月光譚 17 地下駐車場から桜井さんの手引きで警視庁内へ入った。 ここへ訪ねて来ることは初めてではないし、止められているわけでもなかった。けれど今回の事件で上層部が俺を別な意味で危険視しているから、簡単に一条さんには近付かせてもらえないようだった。 兄さんは、もしかしたら、だめかも知れない。 もし万が一の事態が起これば、俺の自由はもっと奪われる事になるだろう。元から欲しいのは傀儡だけで、俺みたいになにも知らない奴はきっと丁度いいカモに違いない。兄さんの後ろに居並ぶ連中の顔を思い浮かべれば、一筋縄ではいかないことはよく分かる。 俺は、兄にはならない。 「一条さんがあんなに取り乱したのを見たのは初めてですよ」 「怪我の方はどうですか?捻挫したって聞いたんですけど」 「大したことはないみたいですが、この前の怪我がまた痛むらしいんです。時々脇腹に手をやりますから」 「手荒なことをされたんでしょうね」 「本人はなにも言いませんがね。全く卑怯な奴らですよ、ぶっ飛ばしてやりた、あ...」 「いえ、いいんです。兄のしたことは許されることじゃないから」 「ゼロ号に遭遇したんですよね...どうでした?」 「怖い、としか…言い様がないです」 なにも出来ず、ただ呆然と見ていた。 目の前で笑いながら手をひらめかせたゼロ号。その圧倒的な力は瞬きほどの一瞬で数人の命を奪い、兄を傷付け去って行った。俺がクウガだと知っているのになにも言わず、唇に薄い笑みを浮かべそのまま姿を消した。 あれと、闘う。 命を懸けて。 全てを引き換えにして闘い、そして勝つ。勝たなければならない。 「…いいですよ」 曲がり角で様子を窺っていた桜井さんが即す。重厚な造りの扉が素早く開き、突き飛ばされるように中に入れられた。 「五代!」 一条さんは、座っていたソファーから立ち上がろうとして松倉さんに止められた。捻挫は動かすのが一番よくないと、子供のころ神崎先生に言われたことを思い出す。 「五代、怪我はないのか?ゼロ号はどうした」 「…挑発するようにみんなを傷付けて、そのまま姿を消しました」 「椿にも怪我はないか」 「はい。でも兄さんの会社の人が何人か亡くなって…」 そして、兄もまた… 「大変なことになったな。まあ座りなさい」 松倉さんが一条さんの隣を示す。向かい合うように挟んだテーブルには沢山の資料が乗っていて、二人が交わした熱い討論を無言のうちに知らせている。 心配そうに俺を見る一条さんに笑いかけてから、俺も打合せ用に気持ちを切り替えて… 「五代くん、一条警部補は非常に優秀だがその反面無謀なこともしでかしてくれるという、少々扱い辛い部下でもある」 「そう、ですか」 なに? 「きみというパートナーと出会い、厳しい闘いの中でも懸命に努力している姿は大いに評価するが、それでも私から見れば若気の至りや無鉄砲と言わざるを得ない部分も多々ある」 「はあ」 「本部長、何を仰っているのですか?」 一条さんも困惑してる。 黙っていると、とても厳しく近寄りがたい感じのする松倉さんが、ふっと頬を緩めるとそれだけで心の中の穏やかな優しさが滲み出てくる。 俺の父さんはいつも笑っていたから、二人が似ているとは思ったこともないけど。だけどこんな暖かな目で見られると抑えていたものが一気に溢れそうになる。 「ここの警戒は最大限に緩和してある。私は総監室に用があるから、その間にしっかりと一条くんを諌めてやっておいてくれ」 「え、」 「本部長!」 「クールダウンだ。毛を逆立てた野良猫では、勝てる勝負も勝てなくなる」 「あはは」 「五代」 睨まれてしまった。 桜井さんと松倉さんは、素早い動作で部屋を出て行く。二人の気遣いはありがたいけど、今、彼と二人きりになるのは正直辛いことでもあった。 気配が遠退き、そして互いの息遣いだけが響く。一条さんは俺から目を逸らさず、いつもより更に険しい雰囲気で俺のことを見ていた。 「…兄さんが…」 「ああ」 「目の前で兄さんがゼロ号に襲われました。それを庇って何人かが犠牲になって…でも結局、兄さんも…」 「容態は、どうなんだ」 首を振る。言葉にするのは怖かった。 「五代」 言えない。 一条さんを傷付けた、それは確かに憎むべきことだし警察官としての立場からしても兄さんのしていたことは許せるはずのないことだ。でも。 「五代…どんな事情があろうと兄弟が犠牲になったんだ。しかも自分が見ている目の前でそんなことになって…」 眼差しが、恋人のそれになる。纏う空気が柔らかくなる。 躊躇いのない指が俺の髪を梳く。癒そうとするように何度も触れて、そしてその腕に抱き締められる。 「俺は…俺は兄さんを憎めない」 「ああ」 「一条さんに酷いことして、人間的に許せないことをして。