月光譚 20   −最終章−  



 








 柔らかな風が髪を撫でる。



 




 




 




日当たりの良いベランダを仕切るサッシを開けて、五代はソファーから持ち出したクッションを枕に子供のように丸まった姿勢で眠っている。




まだ、一日すべてを正常な精神では過ごせない。




“激動の”としか表現できないあの闘いの日々を越え、五代は、なにより無垢で脆い抜け殻となってしまった。




 




あの朝、俺は何も出来ずに出ていく五代の背を見送った。




止められない。そんなことは百も承知で、だけど呼び止めたら最後手放すことが出来なくなるのは分かり切ったことだったから。




だから、卑怯で臆病な俺は一言の言葉もなく行かせてしまった。




悲しく、苦しいだけの闘いの場へ。




恐らく自らの命を捧げようとしている五代を。




ひとりで。




 




吹雪の九郎ヶ岳に辿り着いたのは、決着がついた後だった。




特捜本部の仲間と地元長野県警からの応援に混じり、五代と出逢った遺跡の入り口付近までやってきたところで俺の全身の血が凍り付いた。




真っ白な雪の上に散る、いっそ見事なまでの赤い血。




生命を司る色はこれ以上ないほど鮮明に、残酷にその場の者の視線を釘付けた。




惨い。




そうとしか言えなかった。




ダグバという怪人は、他のグロンギたちと同じように人間体を持っていた。横たわるその体はまさしく“人間”そのもので、二十歳に手が届こうかというような外見を持つ少年だった。




白い衣服を血に染め、少年は静かに眠っている。“眠っている”としか言い表せないほど、その頬には穏やかな笑みが浮かんでいた。




殺されたのだ。




五代に。




クウガに。




彼の手により、破壊と殺戮を繰り返した化け物は抹殺されたのだ。




こんなあどけなさの残る少年を。




大切な恋人は、その手で葬り去ったのだ。




 




誰もが言葉を失うその静寂を破ったのは桜井さんだった。




雪まみれの体で、狂ったような声を上げながらその場の雪を蹴散らし始める。




ぼんやりと立ちつくしていた俺の背中を叩いたのは杉田さん。




「一条、五代くんはっ」




何を言われたのか理解するのは遅かった。




雪と、ダグバと。




まだ雪のない九郎ヶ岳。遺跡の入り口。




落雷による被害だと報告を受け、俺は長野県警警備課の代表としてこの地を訪れた。




悲惨としか言い様のない現場に疑問を抱き、天災などではないという確信はその場の直感として持っていた。




自然、強ばる顔を自分でも意識していた。そのとき。




 




 




五代が、現れた。




 




 




「五代くん!いるなら返事してくれ!」




杉田さんが叫ぶ。




五代を知る何人もの捜査員が、足を取る深い雪の中で必死にひとりの青年を捜す。




ごだい。




五代。




五代雄介。




俺が、愛したひと。




大切な人。




「ご……だ、い…」




 




 




 




 




 




 




絶叫が、雪原を貫いた。




 




 




 




 




 




 




 




山岳救助隊の出動と同時に自衛隊の救助活動も始まった。松倉本部長が手を回してくれたのだが、事情が事情だけに捜索隊も思うように動けないことに苛立ちだけが募っていく。




五代のことは厳戒令が布かれていたこともあり、マスコミは一斉に飛びついてくる。事件は収束したようなものだったから、あとに残るのはゴシップ的な感覚だけで記事になればなんでも捏造する連中の大群だった。




雪山の奥深くまででも平気で踏み込みこちらの活動に支障をきたさせることなど朝飯前という「記者魂」は、見ていて吐き気すら覚える醜さだ。




高徳院からは早々に捜査を打ち切るようにという要請が出ていた。




当主である貴志氏がダグバに襲われ生死の境を彷徨っている。企業としてのイメージに傷の付きかねないスキャンダルを抱えた現状では仕方のない判断かもしれないが、彼らにとっての五代が本当にただの傀儡だという事実に抑えようのない怒りが湧いたのもまた事実だった。




 




五代は見つからなかった。




 




どこにも、いなかった。




 




絶望で、目の前のものすら、見えなくなっていた。




 




 




 




 




 




