月光譚 11

 


「それで、五代は」

「大丈夫って…それだけ言っていっちまった」

半身を起こしたベッドの上からきつく睨み付けたけど、椿はちっとも悪びれない顔で点滴のチューブを弄っている。

集中治療室から一般病棟に移るまでの二日間は意識もはっきりしないままだったので誰に問うことも出来なかった。そしてここに移ってからの三日は顔見知りの警察関係者はおろか、椿でさえも顔を出さない始末で結局今日まで彼のことをなにも訪ねられないままに過ごしてしまった。

そして漸く訪ねてきたと思ったら、開口一番が『あいつ、なんかとんでもないことに巻き込まれたらしいぞ』という突拍子もない言葉だった。

「俺も榎田さんから聞いただけだから、詳しい状況は分からないんだ」

「聞くつもりがなかった、の間違いじゃないのか?」

言いながら腕に刺された注射針を引き抜こうとすると、まあ当然のように止められる。それを更に振り切り睨み据えると、情けない顔でじっと見下ろしてきた。

彼のことはよく分かっている。無意識に他人を避け続けた自分が唯一側近くに寄ることを自身に許した相手だから、その心の内にあることも殆ど全てが見えていた。

それに応えられるかどうかは、結局これまでの付き合いの中で不透明なまま…彼にとっては中途半端なまま来てしまったことに対して負い目がないとは言えないけれど。

出会ってしまった。

彼に。

五代に。

きっと、魂の片翼の彼。

「五代は、何処にいる」

「………自宅だろ。高徳院にいるはずだ」

そうか。それだけ呟きベッドから降りる。胸が痛い。呼吸が苦しい。クラクラとする頭とフラフラする足下。情けない。

「退院許可は下りてないぞ」

「非常時に暢気に寝ていられるほど無神経じゃないんだ」

「足を引っ張るだけだと思わないか」

「五代が」

振り向かず。

「呼んでる」

洗面台の隣のロッカーを開けると案の定自分のスーツが掛けてある。事件当時のものではなく、きちんと一式揃えられた皺一つない…

「勝手にしろ、と言いたいところだが医者としてそうもいかん。お前の怪我は軽いものじゃないんだ、無理をすればそれだけ完治は遅くなる」

「自分の体の折り合いくらい自分で付ける」

「偉そうに」

なにを言われても、どうなろうと。

動きだしたものは止まらない。運命は変わらない。その運命というものに立ち向かうのは自分一人ではなく、現場で闘う全ての警官やその協力関係者―――そして誰よりその過酷さに立ち向かっている五代雄介という人間。

彼が走り続ける限り俺はその背を守る。先を切って走ることが出来ないのはどうしようもない事実だから、せめて安心して駆け抜けることの出来るよういつだって側にいるから。

目を、逸らさないから。

きっちりとスーツを着込み、みっともなく顔に貼られたガーゼを剥がす。赤い、皮膚を擦り付けたような傷。目に見える、傷。

どれほど激しい怪我を負っても霊石の効果によりすぐに癒える。けれど闘うたび心に刻まれる、真っ直ぐで深いその傷は癒えることを知らず。

それでもいつか痛みは薄れる。消え去らずとも、囲むいくつもの優しさが彼を慰め記憶を遠ざける。きっと。

「残りゃしねぇよ」

「………いや…残る」

「意外だな、自分の顔に興味なんかないと思ってたのに」

口を尖らせる椿に笑ってみせる。分かってないよ、お前は。

それが俺とお前の距離だと言うこと。

分からないから、それが“椿”だということさえ気付かず。

ふらつく足を前に進め、後は振り返らずに部屋を出る。ここに俺の成すべきことはなにもないから、求められ、そして側にあるため彼の元へと向かう。

傷は癒える。痛みは薄れる。でも。

「その胸に付いた傷跡が生涯目に見えるものとして残ったら…」

自らの呟きに苦く笑う。

弱くはないはずの同性の彼を思いやるのは取り越し苦労なのかも知れない。けれどそれを覆すほどに大きな闘いを彼一人に強いていたから。だから。

見るたびに思い出す、それはまた新たな痛みとなり彼の心を乱すだろう。それを思うだけで潰されそうになる周囲を気遣い、微笑むたびに、また。

人を殺すということ。

闘うということ。

未確認生命体は憎むべきものであっても、彼はその体組織を同じくする存在だから。

心はいつでも苦しく、血の涙を流し続けていたはずだから。

そして安らげるはずの肉親と巡り会って尚、彼の心は静まらない。その事実をどう受け止めるか、あくまでそれは彼自身の決めることだが…

優しく穏やかな気質をねじ曲げ、闘うことに身を任せた。中途半端をするなと叱ったその言葉に嘘はないけど、彼が決めてしまった道が果たして正しかったかといえば決して頷くことは出来なかった。

