばれる感情を誰もが知っていることで証明できる。だけど俺は、未確認と同じ肉体を持ち大切な人さえ守り切れず迷っている、俺は… 「離れていれば、それで静かでいられますよね」 「…離れていられるなら、な」 気付いて、求めて。そして求められ重ねた。 互いを必要だと思いそれが運命だと確信する。そんな二人でいられるだけの時間や環境であればこんな痛みを知らずに済んだ、悔やむのはただそればかりの毎日。 「俺…一条さんが好きです」 「ああ」 「一条さんもそう言ってくれました。ちゃんと確かめました、二人で」 「ああ」 「だけどうまくいかないんです、俺達、自分自身の感情のままには進めないんです」 「…ああ」 「苦しくて、一条さんのことを考えると、誰かに責められるとものすごく苦しくなって、それで何もかもから逃げたくなる。椿さんを恨みたくない、兄さんを恨みたくない、だって悪いのは俺でしょ?迷って立ち止まって誰かに縋ろうとして、自分が弱いからこうなってしまうことを知っていながら何も出来なくて、だからその度石に思い知らされる。人間からは遠く離れた存在になり果て他にすべきことはいくらもあるくせにって…突き付けられる」 「お前は、弱くなんかない」 「弱いよ。だって一条さんを守れなかった。愛してる人を傷付けられて、理性が飛んだ。ダグバと同じになってはいけないと強く心に念じながら、だけど動かない一条さんを見た瞬間目の前が赤くなって何も分からなくなって…自分を取り戻したとき粉々になった未確認の体が目の前に転がってた。絶対いけなかったのに、そんな風に敵を倒して…倒したんじゃない、ただ殺して……そんな俺が一条さんを、みんなを守りたいなんて偉そうなことを言っちゃいけないんじゃないかって思ったら…やっぱり側には…」 「なあ五代、俺がお前だったらさ、もっと早くにおかしくなってだぞ、きっと」 起こしかけていた体を支えてくれる。背中に枕を当ててくれた椿さんの手は温かくて、思わずその腕を掴むと息だけで笑いながら抱き締めてくれた。一条さんとは全然違う、なんて言うか、『父親』の温もりみたいな静かさ。 「俺が薫を思ってる気持ちは、まあ確かに恋愛感情が入ってるのも認めるよ。だってあいつ綺麗な顔してるし自分のものだったら嬉しいと思わせる魅力があるだろ。気が強くてみんなが憧れてて、そういう特別なものを独り占めできたら嬉しい。そういう打算も含んだ気持ちで半端に薫を欲しがってたからさ、純粋にあいつを見つめてるお前が憎らしかったんだ。所詮は自分の邪さで相手の気持ちを掴めないだけのくせに、同じ場所に立って求め合うことを始めたお前達を妬むなんて図々しいのは俺なんだ。それを認めたくなくて意地悪言うなんて…ガキは俺の方だってんだよな」 「そんな…椿さんは格好いいし、大人だし…俺より一条さんを…きっと知ってる…」 「知ってるだけじゃ駄目だろう。『理解』して初めて、相手を『識る』ことが出来たっていうんじゃないか?」 子供のような、丸い目。大人と子供が同居してる。だから鋭く傷付けたり、こんな風に癒せたり。俺にはない柔軟な感性と人間が持つ残虐さ。椿秀一を構成する感性の正体。 俺は隠すことばかり巧くなって、『自分を偽らない』という素直さを捨ててしまった。人に言わせれば『いつでも笑っている』という賛辞も俺にとっては自らを隠す手段に過ぎない。 それを見破られるのが怖くてまた笑う。大丈夫と繰り返す。 「俺は…結局何もできないんです。戦うことも半端な気持ちのままなんだ」 「そうか?それならもっと早くに自滅してるだろ」 「椿さんがクウガになっていれば、体は自分で調べられるし俺みたいに迷わないし…一条さんだって…」 「ばーか。俺は医者だぞ?いくら死体専門とは言え、命に執着しきった医者が迷わずになんていられるか」 「…俺も、死ぬのは怖いですよ」 「でも、戦ってる」 闘ってる。 「…お前がさ、そうやっていつまでもウジウジ言ってるのを聞くのは嫌だ。決めたんなら突っ走れ。…そう思ってるのと同時に…もう止めろとも思ってるんだ」 椿さんが震える肩を抱き締めてくれてる。