椿から連絡があったのは五代の捜索が打ち切られた翌日のことだった。




植物状態になった貴志氏を自分が預かるというのだ。




関東医大の院長は、医師会で絶大な勢力を誇る椿の父親から圧力を受けたらしいが、彼の説得に負け引き受けることとなったらしい。




説明では、彼の意識が戻る可能性は限りなくゼロに近いという。ドナー登録をしていれば少しは世のため人のためになったろうにと皮肉る椿も、五代がいない今、彼を守れるのは自分だけだという気持ちがあるのだろう。同僚の内科医を主治医として必死にサポートしているようだった。




 




何もかもがどうでも良くなっている俺に、椿が言った。




顔色が悪い。休んでいけ。




自覚は十分にあり、断るには疲れすぎていた。




事件から早三ヶ月が過ぎようとしていたのに、俺は同じところに立ち止まったまま何も見えず、考えられず、ただ流れる日常をぼんやり眺めていたに過ぎない。




与えられた病室で横になっていると、意識がふわふわと浮いているのが分かった。このまま呼吸が止まれば、限りなく自然な最期を迎えられるような気さえした。




廊下の足音を聞いたのはその時だった。




 




 




二つの足音。




時間をおいて、聞こえてきた二度目の音。




初めは忍ばせたそれで夜勤の看護婦のものだと思い、気にもとめなかった。




貴志氏の身の安全を考えると警護をつけておく方が良いと判断され、その夜も立番の制服警官が扉の前に詰めているはずだった。




そして足音。




今度は、夜の病院にはあるまじき勢いで駆けていくそれに飛び起きたのは、なにも嫌な予感ばかりではなかったのだ。




 




病室の入り口に突っ伏したままの警官は、殴られたものか頭部からかなりの出血をしていた。駆けつけた椿に保護を頼み、開け放たれたままの病室を覗く。




 




細い背中。




記憶の中より更に細く、頼りなくなった背中。




愛してやまない恋人の背中。




失ってしまった、彼。




 




 




 




 




 




貴志氏は既に事切れていた。




生命維持装置を止められ、その体は冷たく冷め始めていた。




五代は。




 




 




 




自分を、殺してしまった。




 




 




 




 




 




 




 




 




 




 




 




 




 




 




貴志氏の母親は、戸籍上は五代の母と同じだ。




生みの親である女性は五代を毛嫌いしていたそうだが、息子の悲惨な姿と掌を返すように厄介者扱いをする「名家」というものに対し相当なダメージを受けたのだろう。




離れに隔離され、誰省みられることない寂しい人にされてしまった。




五代はその女性を母と慕い、この三ヶ月という幽閉生活をともに過ごしたと言った。




病んでいく自己を、彼女を支えることでどうにか保っていたのだろう。春に向かうまだ冷たい空気の中で、母の面影を追う彼の儚い笑みが見えるようで堪らなかった。




 




 




五代は、“自分”というものを放棄してしまった。




何もかもを捨ててしまった。




存在としての彼はここにいるのに、人としての感情は一切を失ってしまった。




消し去ってしまった。




 




これではいけないと思っても、俺に出来ることなんてたかがしれている。




でも一つだけ。たった一つだけ出来ることがあった。




側にいること。




五代と、ともにあること。




それを教えること。




ひとりでは、ないこと。




 




 




 




一ヶ月の長期休暇を申請した。




削られ、ほんの僅かな時間しかないとしてもいい。それでも彼を痛みだけの世界から連れ出したかった。新しい風を浴びせてやりたかった。




五代が守った世界の素晴らしさを彼に見せてやりたい。




一番の権利があるはずの彼を、しっかりと立たせてやりたい。そして。




戻ってきて、ほしい。




 




 




許可は、拍子抜けするほどあっさりと下りた。




帰着後はそのまま長野へ戻る旨も伝えられた。




行き先はキューバ。




連れ出したいということ、帰国後は長野へ伴いたいこと、ポレポレのマスターにそう告げると彼は複雑な表情の後優しく笑い、それなら行き先はキューバだと言った。




『キューバ凌ぎだからね』




脱力した。




でもその言葉の裏にある暖かさが胸にしみた。




五代、きみはこの大切な人々を捨ててしまうのか。忘れたまま、そこに留まるのか。




 




そんなこと、させない。許さない。俺が。




 




 




 




取り戻してみせる。




 




 




 




 




 




 




 




 




 




どこまでも白い病室を抜け出し、限りなく広がる青い空の下で笑おう。




 




その隣には、いつでも俺がいるから。




 




隣に、いるから。