こんな状況でさえなければ、自分と会うことさえなければ。

暖かな人々に囲まれ生きることが、彼に尤も相応しい人生だと分かっている。

それを取り上げたのが誰かも。

分かっている。

「それでも……それだも今は、お前が必要なんだ」

個人として、その気持ちが抑えようのない愛情だということは身に滲みていて、それだけなら無理をしてでも彼を手放すことは出来ただろう。苦しくても、辛くても、エゴでしかない思いなら握りつぶしてみせた。けれど闘う彼を失えば、この世に救いはないという事実だけが広がっていく。絶望が。

なによりそれを恐れた彼がどんな道を選ぶのかは分かり切ったことだけど、それを許す人間ではない。彼の兄と名乗った人物は正反対の暗闇の目を持つ、温もりを覆い尽くす冷たさを持ちながら彼をその腕に抱え込んだ。

冗談じゃない。

諦めるなら、それは彼に自由を返すことが条件だ。縛り付けあの柔らかな眼差しを覆うならこの非力な俺が抱き締めていた方がどれほどマシか分からない。少なくとも彼の望むことだけを選び、そして共に歩くことが出来るはずだから。

都合のいいことを思いながらタクシーを拾い、特捜本部の設置された警視庁へと向かう。

そうだ。あの男だけは認められない。それだけは決して許せない。

刑事としての勘がそう告げていた。あれは、真っ当なもののする目じゃない。

早まるなよ。

口の中でそう呟き、暮れていくオレンジの空を睨み付けた。

 

 

 

 

 

「一条、 お前…退院のはずがないよな?」

「自主退院です。杉田さん、五代からの連絡はどうなっていますか?」

「いや、俺達と直接話すことは一切出来ない。今朝本部長が呼び出されたんだが…相当デカイことになってるらしい…」

「この間の未確認の動きは」

「今のところ目立った活動はない。ただそれらしい事件が午後に一件報告されてる、用心しておいた方がよさそうだな」

「分かりました。私は直接五代と連絡が取れないか試してみます」

「どうやって」

「BTCSへの無線と妹さんへの確認を。彼にとっての実家であれば、彼女にも無縁ではないでしょう」

「まあな…だがそうでもないらしいぞ」

「どういうことです?」

「桜井が妹さんに聞いたところによると、あの高徳院って家から彼女の元には一切の連絡がいってないそうだ。五代くんも自分のことを嗅ぎ回られるのが嫌だったのか妹さんのことは話さなかったらしい」

「しかし、五代と彼女は紛れもなく同じ母親から生まれた兄妹ですよ?そんなことがあるでしょうか」

「ああ。だからこれは俺と桜井の勝手な想像なんだが…」

手招きをされ耳を寄せる。緊張した、低い声。

「五代くんが『第四号』であるってことに関係があるんじゃないか」

「どういう意味です?」

「あれだけの家だ、その気になればこれまでの時間で簡単に見付けられただろうし、常識的にいえば妹さんの保護は当然だろう。それをこの時期、五代くんだけに必死になっているっていうのはおかしくないか?それに…一条だって気付いたろう、あいつの目」

「ええ…彼の兄とはいえ血の繋がりはないそうですが、それにしても少し…嫌な目をしていましたね」

「だろう。だからこれには何か裏があるんじゃないかと思ってる」

「裏、ですか…」

「杉田さん!え、あっ一条さんじゃないですかっ」

走り込んできた桜井さんはなんとも複雑そうな顔で俺を見た。心配ないとは自分でも言える状態ではないので仕方なく曖昧に微笑んでみせると、眉を寄せた情けない表情で見上げてきた。

