月光譚 16

 

「五代、少し休んでおけ」

「いいえ」

「お前が起きてたってどうにもなるものじゃない」

「でも、ここにいます」

青白い顔で、どこを見ているのか分からない目で。

五代が呼吸すら忘れたようにただ体を硬くして座っている。それは哀れとしか言い様のない様子で、普段苛々させられる部分を確かに持っている彼だというのに、ひどく落ち着かない気持ちにされてそれ以上声を掛けることを躊躇わせる。

彼の兄は瀕死の重症を負い病院に搬送された。政治家が重用するそこは一切のマスコミをシャットアウトし、その事実隠ぺい工作に荷担しているようだった。

医者として付き添ってきた自分でさえ遠ざけ、まして弟である五代をも目立たぬ小部屋に押し込め情況の一つさえ伝えぬ有様に心底腹が立って唇を噛む。

五代は、俯いたままなにも言わない。兄の血で汚れた指もそのまま、ただ黙ってあらぬところを見ている。

こんなときに気の利いた言葉の一つもないくせに、五代を責める資格なんて、ない。

ノックの音がした。

「杉田さん、ですよね。さっきは興奮していて挨拶もしませんでした。一条の友人で関東医大の椿です」

「ああ…五代くんの主治医をしているんだったな。いや、ビルの下で見かけたときは、あまりの形相に未確認かと思ったよ」

「すみません、慌てていたもので」

叩き上げの刑事を地でいくような男は五代に視線を走らせる。

人懐こい彼が顔も上げず唇を噛み締める姿は俺自身でも慣れぬ光景だった。痛ましい、というように軽く頭を振ると彼は俺にちらりと目配せをし、外へ誘った。

病院の廊下はどこも同じようなものだ。

暗く続くそこは消毒薬の匂いを微かにさせ、冷たい空気を更に淀ませる重苦しさのまま何もかもを拒絶する。

「一条だが、あの本社ビルから見つかったよ」

「様子は」

「ああ、外傷はない。拉致されるとき抵抗したせいで軽い捻挫はしているようだが、あいつ自身はいたって元気に吼えてるよ」

「どこにいます?」

「今度は特捜の本部長室に拉致監禁ってところだな。あいつに動かれて下手なことでも喋られたら困るってのが上の見解だ。いつものことだが今度ばかりは黙ってられないと、若い連中は息巻いてるよ」

「なるほど。じゃあその時は私も仲間に入れてもらいたいと伝えてください」

「おいおい、先生まで物騒なこと言っちゃ困るな」

「医者がみんな立派とは限りませんよ。第一私と一条は腐れ縁で結ばれてる仲でしてね」

「そうだったな。…五代くんは?」

「相当なショック状態です。精神力の強さでどうにかもってますが…まあ一条が無事だと聞けば多少は浮上するでしょう」

「ついにゼロ号とご対面、ときたらなぁ…俺なんて一歩も動けなかった。あんなものと闘うなんて、それこそ発狂しかねないな」

「ええ…俺も…思い出しただけで足が震えます」

「そいつらと互角に渡り合ってきた五代くんがあれじゃあ、俺なんかいざって時に役に立たないかもしれないな」

「頼りないこと言わないでください」

ふっと頬で笑う。戦場に立ち続けた男の影が、本当にいざとなったときどういう行動に出るのかを無言のうちに伝える。

死を恐れないはずはないけど、それでも彼は行くだろう。

 

 

五代も、一条も。そしてまた自分も。

 

 

 

 