だけど俺には兄さんだから…家族だから、だから…」 「いいんだよ。分かってる。俺はちゃんと分かってるから」 優しい手が背中を撫でて、甘やかす唇がキスをくれる。ここが庁内だってことを忘れてるはずないのに、それでも俺に安心を与えようとしてくれる。 愛されてる。 実感する。 俺は、この人を愛し、そして彼も愛してくれてる。 だから。 「一条さん…」 「ん?」 肩に頭を乗せて、囁く声で呼びかける。あなたが好きです。あなたに思われたいです。我が儘をもっと言って、あなたの目に映る全てになりたい。 たった一つの願いを、叶えて欲しい。 「ゼロ号は、俺を呼んでました」 「呼んでいた?」 「はい。明らかに俺を挑発して、そのためだけに兄さんを傷付けました」 「なめた真似を…」 「一条さん。兄さんは悪いことをしています。だからそれは当然償わなくてはなりません」 「そうだな」 「だから絶対に良くなって、それで一条さんに捕まえてもらえるようにって、俺からきつく言っておきます」 「そんなに素直じゃないだろう」 「ええ」 一条さんが喉の奥で笑うと、それにつれて上下する肩が俺の体にも伝わった。 暖かい、一条さんの体。 俺を愛してくれる、見つめてくれる、愛しい人。 全てを奉げる人。 「俺…………なります」 空気の流れが止まる。 一条さんの、動きも止まる。 「許せないことがあります。それはいろいろなものに対して感じることだけど、兄さんを傷付けたあいつを俺は絶対に許せない」 償わせたい。ちゃんと、人として生きて欲しい。これからの毎日でそれはいつか叶ったことかも知れないのに、今、永遠に奪われようとしている。 「俺に出来ることは少ないけど、一度決めたら最後までやりたいじゃないですか」 「五代っ」 「兄さんを、一条さんに捕まえて欲しいんです」 痛みを覚えるほど強く肩を掴まれ、正面で見据えられる。激情に燃えた目はいっそ恐ろしいほどで、だけどそれが俺に対する思いの全てだと分かるから。 「俺はゼロ号と闘います。だから一条さんは、俺の後ろでみんなを守ってください。あいつは滅茶苦茶強いから、ちょっとでも油断したらまた犠牲になる人が増えちゃいます」 「五代!」 「俺が全てをかけてあいつと闘います。後ろの人たちを傷付けない様に、ちゃんと、最後まで闘いますから。一条さんはその俺が安心して前だけ見ていられるよう、一条さんの場所で最善を尽くして下さい」 あなたを矢面には立たせない。兄さんの青白い顔が浮かぶ。 誰も死なせない。大切な人には笑顔でいて欲しい。 ダグバが究極の闇を司るものなら、俺は“究極のエゴを貫くもの”…かな? 「…あ、」 動いた。石が。 何かを知らせるように熱くなって、そして存在を誇示するように蠢く。何度か味わったそれは吐き気を覚えるいやな感覚だったけど、今度はもっと静かな、“予兆”を告げるような波動を帯びている。 大丈夫。 大丈夫だよ。 俺は闘える。 最後までやれる。みんなのために。自分のために。 必ずやってくる、明日という日のために。 「ねえ…ねえ一条さん。今夜は帰れないかな」 「…どこへ」 「うん。…一条さんの部屋」 俺には家がない。 ポレポレの二階は確かに住み慣れた部屋だけど、だけどあそこは俺を包み込む暖かな場所であると同時に、帰る場所のない自分を突きつける寂しいところでもあった。 みのりは女の子だから、いつか大切な家族を作り出すことが出来る。血を分けた我が子を、愛する夫とともに守る。 だけど俺は一条さんを愛し、いつか来る別れに怯え進むことも出来ず、漠然とした不安を抱えたままいつまでも立ち尽くしている。 結婚できないとか子供が生めないとか、そんな単純なことじゃなく。 一条さんは、俺に出会っちゃいけなかった。俺と恋するなんてあっちゃいけないことだった。 真っ直ぐな道を歩いて、日のあたる暖かな世界で昂然と顔を上げて。優しい奥さんと利発な子供を持って、正義のために闘い続ける、それがこの人にとっての最善だったはずなのに。 兄さんを一人に出来ない。 どんなものでも彼が守ろうとしたあの家を見限ることは出来ない。 母さんの意思を。 口には出さなかったけど、母さんが大切に持っていた写真がある。どこで撮ったものなのかその時は分からなかったけど、高徳院の居間に揃った笑顔の家族写真。暖かな空気が、そこには確実に存在していた。 変わってしまった母の家を、出来ることなら取り戻したかったけど。それはもう無理かもしれない。兄にも、自分にも、時間というものがない。 だからこそ、やり直しのきく人には新しい道を歩んで欲しい。正しく綺麗な、自分自身で作り上げていく道を。 「俺、一条さんに逢えて…よかったと思ってます」 「そんな言葉を使うなっ」 「どうして?