「ご心配をお掛けしましたが、寝ている方が精神衛生上良くないことに気が付きまして」

「それにしたって…無茶しないで下さいよ。何かあったら俺達が五代さんに叱られるんですからね」

「は?」

「そうだな。お前が倒れたときの五代くんの様子を見せてやりたかったぞ」

「そうですよ。連絡を受けた笹山くんなんか『この世の終わりってああいう状態をいうんですね』って感心してたくらいなんですから」

「は…あ……そうですか…」

言葉もない。

いや、心配かけたという自覚は当然あるしその時のことを思わないわけでもなかった。けれど第三者から見た状況を聞かされるというのはどうにも照れくさく恥ずかしいものだ。

五代が、この世の終わりという顔で倒れた俺を見守っている…

悪くはない図かも知れないが、そんなことを言ったらこの二人には目を剥かれるだろうし五代には本気で怒鳴られるだろう。

「俺もそれくらい心配してもらえたらなぁ」

「五代くんにか?」

「ちっ違いますよ!俺にだって慕ってくれる女の子の一人や二人…」

「なんだ、じゃあ今度会ったら言っておいてやろう。桜井は五代くんの心配はいらないそうだってな」

「またそうやって俺を虐める…」

杉田さんが豪快に笑うので、俺も釣られて吹き出してしまった。不満そうに口を曲げる彼が狛犬のように見えて余計おかしくなってきた。

「一条さんまで笑うなんて…心配して損した」

「まあそう怒るな。で、なにかあったんじゃないのか?」

「え?……あ―――っっ!!」

突然叫ばれ俺も杉田さんも一瞬後ずさってしまった。

「すいません忘れてました!帰ってきたんですよ、本部長が!!」

「なにぃ、そういうことは始めに言えっ」

「すっすいませーん!」

頭を下げる桜井さんを押しのけ走り出す。痛む胸は別のちりりと灼かれる痛みに支配された。

 

 

 

本部長室に飛び込むと、中には松倉本部長ともう一人の男が立っていた。顔は見知っているが直接話したことはない彼は、本部長職より一階級上の人物であったが未確認捜査に於ける発言権は持たないはずの上官だった。

彼の担当する職務といえば…

「一条くん…だったな。きみは入院中と聞いていたが」

「はい。ですが緊急時ですので休んでいるわけには参りません」

「松倉くんの言う通りだな」

「ええ…困ったものです。しかし彼の尽力なくして、この事件は乗り切れないと確信していますから。一条警部補、捜査には復帰できるのかね」

「はい」

背筋を正し言い切る。自分の成すべきことを見据える。

それから二人の上司は何かを小声で囁き合い、一人は部屋を出ていった。

出ていった人物…それは主に暴力団関係の事件を統括する部長であり、特に覚醒剤関連の捜査に明るい人物だと記憶している。

嫌な緊張が走る室内で、本部長はゆったりした動作で席を定めた。それからブラインドに指をかけすっかり暗くなった外を確認すると、大きな溜息を一つもらした。

「厄介なことになった」

「…五代くんのことでしょうか」

「ああ」

杉田さんと桜井さんはちらりと視線を寄越した。彼に関することはお前に任せると言うことなのだろうが、悪い予感は聞くことを拒否したくてたまらない。

「最近、新宿を中心に覚醒剤に関する事件が多発している。実際の薬物売買だけではなく、中毒患者による傷害やそのトラブルも日増しに増えている状況だ。当局に於いての懸命な捜査にも関わらずその数は増え続けているのだが、どうやらその網の目を潜る方法が明るみに出た、というところだ」

「どういうことでしょう。それに未確認に対する捜査とは直接関わり合いのないことではないのですか?まして五代のこととそれが一致するとは思えません」

「私の話について、既に察しているのだろう?一条くん」

唇を、噛む。

未確認にばかり目を奪われている現状でも、私腹を肥やしたいものは数限りない。そして警察の取り締まりも確かに弱まっている今であれば、奴らにとって“稼ぎ時”としか言いようのないチャンスなのも確かだと思う。小さな組織は飛躍の時を迎え、そして元より大きな組織は更なる拡大を求め暗躍する。誰もが描ける簡単な図式に他ならない。

本部長は目頭に手をやり、疲れたような息を吐き出す。それは既に諦めた者がする表情で、見ているこちらが目を逸らしたくなる凄惨さを湛えていた。

「高徳院というのは、昔から中央省庁の役人に対し対等かそれ以上の付き合いをしている名門だ。きみらには口惜しいことだろうが、その特権階級は私のような者では覆せないほど大きく強い。つまり裏でなにをしていようが全て見て見ぬ振りをしなければならないということだ」

「時代が、変わっても?」

「習慣や習性はそう簡単に変えられるものではない。それにあの家が直接犯罪に荷担している訳ではないから、捜査陣も踏み込むことは出来ない」

「どういうことでしょう。はっきりお聞かせ下さい」

一歩詰め寄るとそれまで斜めだった椅子を正面に戻し、厳しい視線で真っ直ぐに見つめてくる。知らず息を呑む音が背後から聞こえた。

「高徳院が直接覚醒剤取引に関与している証拠はこれまでなかった。しかし捜査陣の懸命な努力により暴力団との接点があるらしいことがいよいよ明らかになってきた。逮捕者の中に組織を恨んでいる者がいて、条件によっては内部事情を告発してもいいとという話がまとまったんだ。その男の話では、覚醒剤だけではなく他にも非人道的な犯罪に荷担している節がある。だからこの機会に動かぬ証拠を突き止め、決して上からも手の尽くしようのないほど徹底的に取り締まることで方針固めがされていたのだ」