「隙を見て声くらい聞かせてやりたいが、あれじゃあ却って刺激を与えちまいそうだな」

「一条に連絡することは可能ですか?」

「ああ。うちの本部長は話の分かる人でね、責任を持って一条の身柄を確保するって啖呵切ってくれたよ」

「では私から五代の様子を知らせておきます」

「そうしてくれ。あんな状態の彼のことを話して聞かせてやるのは辛い。いやな役を頼んじまって申し訳ないが」

「いえ。なんせ五代とも殆ど腐れ縁状態になりつつありますからね」

きつい目元が緩む。まるで我が子に向けるような眼差しが、彼の五代に対する心情を強く表している。

こんなに慕われている。

大切に守られている。

それは勿論、か弱い者としてではなく、常に最前線に身を置く彼をせめて自分たちの力の及ぶ限りは痛む心と体を背中に庇えるように。

「こっちは俺が張り付いてることになってる。もし五代くんが行くって言うなら桜井に連絡をしてみてくれ」

「桜井さんですね」

「ああ。あいつは五代くんの大ファンだからな、喜んで協力するだろう」

「警視庁は随分あいつを甘やかしてるんですね」

「それだけのことをしてくれてるからな」

まるで刑事ドラマの俳優のようなニヒルな笑いで去っていく。

「一条もあんなのになるのかね」

まあ無理だろう。あの神経質は一生直りっこないから、今のピリピリした雰囲気は心臓が止まる最後の瞬間まで…

大きな溜息に自分でおかしくなる。

一条は変わった。雰囲気も生き方も軟らかくなった。張り詰めていたものが程よく緩み、苦しいばかりの顔をしなくなった。

五代が、変えた。

互いに変わった。

「参るよな…あんなバカに負けるなんて」

笑顔バカ。

友情バカ。

兄貴バカ、博愛バカ、カレーバカ。

一条バカ。

「で、薫が“五代バカ”なんだよな」

呟いて、それから自嘲に唇が歪む。

あれを名前で呼ぶこともなくなってきた。時間や環境、そして互いの状況がそれを許さなくなって、最後はとどめのように五代という存在が二人の間に割って入って来た。

人間だから、その絆は常に生傷を負う。痛みを抱え言葉を堪え、相手の気持ちばかりに敏感になる。それが余計に苦しむことになると知っていても、それでも笑って口にする言葉はいつだって“大丈夫”で。

弱いんだよ。

俺も。薫も。五代も。

本当は弱くて誰かに縋って癒してほしい。根拠のない慰めだっていい、その瞬間の苦痛を忘れさせてほしい。できれば、自分が大切だと思う人に。

愛されたいと、願う人に。

冷たいドアノブに手を掛け、そして大きく深呼吸してからそれを回す。

決別しなければならないものは人生には山ほどあって、それは大抵とんでもなく後ろ髪を引かれるものだったりするけれど。

逃がした魚は大きいんだ。

五代みたいなバカは自分が抱えたものの大きさにも気付かず、きっと誰かが泣いて喚けば泣きそうな顔をしても差し出してしまうんだろう。

そんなことしたら俺が黙ってないけどな。

 

 

薫は、本当は俺のものだと言いたかった時間は、今、確実に過去へと押し流されていった。

 

 

 

 

 

 

 

憔悴した顔のまま、小さな携帯電話を必死に握り頷いている。

言葉はなく、だけど幾度も頷くその仕草は見えないあいつにも痛いほど伝わっているのだろう。

俺からだと言って代わられた電話は開口一番“五代は!”という絶叫で始まった。怪我はない、だけど相当参ってる。今代わってやるから少し落ち着け。

そんな言葉さえ聞いていない一条は、ただ繰り返し五代を出せと言い募った。

『…一条さん』

そう言ったきり五代は何も言えなくなった。涙のない瞳はあてなく彷徨っているのに、その苦しさを伝えることさえしない。

言えばいい。

痛いと。苦しいと。悲しい、辛い、堪えられない。

逢いたい。

思うことは全部吐き出し、一時でもいいから楽になればいいのに、それをしない。

言われた一条が返事に困ることを伝えることは出来ないというところだろう。確かに状況的に見れば自分の弱さを嘆いている場合ではない。ゼロ号が姿を現したのだ、最早一刻の猶予もないと思った方がいいだろう。

