月光譚 15

 


恐る恐る尋ねると、杉田さんは低い声で答えた。

『一条は今日、明日を年休取ってる…ということになってる』

無線の雑音が混じったそれは不満気な、疑念に満ちたものだった。そりゃそうだろう、この時期に休みを取るなんて非常識すぎるし、まして相手はあの一条さんだ。自己都合なんて理由が信じられるはずがない。

言い継ごうとするそれを遮り草々に切ってしまう。俺には理由が分かり過ぎるほど分かっていたから。

アクセルを全開にする。一秒でも早く彼の元へ行かねばならない。もし、万一のことがあれば…その時は…

彼の携帯は留守番サービスの機械音声だけを繰り返し聞かせるだけだった。不安が、刻一刻と募っていく。焦る。

まずは彼の暮らす部屋を訪ねてみたけど案の定応答はなかった。静まり返ったその部屋に、昨夜彼が戻ったかどうかも定かではない。こんなことならすぐに知らせればよかった。迷っている暇なんかなかったのだと、今更の後悔が胸を押し潰し痛みさえ感じはじめる。

知られたくない。

母さんの生まれた家なら確かに俺にとって無縁じゃない。兄さんも。

あんな人でも兄であるなら、染めてしまった悪の色を、その指先から拭ってやりたい。

そうして迷っていた結果がこれなら、俺は彼に対しとんでもないことをしてしまった。信じたいと思う、それさえも自分自身のエゴだということに漸く気付き、唇を噛む。

自宅か…再び走らせるバイクの進路を都心に向ける。高層ビルの最上階が、企業主としての兄の玉座だ。

赤信号を無視して駆け抜ける車体が朝日を弾き輝く。冷たい空気が、全身を叩く。

その時。

『聞こえるか五代くん!』

「はいっ」

杉田さんだ。心臓が跳ねる。

『奥多摩方面に未確認が現れた!今度の餌食は我々警察官らしい、既に百人以上が殺されているっ至急向かってくれ!』

「っ、」

『どうしたっ』

「すいません、すぐっ…すぐ行きます!」

みんなの笑顔。

一条さんの、笑顔。

守りたいもの。

兄さん、俺はあなたを信じたいんだ。あなたの中の、俺と同じ“人間の心”を信じたい。

語り、そして分かり合える言葉を。

頼むから。

 

 

進路を大きく変え、俺が向かう先は戦場となった。

彼は分かってくれるけれど、それでも側に行けないもどかしさと恐怖を伝える術はもうなくて。

あなたを、愛したことを誇りに思う。けれど。

 

 

 

俺と出逢ってしまったあなたの不運を、俺は、取り戻してあげることも出来ない…

 

 

 

 

 

 

 

 

硬い体。

人ではないもの。

未確認生命体。

人類の、敵。

 

山中で倒したその体は轟音とともに爆発した。

変身を解き立ち尽くす俺に笑いかける人はなく、虚しさだけが込み上げる。

あなたがいない。

側に、いない。

俺だけの可哀相な恋人は、それでも俺を信じて待ってる。きっと、待ってる。

夕べ、兄と別れてから一晩中考えていた。冷たいを越して骨さえも断つような外気の中に身を浸しながら考え続けた。俺に出来ること。最善の、道。

その時気付けばよかったんだ。いつも、絶えず側にいる身辺警護という名の監視がないことに。

俺が追いつめる。自分を。彼を。兄を。取り巻く全てを。

重い足を引き摺りBRCSに戻ると、けたたましい通信音が鳴り響いていた。一条さんからの通信は、それが未確認出現告げるものであっても不快ではなかった。共に戦うその瞬間を知らせるゴングのようなそれは、結果的に“殺す”という行為を俺に強いることだったのに、それでも。

誰かがやらなければ。俺が、やらなければ。

『お兄様よりご伝言です。至急、本社社長室に御出でください』

無機質な声。警察無線を使えるというのは、一条さんを始め現場で必死に闘っている仲間と同じ括りの中にいる人間だということ。志を同じにするはずだということ。なのに。

 

闘いは終わりに近づいている。

石が、疼く。

教える。

そこに見える黒い影を恐れ、震える俺はどこかで麻痺して、そして。

そして、その恐怖すら、受け入れる。

 