「それが…覆された、ということですか」

「身内の恥だ、他言無用で願いたい。捜査本部の決定事項は、そのまま奴らに流れていたらしい。今朝、容疑者の身柄引き渡しと捜査の打ち切りが通達されてきた」

「そんなっ」

「私の所に話が回った段階でおかしいとは思った。呼び出された総監室には高徳院現当主の貴志氏と彼が懇意にしている議員数名が待っていた。彼らは言ったよ。条件さえ呑めば

未確認生命体と唯一闘うことの出来る第四号を、引き続き捜査協力者として提供することを認めて下さるのだからと」

「なんて卑怯な」

桜井さんの、怒りを押し殺した低い唸り声。

「今の我々に彼を失うことなど到底出来ない。これまで必死に捜査を続けた警官一人一人の顔が浮かび…いや、それは彼も同じだ。互いの部下を思いやれば簡単に頷くことがどれほど困難なことかは容易に知れる。しかし」

言葉を切り、本部長は静かに立ち上がると目前まで進んできた。引き結んだ唇が色を失い、その決断の苦しさを真っ直ぐ伝えてくるようだった。

「我々捜査本部は第四号無くして敵を殲滅することは甚だ困難であるという結論に達した。憎むべき麻薬犯罪捜査を決して軽んずるわけではないが、現状での優先事項はやはり未確認生命体の虐殺阻止と活動停止にあると判断する。第四号である五代雄介氏の希望であれば、それが即ち、最優先されるべきことだという結論に両本部一致の上決議された」

「五代が…希望?」

「兄思いの弟だと彼は自慢げに笑ったよ」

「そんなはずありませんっ!五代が…あいつがそんなことを…」

「勿論、私も信じたわけではない。だが何らかの取引がされ、彼自身も認めざるを得なくなったのだろう」

肩を叩かれる。呆然と見つめる足下が不意に揺らぐ。

杉田さんが何かを叫び、乱暴に開いた扉から誰かが飛び出していく気配がした。

記憶はそこで途切れあとは暗闇が目の前を埋め尽くした。

五代。

きみは今、――――――何処にいる。

 

 

 

 

 

ぼんやりとした視界の中に佇むのは五代だ。

泣きそうな顔で見つめてくる彼に大丈夫だと笑ってやりたいのにそれが出来ない。

情けない。自分から飛び出したくせに結局戻ってきてるじゃないか。みろ、椿まで神妙な顔で見下ろしてやがる。

それにしても。

五代、馬子にも衣装だと笑えばお前は怒るだろうな。そのスーツ、似合ってるには似合ってるが、まるで七五三の子供みたいにピカピカでなんだかすごくおかしいぞ。

五代に向かって手を伸ばす。怯えた目の彼はその手を取ることを随分長く躊躇った後、それでもおずおず指先を伸ばしそっと絡め取ってくれた。

どうした?

なにが怖い?

側にいるのに。

ここに、いるのに。

冷たい指をしていた。悲しいほどに凍えた指。まるで彼のものとは思えない強ばった指を引き寄せると、泣きそうな顔が更に歪み、そしてその指は引かれてしまった。

離れてしまった、大切な恋人の指。

五代の体を二人の男が、まるで俺から遠ざけるように引き剥がすとそのまま連れ去ってしまった。呼んでるのに声が出ない、求めてるのに。

五代。

ごだい。

 

 

 

記憶はまたそこで途絶えていた。

 

 

 

 

 

 

 

目が覚めると、そこは殺風景な病室だった。

点滴薬はまだ少し残ったまま注射針が外されていて、サイドテーブルには“一条”と記された薬袋が置いてある。

椿か。

目が覚めたらまたすぐ出ていくと思っているのだろう。確かにそれは正しい判断だ。

壁に掛けられたままのスーツが目に入る。

五代。

きみは今、何処にいる?どこにいてなにを考えている?

あれは幻だったのか。

五代が泣きそうな顔で見つめてきた。七五三のようなスーツ姿で、幼い瞳で。

会いたい。今すぐ。会って話がしたい。

きちんと彼の言葉で。

気持ちで。

話さなければならない。

きみの決断は間違っている。きっと俺を引き合いに出され、そしてなにより囲む全ての笑顔を交換条件として。汚いやり方をけれど拒むことさえ自分に許せずに……

ベッドから降りてスーツに着替える。自分のいるべき場所へと戻る。

そこにいるのが誰で、そこで成すべきことはなにか。

自分の目で確かめたい。自分の手で。

掴みたい。

向かうべき場所は分かってる。

だから行こう。自分の意志で。自分の足で。

正しいことを見付けていこう。

見付けに行こう。

五代。きみの心を知るために。