俺は自分一人で過ごす時間をとても大切にしてたけど、それは誰かと交わることで傷付く瞬間を無意識に避けていただけに違いないんです。でも一条さんは違う。俺ね、一条さんと一緒だと本当に幸せだなって思えるんです。好きだって気づいた初めの頃は気持ちを殺すのに必死だった。有り得ないことだと思ってたから、あなたのことを直視することさえ怖かった。逃げてた。でもね、今はこんなに好きなんです。好きだって言えるんです」 「それは俺も…俺だって同じだ」 初対面の印象は絶対によくなかった。一条さんは口にはしないけど、それでも初めは嫌いだったに違いないと思う。だってあの時の俺はまるで不審者だったもんね。あの名刺だって、差し出すたびに変な顔されるから自分でも薄々気づいてたけど。 怖い顔のままの一条さんに笑い掛ける。 強がりじゃないよ。俺、あなたの前だと笑えるんです。自分を偽らずにいられるんです。 でも。 「ずっとずっと好きです。俺って意外としつこいから、一条さんが嫌だって言っても側にいますよ。よっぽど分かり易く振ってくれない限りはね」 でも、俺の口からは嘘ばかりが綴られる。正直に話していいことは、実は世の中には少ないんだと知っているから。 「俺は……お前に闘うなとは言えない」 うっすらと涙の幕のかかる紅い目。一条さんがどんな気持ちでそれを口にするのか、分かっているのに俺は笑って見せることしか出来ない。 言葉には、しちゃいけない。 「悲惨な闘いに巻き込んで、何一つしてやれない。挙句にそんな…そんな決断をさせて…」 「一条さん…」 「こんな寄り道をさせたくなかった。五代には五代らしい、自由に冒険を続けられる日常と、心優しい、穏やかな人生を歩んでいて欲しかった」 「…ありがとう」 笑顔を返す。 俺が出来る中でも、最高の笑顔を見せる。 あなたを好きになってよかった。 本当に、心の底からそう思う。 「でもね、俺は自分一人で生きるより、あなたに逢えた方が幸せだと思ってます。今はこんな状態だけど、一条さんといる時間は本当に楽しくて幸せなんです。だから悔いたりしないでよ。俺との出逢いを悲しいなんて言わないで」 甘えて首にしがみつく。俺が出来る精一杯の愛情表現。言葉は決して伝えられないから、だから俺の体を感じて。俺の声を胸に響かせて。 忘れないで。 「一緒にいたよ。俺たち、ちゃんと分かりあって、確かめ合ったよ。ずっとそこから逃げてたけど、だけど今、こうやって離れたくないと思うほど近くにいる。だからもうやめましょう、悲しく考えるなんて嫌だよ。俺、一条さんが好きだよ」 強く抱き締められる。低い嗚咽が響く。 これから先も一緒にいると、その言葉で安心は出来なくても誓いにはなる。 だからきっと、彼は待ってる。 帰ってくると、俺がそう言うことを。 待ってるのに。 広い背中。俺が愛した人。大切な人。守りたい人。 狡くて臆病で、思いを語る言葉の少ない、不器用でだけど愛しい人。 何よりも今、近しい人。 愛してる。 桜井さんは、とても悲しそうな顔で俺たちを見た。 きっと悲壮な空気を一条さんが作り出しているからだろうけど、俺は自分でも楽しそうな笑顔を見せていたと思う。その対比が余計に違和感を生むのが分かっていても、だからといって暗く沈んだ表情なんか見せられなかった。 俺の恋人はとても可愛い人です。 驚くほど綺麗で、そして凛々しく高潔な人です。 人間の臆病さを持った人です。 黙っている卑怯さを持つ人です。 言葉の、とても少ない人です。 まっすぐに、澄んだその目で俺を見ます。 泣きそうな顔をします。 優しくして欲しいと、声には出さずけれど気付いて欲しいと目で訴えかけてきます。 今まで生きてきた中で、唯一執着したものです。 この人と生きたいと、心の底から思う人です。 命に。 自分の命に換えても守りたい、守り抜くと決めた人です。 永く安らいでほしい人です。 愛する、人です。 速くは走れない一条さんを肩に庇い、非常階段を下りていく。 その一歩一歩は戻れない場所へと進むものだけど、決して後悔なんかはしなかった。 兄さん、兄さんを許すことは、今すぐには出来ないけれど、それでも分かり合いたいと願うとはやめないから。だから二人、もっと静かなところでもう一度出会いましょう。 あなたを兄として尊敬したいから。愛したいから。 俺はダグバを許さない。 決してあれを、許さない。 ごめんね一条さん、大層なことを言ってここまできたけど、結局最後は私情に流されてるみたいです。兄さんを傷付けたことが許せない、ただ本能で動く未確認に似た存在となって。 闘います。 勝ちます。 俺の意思で、俺の力で、憎むべき敵を倒します。 そして、そこから先に進むことはないけれど、決して後悔することはないでしょう。 だってあなたを。 心からあなたを、愛したのだから。
|
|||