 

 

 

 

 

近代建築を思わせる、清潔で重厚な空気に満たされたそこは無菌室のようだった。

誰もが自分の意志を隠し、笑うことも、怒ることもなくただ薄く微笑む。上司が首を振ればたちまちそれが自らの意見となるであろう、心を殺したような目の部下たちに囲まれ兄が静かに笑んでいた。

「一条さんを返して下さい」

「なんのことだ?」

「呆けても意味ないですよ。あの人に何かあったら許さないって、俺、言いましたよね」

「兄弟喧嘩にしては目が剣呑すぎるぞ雄介」

「あなたには言葉が通じない。俺が闘ってる未確認と同じだ」

奇麗事は、“奇麗”だから。

誰だって汚れたくないはずだから。

でも。

「あなたは何も分かってない。俺が、一条さんが、みんなが。どんな気持ちで闘ってるのか、殺し続ける相手を結局、同じように力でねじ伏せそんな自分に嫌悪するのか」

まるで、グロンギのように。

「犯罪は罪を犯すと書きます。してはいけないことが罪と呼ばれます。あなたがしているのは人としてしてはいけないことばかりで、罪を犯せば当然報いを受けねばなりません」

「尤もな話だ。だがな雄介、私に罰を与えるものはいないよ」

「います。俺が」

「兄に、手をかけるのか?」

「必要なら」

「では、必要だと判断した、…というのだな?」

兄さん。

兄弟。

血の繋がりはない人。

けれど。

「あなたは…何をどう言っても俺の兄さんでしょう?俺にとって、大切な人の一人なんです…」

一歩、踏み出すと数人の男に取り押さえられる。振り払わず、そのまま、兄を見詰める。

「兄さん、お願いだから…頼むから一条さんを返して」

「雄介、仮に私が彼を拘束しているというなら、その拘束を解いて欲しいと言うなら何か見返りはあるんだろうね」

「俺には…なにもありません。あなたを満足させられるものなんて一つもない」

「子供の物乞いじゃあるまいし。雄介、もう少し利口になればいい。自分のいる場所をもう一度見直しなさい。そこは下らない連中が蹲るところとはまったく違う、金と権力と将来を約束されたこれ以上ないほど安定したところなんだよ」

「俺は一条さんだけがほしいです。平和な時間と、みんなの笑顔と、俺を必要だと言ってくれる一条さんがいれば、あとはもう…なにも…」

「欲のないことを」

「いいえ。俺にとってはこの上ない贅沢です。それ以上は望めない、とてもとても大切なものなんです。なくしたら…もう、生きていけない…」

「そうか」

彼が指先をひらりと振ると、俺を捕らえていた腕が一斉に放される。

兄さんは、笑っていた。

密やかに。まるで、自嘲するように。

「雄介、私にも一つだけある。お前の言う、大切なものが」

兄が立ち上がると部下たちが音もなく退室していく。

彫りの深い顔は一つも似ていない。戸籍上だけの兄は大きな瞳の中いっぱいに俺だけを映し、進んでくる。

俺が守りたい、大切な人。側にいる人。一条さん、みのり。おやっさん、奈々ちゃん。

数え上げたらきりがない、そして確実にこの人も…その中には、入ってる。

「雄介…私にとってお前は大切な弟だ。守りたいと思って、幸せを願ってどこがいけない?」

「それ、は…」

「お前には妹がいるだろう。だが私にはいない。お前という存在だけが私の家族だ」

「そんな…みのりは、あなたにとっても妹でしょう。それにお母さんだって、」

「母は私以上に権力に餓えたどうしようもない人だよ。息子の七光りで贅沢することしか頭にない。それに、この年になって妹が出来たといわれても戸惑うだけだ。私は私とともに、側にいてくれる家族がほしい…雄介に、いてほしいと思う。心から」