でも、それでも、思い合う二人なら口にすればいい。あくまで自然で、当然の要求。

我が儘を“愛情”と呼ぶ、その優しく穏やかな感情を。

「無事で、よかった」

息ばかりの囁きでそう言うと、電波の向こうにいる恋人に笑い掛ける。透明で、悲しい笑みを一条が見たら一体なんと言って叱るのだろう。

ちり、と。胸が焼けた。

「五代、逢いに行けよ」

え、と唇を薄く開き見上げる。

「行けばどうにか入れるだろう。行ってこいよ、あいつ、捻挫してるそうだから極力動かさない方がいい。でかい闘いは目の前まで迫ってる様だからな」

「捻挫?一条さん、やっぱり怪我してたんですかっ」

「刑事の捻挫なんか蚊に刺されたようなもんだろうけど、あいつの場合その後の無理が祟るタイプだから油断ならない」

「兄さんが…兄さんの所為ですか」

「捕まったとき暴れたからだと杉田さんは言ってたぞ」

受話口からはなにやら叫んでいる声が漏れている。恐らく自分の情況を五代に知らせたことを怒っているのだろうが、こっちは親切で言ってやってるんだから聞く耳は持たない。

「俺…俺がもっとちゃんと兄さんに話していれば…」

「悔やむ暇があったら行け。こっちは俺が付いてるよ、何か分かればすぐ知らせる」

「でも、」

「目の前の死ですら利権の前に霞むような男だぞ。そうそうくたばるもんじゃねぇよ」

「…俺には…兄さんなんです…」

言葉に縛られてる。そうとしか思えない。

五代は優しくて、どうにも優しくて自分ばかり傷付く。そんな必要どこにもないし、重なれば苛付きを感じさせるだけなのに。

「じゃあ選べ。兄貴か、それとも一条か。これが最後のチャンスだぞ」

「そんな、」

「どっちに対しても中途半端だろう。いいか、徹底して相容れない相手っていうのはいるんだよ。それが血の繋がりのあるもの同士だってごく当たり前に感じるものなんだ。うちを見ろよ、利用価値があるって理由があるお前と違って役立たずの俺は勘当同然の有様だ。お前が兄弟という言葉にどんな夢を見てるのか知らないが、ここまで来てまだグズグズ言ってるようじゃどうしようもねぇな」

父親とよく似た弟。医師免許を金で買った、人の命の重さを全く知らない哀れな奴。

二人が作り上げる世界に身を置くつもりは毛頭ないし、早々に見限ってくれたおかげで俺は大分楽に生きてこられた。

自分を偽ることはこの世のどんな責め苦よりも辛い。俺は俺が選ぶ道を、どこまでも真っ直ぐに進んでいくのだから。

「お前を見てると本当にじれったいよ。好きなら好きでいいし、思ったことがあるなら何があってもぶつかっていけ!失敗したらそのとき、そこからまた始めればそれでいいだろう!」

行けよ。

お前は、お前こそは立ち止まってはいけない。この先に何があるのか分からない、明日の自分が生きている保証すらない。だから。

「五代、一条が好きだろ?」

「…はい」

「じゃあ逢いに行け。心配したって泣き付いてやれ。ごめんなさいって、気の済むまで謝って来い」

「椿さん」

「俺は子供は苦手なんだ」

我が子を、欲しいと思ったことはない。

自分と同じ遺伝子を持つ人間なんか恐ろしくて残せない。

俺に似るのか。それとも“濃い”と言われる血を引いて、父親や弟に似た感性を持ち合わせた大人になるのか。

繋がりのないはずの兄でさえ心の枷にしてしまう五代。

お前は、もっと自由に生きられるはずなのに。

もう一度急かしたら、握り締めていた携帯に小さな声で呟いた。

   『逢いに、行きます』

本当に小さな声で、だけどはっきり、自分の意志を伝えた。

恋を。

 

 

 

 

 

 

廊下の気配を探り、それから五代の背中を押す。

些細なことほど誰かに弾みをつけて欲しい時がある。

決断できないことがあると、俺は決まってばあちゃんに相談したものだった。頑固で昔気質なばあちゃんは大抵俺をバカにして、そんなことも決められないならやめてしまえと言い切った。