安心する温もりが嬉しくて縋っていたけど、少し胸から離されて怖くなる。 「俺に何を言われても動じないお前じゃないとこっちが不安になる。あんな兄貴の言いなりになってるのを見るのも苛々する。薫を守れないお前も嫌いだ。だけどな、いつだって誰かのためにって笑ってるお前が、本当に『誰かのため』に死んでいくのを見るのは嫌なんだ。治る傷でも、負わされるのを黙って見ているしかないなんて切なすぎる」 「椿さん…」 また、強く抱き締められて。 我慢はそれが限度だった。 「…今まで…泣くところなんてなかったか」 「はい」 「薫の前じゃあ、駄目なのか」 「だって…だって強くなきゃ…守れるようになりたいのに、泣くなんて無力なところ見せたくない。半端はしないって約束したのに、破るところは見せられないから…」 「見せてもいい仲に、なったんだろ」 ぽん、と。 頭を叩く大きな手がやっぱり父さんみたいだった。 「俺から薫を取り上げといて、あんないいもの独り占めするくせに泣くなんて卑怯だぞ」 「はい…ごめんさい」 「図々しい奴、本当に独り占めしたつもりか」 しがみついたら、もっと強く抱き締めてくれた。 それが今だけなのは分かっていても、与えられる温もりを離せるほど強くはない。だけど男だから自分の足で立たなければならないし、選んだ道が『闘う』ものなら、彼と共にあるなら踏み出さなければならない。 何をやってるんだろ。 そう思いながら椿さんの肩で泣いた。どうしようもなく溢れる涙は止まらなかった。 迷いは、まだ心の深いところにあるような気がした。 いつの間に眠っていたのか、気が付くとそこは一人の病室だった。 外はすっかり暗くて星の一つも出ていないのか、暗く冷たい風が渡っていく様が目に見えるようで、ベッドから下りた素足を震わせた。 そっと抜けだし歩いていく。一条さんが眠ってるはずの集中治療室はナースセンターのすぐ脇で、中を覗くと看護婦が一人パソコンに向かって作業をしている。 素足だから音を立てずに歩けて丁度いいけど、冷たい指先はもう真っ赤になっていて感覚も薄れてきた。だけど。 色々な機械に囲まれて眠る一条さん。 頬の傷が手当された、そのガーゼすら痛々しく直視することが出来なかった。 俺がもっと強くなれば、迷いなんてなければこんな事にはならなかった。だけど俺は人間でいたい、あなたを愛する心のままでいたい。その願いが裏目に出て、もし、ダグバと等しくなればその時は… 闘いたくない。 闘わなくちゃいけない。 闘う。 闘って、勝って、明日を掴み取って。 勝ち続けて。 「俺は…今更何を言ってるんだろう…」 一つずつの勝利はみんな、一条さんや沢山の警官、椿さんや榎田さんのような協力者全ての力で得たものだ。そしてその力を預かっているのが俺。 だから俺が迷ったり躓いたりしている暇はないし、泣き言だって言ってる場合じゃない。 そんなことは分かり過ぎるほど分かっているのに、どうして未だにこんなこと考えてるんだろう。 「恋すると…強くなると思ってた」 強くなれると思ってた。 好きだから離れる。またその思いが蘇る。だって二人とも駄目になるなんて、そんな馬鹿げた結末だけは嫌だから。一条さんは、安らかでいて欲しいから。 ガラス窓に手をかけて、見つめる先の彼が答えを与えてくれるのを待つ。離さないと言ったあの夜が、もう随分前のことに感じられ目の奥が痛む。 一条さん、俺はどうしたらいいでしょう。 この先、どの道を選ぶのが『最善』の方向なのでしょう。 「雄介」 背後の足音が走り寄る。兄さんが窓にかけた俺の手を取る。 あなたとも椿さんとも違う熱は、だけどそれも不快などでは決してなく、兄という優しい言葉の持つ魅力に逆らうこともまた出来ないのです。 一条さん、俺はどうすればいいですか? あなたは、どうすれば幸せですか? 俺は、どうすることが正しく、幸せだと言えるのでしょうか。 一条さん。
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