長い腕。俺よりがっしりとした体格。自信と、そして何より実力を備えた本来太刀打ちできないような人物。

交わす言葉を、持ちたいと願う…

掴まれた腕は痛いくらいの力だった。その真剣さに嘘があるようには見えなかったし、抱えてきた寂しさというものが垣間見えた気がした。

「約束してくれないか。私を支えてくれると」

「あ、…あの、」

「私を兄として認めてほしい。認めると…約束を」

「それ、は…」

ドン、という衝撃が扉を揺する。そこにいるであろう兄の部下と、誰かが争う気配がどんどん大きくなり、そして罵声が聞こえる。

椿さんだ。

それから、杉田さん。

兄の腕を振り払い扉に向かう。開いた先には案の定、息を荒げた二人が立っていた。

「五代、一条はどうしたっ」

「五代くんっ」

「二人とも落ち着いて下さい。一条さんは、ここにはいないようです」

「なにっ」

「BTCSのレーダーを追っていたらここに着いた。さっきのきみの様子があまりにおかしかったから、これはもしかするとと思い駆け付けたんだが」

「夕べ俺が電話を入れたとき、誰かにつけられてるようだとあいつが言ってた。だからどうしても気になって連絡してみたら今日は休みを取っているという返事だ。そんなことあるはずがない、こいつが何かしたに決まってるんだっ」

椿さんの目がギラリと光る。この人の、彼への思い。決して色褪せることない、深いそれ。

俺が一条さんを思うとき、それは常に少しの痛みを伴うものだけど…椿さんは違う。いつでも、どんな時も真っ直ぐに、何より強く輝く思い。恋に、とても近いもの。

いつかは“恋”で、あったもの。

「不法侵入で訴えますよ」

「抜かせっ一条をどこへやった!」

「都合がいいことに私は警察官です。事情を説明願いましょう」

「私は弟と語らっていただけのこと。秘書に任せますから好きなだけ事情聴取なさればいい」

「五代、お前は何をやってるんだ!こうしてる間にも一条の身が危険に晒されてるんだぞ」

「それは、…でも…」

「そいつと一条と、お前は一体どっちが大事なんだっ」

「どっ、…ち…」

兄と。恋人と。

母親よりも大切だと言ってくれる兄と。

全てを重ねた恋人と。

「雄介、私はお前を愛したい。大切な家族というものを私に持たせてくれないか」

一人だった。

ずっと。

俺には母さんがいて、みのりがいて。短かったけど父さんに甘えた記憶もあって。

一条さんと出逢って。

「………俺、は、」

 

 

ガシャン

 

 

ガラスが割れる音。そしてそれ以上の破壊音が兄の背後から聞こえた。

 

 

 

 

 

何が起こったのか、その瞬間は分からなかった。

ただ、お腹の中の石がものすごく熱くなって、そして胸が締め付けられるように痛み立っていることも出来なくなり、そして。

炎が、見えた。

立ち竦む兄を秘書が突き飛ばして、次の瞬間その人は全身を赤く染め床の上に転げる。

肉が燃える、嫌な臭い。でも、それも一瞬。

白い戦士。

邪悪な空気を纏った、異形のもの。

ダグバだと、瞬時に悟った俺はだけど何も出来なかった。ただ呆然とその光景を眺めていた。ただ、見ていた。

ダグバは笑った。

俺に向かって手を伸ばした。

おいで、と。

いっそ優しい声で俺を呼んだ。手招いた。

銃を構えた杉田さんが何かを喚きながら乱射する。だけどそれは簡単に跳ね返され悲しく床に散っていた。だめだよ、そんなの。効かないよ。だって。

だってあれが、究極の存在。

人と変わらぬ、凶凶しき存在。

俺も。

兄さんも。

 

無残に破壊された壁からダグバの体が吸い込まれるように外へと消える。

消火器を持った杉田さんが、もう動かない人に懸命に声をかけているとスプリンクラーが作動したためあっという間にそこは水浸しになってしまった。

冷たい。

ぼんやりと思う。

冷たい。

 