父親に逆らい経営者を捨てると言ったとき、もしばあちゃんが生きていたならきっと喜んでくれたに違いない。

生涯を決めるその言葉を、仏間に飾られたばあちゃんの写真を見ながら何度も何度も繰り返したことは忘れた振りで。

五代、俺だって悩むことはあるよ。生まれてきたことを悔やむことさえあった。

だけどな、すぐそれを上回る幸せを見つけることが出来たよ。大事なものを手に入れる喜びを知ったよ。生きてるんだから、命に対し正々堂々と、自信を持って生きてやらなければ申し訳ないだろう。

物言わぬ死体に問い掛けても言葉は還らない。最後の痛みを量れても、残したかったであろう音は拾えない。

五代、お前は死を覚悟しているだろう?隠していても分かるよ。もし死ぬことはなくても、きっと一条からは離れていくような気がする。

だったら今、この瞬間だけでも気持ちを表せ。全部じゃなくても、すべて曝け出せなくても。一つでいいからあいつに見せてやれ。

残してやれ。

 

 

 

五代、俺は素直じゃないからお前を前に伝えることはないだろう。恋敵にそうそう優しくしてやるほど、お人好しでもないからな。

だけど。

だけど五代、お前は一条と出逢えてよかったんだ。あいつも、お前と出逢えて本当に幸せだと思う。頑なに閉ざすばかりの薫の世界を、お前はあっさりと開き暖かな場所へと連れ出してやった。たとえそれが束の間のものでも、俺には叶えられなかったそれをいとも簡単にやってのけて。

幸せな結末を迎えられるよう、俺は、俺の場所で祈ってる。

お前が、薫が傷付いても、もうしてやれることはなにもないけど。それでも安らかな時間を取り戻せるよう、いつだって心の中で願ってる。

きっとどこかで昼寝でもしてるだろう、神なんて不確かなものにさえ。

 

 

 

 

祈ってる。

 

 

 

 

五代の兄貴は膵臓、脾臓を破裂させ、右足は重度の火傷に粉砕骨折も負い、更には脊椎に損傷があることも分かった。

五代が病院を出てからすぐ急変の知らせが入り、一応未確認関係の患者を診たこともある俺が呼び込まれたときは最悪の情況となっていた。

白い顔に最早生気はなく、夥しい数のチューブが彼の生命線となっていた。

椿と聞いて駆け寄ってきたのはこの病院の院長で、父とは親交のある人物だった。理系の神経質そうな目の奥が光っている。

「今夜が峠だろう」

「見込みは?」

「私が聞きたい。どうかね、これまでの診察結果からどんな答えが導き出される?」

「一号からこれまで、敵はどんどん強くなっていく一方です。そして被害も大きくなるばかりですから」

「無駄な治療だ、ということか」

「…医療に携わるものは決して口にしてはいけない言葉ですよ」

「でもきみも思っているのだろう?」

当たり前のような口調で。

慌しく動き回るナースに隠れそっと廊下へ逃れる。彼は、もう五代を苦しめることはないかも知れない。

きっと、もう二度と。

 

 

無力で、非力で。

「本当に…面白いくらい五代の役に立つことは少ねぇな」

 

医者だから診察はしてやれる。

医学的見地なんて偉そうなもので見通しを話してやることは出来る。だけど本来はすでに言葉を持たない人間を相手にする俺が、掘り起こしてやれば溢れるほどの感情を抱え立ち尽くすあいつを助けてやることなんて出来ない。

一条、お前は五代を巻き込んだことを後悔しているというけれど、それでもお前たちが二人望んで辿り着いたその場所は決して悪いものじゃないはずだ。唯一無二を手に入れられるなんて、そう簡単なことじゃないのだから。

 

終わりは近い。

それだけは分かる。

 

 

全てが終わったその時に、俺たちはみんな笑うことが出来るのだろうか。

安らげる時間を、取り戻すことは出来るのだろうか。