「ゆう、す…」

部屋に転がる黒焦げの死体は一つだけじゃなかった。俺が一歩も動けずにいるうち、そこにはいくつもの“人であったもの”が炭と化して無残な姿を晒していた。

兄さんは、部屋の隅へと逃れていた。右足をあってはならぬ方向に捻じ曲げ、品のいい仕立てのスーツを黒く焦げ付かせて。

「ゆ、す…」

「五代っ一条はどこだっ」

杉田さんが背後に庇っていた椿さんは、煤で汚れた頬のまま俺の腕を掴む。燃える目で。

睨む。

俺は、そのまま歩き出した。椿さんに引き戻されながら、それでも真っ直ぐに進む。やがてその拘束は解け、俺は兄さんの側に…大切な人の前に、跪く。

「あれ…が…」

「未確認だよ。その中でも一番強い、究極の闇をもたらすもの」

「あんな…あ、な…もの、と…」

「そうだよ。俺だけが唯一対抗できるクウガになって、闘ってる。好んでしてることじゃない、でも…でも、俺しかないから、俺だけだから。こうやって理不尽に殺されていく人を増やしたくない…笑顔でいてほしいから…だから…」

「けが、は…」

「ないよ。ごめん、きっとあいつは俺に姿を見せることで満足だったんだ。兄さんを傷つけて、それで苦しむ俺を…見たかったんだ…」

「いやな…やつ、だな…だが、わたしも、なんとかぶじに、いられる…すこしやすめば、また、…だから、ゆうすけ、わたしに…」

野心家の目。

死んでも、それは変わらない。

生まれながらに植え付けられた、それは遺伝子が作る階段の中に組み込まれた毒。

俺の指が黒焦げの死体を示す。

「兄さん…兄さんを庇って、死んでいった人たちだよ」

「そのために、くん、れんを…つませて…」

「………そうですか」

そう、なんだ。

抱きしめた体は記憶の中の父さんほど逞しくはなかった。

荒い呼吸と、不快な熱と。

居心地悪そうに、捩る肩。

「兄さんは…俺がほしいんじゃないね」

顔を埋める。この人は俺の兄。

「自由に動かせる手駒がほしいだけなんだ…正当な血を継ぐ俺なら、誰も文句が言えないから…だからその俺を傀儡にて、上に君臨し続けたいだけ…」

兄である前に、権力と金のためなら魂も売れる亡者。そんなの分かってた。

「それでも…それでも俺は、嬉しかったのに…」

家族が欲しいと。俺に側にいて欲しいと。そう言われたあの瞬間は、一条さんの顔がほんの少し薄く滲んで。家族という言葉に泣きたくなるほど嬉しくなって。

心が、揺れて。

「五代くん、救急車の手配をした」

杉田さんの声は嗄れてる。やるせない思いを無理に飲み込み職務を全うしようという気配が感じられる。反対に椿さんは、駆け付けた人たちに片っ端から一条さんの居所を問い詰め、ダグバを目の当たりにした恐怖をその興奮に置き換え喚き散らしている。

終わらせなきゃいけない。

「兄さん」

終わり、しなきゃ、いけない。

「俺…闘わないといけないんだ。あいつに勝たないと、同じ事の繰り返しになるだけだから…こうして傷付く人が沢山いるから…」

「人には、いくつかの種類が…ある…大切なのは、上に、立つものであり…それを掲げ、従うものは…従うこと自体が、その使命の……全て、だ…」

大切な命。大切じゃない命。

それを、兄は自分が決めた基準により、振り分ける。

「悲しい…人だね…」

力を込めて抱き締める。不幸な、何も知らない、何も持たない心貧しい人。

そうやって生きるしかなかった、悲しい、人。

俺を求めてくれるその理由が、嘘でいいから暖かいものだと思わせていてほしかった。

与えてほしかった。

「俺には俺の、兄さんには兄さんの場所がある。だから今、あなたの側にはいられないし大人しく従う事も出来ない。でも、でもね、帰ってくるよ。あなたを一人にしない。だって兄弟だからさ。俺にとっては兄さんなんだから…だから、一人にはしないよ」

しないよ。

罪があるなら一緒に受ける。これまでに重ねた罪は、もしかしたら俺がしてきたことだったかもしれないから。母さんがもっと早くに俺をこの家に戻していたら、そしたら今、血走った目で己の欲望だけを通そうとしているのは俺だったかもしれないのだから。

色々なことに疲れた。

だからもう、終わらせよう。

闘って、勝って。平和を取り戻して。

償いはその後、俺も一緒に背負うから。それがあなたを兄と呼ぶ全ての思いに繋がるから。

 

 

不幸じゃないよ。

ただ、幸せでもない。

 

 

 

 

幸せでは、ない。