月光譚 21 −最終章− 澄み切った青空の下で、光のない目をした五代が蹲る。 砂浜に連れ出し、何をするでもなく空と、海を見るだけの時間を二人で過ごした。 言葉も感情もなくした五代はただぼんやりとしているようにも見えたが、その指先が生きようとしている証を伝えていることに気付いた。このどこまでも他人の顔した手の届かない青の異国に、それでも優しさを感じるのは彼だからこそ。 人間を愛し続けた彼だから、その温かさにも反応を示す。 信じて、連れてきてよかった。 砂浜に座り込んだ彼はぼんやりとした目で、けれど無心に一つの文字を指で綴った。 “い”という文字から想像するのは、痛いや嫌やという苦しい言葉ばかりでとても喜べるものではなかった。 けれどその時から予感していたことがある。 湧き上がる思いを否定するのは難しい。彼をひとりで行かせた自分に、なんで許しが与えられるはずもないからと。 繰り返す指の動きは、けれどその思いをはね除けるように綴られる。 二つ目の、文字。 無心に書き続けられるそれは、それ以上増えることはなかったけれど。 旅に出た価値は十分以上に得られたと思う。 五代の指先が信じる気持ちを強くした。長い道のりを歩き続ける、そのための力を与えてくれた。 心地よい風の中、彼が記し続けた“いち”というその二文字が、何より強い絆となった。 日本に戻って、俺は空港に出迎えてくれた椿に五代を託しそのまま長野へ直行した。 疲労は確かにあったけど、一刻も早く彼を手元に引き取るための準備をしなければならないという使命感に不思議と力が湧いてくるようだった。 別れたときの五代は不安そうな目で椿の腕を掴んでいた。 一月という時間がそれなりに彼の心を捕らえたのだろう、明らかに別離に怯える眼差しでいつまでも見送っていてくれたのが面映ゆかった。 長野県警に到着するとすぐに署長からの呼び出しがあった。 帰着の挨拶をすませたら総務部へ行き、官舎の空きを確認する。五代と二人で暮らせる環境を整えるのは容易なことではないだろう。彼を一人きりで留守番させることも躊躇われたし、その辺の都合をどう処理すればいいのか…申し訳ないけれど上の空で挨拶をした俺に、署長の言葉はまさに寝耳に水の“人事”だった。 一連の事件の功績を評価し、一条薫警部補は本日を持ち長野県警察署の副署長を任ずる。 そんな馬鹿な、と本気で言いかけた俺に署長は笑った。本庁の松倉さんや、特捜本部の仲間に感謝するように。 大切な人たちの笑顔が浮かぶ。人間の温かさを改めて感じ、そして泣きたいほど胸が苦しくなった。 一警察官ではこれまでと変わらない激務をこなすことも必至だが、副署長ともなれば直接現場に赴くことはないし帰れないほどの状況なども殆ど皆無と言っていい。後に聞いた話では、特捜本部のメンバーが最大の功労者である五代の身を案じ執ってくれた措置だという。官舎も、独身の自分には持て余すほどの広さを持つ戸建ての住宅があてがわれたし、椿の知人である医師が健康管理をしてくれることまで決まっていた。 驚きつつも素直に喜ぶ俺は早速椿に連絡をした。休暇は三日も延ばされていて、五代の側に戻れることを報告するためだった。けれど電話口で、妙に焦った声の椿は五代の不調を伝えてきた。 一瞬にして血の気の引いた俺が、長野、東京間を最短時間で移動したのは言うまでもないことだった。 病室の五代は激しく震えていたけれど、名前を呼び、怯える背中をさすってやると安心したように眠ってしまった。椿が、何があってもお前の側がいいのだと言ってくれた。 二人で過ごす不安は勿論大きい。けれど離れていることの苦痛を考えれば、不安を乗り越えることの方が遙かに容易い。 俺は五代を取り戻すと誓ったのだから、だから、それでいいと思う。 五代は、その時点で既に五代ではなくなっていた。高徳院グループでは世襲制を取りやめ、それまでを仕切っていた専務が代表権を掌握したという。 事件後、九郎ヶ岳から五代を連れ去っていたのはやはり彼らの仕業だった。傀儡として使うために彼の兄を殺し、またその母親さえも… 五代が心の拠り所としていた貴志氏の母親もまた、組織によって抹殺されたのは疑いようのない事実であった。貴志氏を殺したと自供したのは、リストラによる恨みを持つ元社員で、この男はあろう事か取調中に服毒自殺を図った。持ち物の中に煙草はなかったはずなのに、砒素の混入したそれを吸い死んでしまった。彼を訪ねた弁護士は高徳院の手のものであり、確実に殺人であると思われるその一件は上層部による捜査打ち切りの命により闇に葬り去られていった。 一方彼の母親は、勝手に離れを抜け出し自宅の前でタクシーに跳ねられ亡くなったという。こちらの運転手も背後を調べれば多額の借金を抱えており、大方その肩代わりをエサに雇われたのだろう。 どちらも罪が罪として明るみに出ることはなく、後味の悪さとやるせなさだけが残る結果だったが、それ以上の詮索は決して許されることがなかった。 大切にしたかった家を、家族を、いっそ失ってしまえば美しい思い出だけを抱えていられたかもしれないのに。 五代は、その名を“高徳院雄介”と無理矢理改めさせられ、断ち切ることの出来ない関わりを持たされてしまった。 今も。 これからも。 すべてを取り戻したその時、また新たな痛みを彼が感じることは確かだったが、それでも先を嘆くより切り抜ける力を身につけたいと思う。 そう強く念じることだけが彼を支える術だと思った。 長野での暮らしはひどくゆっくりしたものだった。 初めの頃こそ怯え、離れようとしない彼に途方に暮れたものだったが、柔らかで穏やかな町の空気が彼をゆっくり解していくのが手に取るように分かった。 嬉しかった。 帰宅するとリビングのソファーでぼんやりとテレビを見ている。古い洋画のビデオをたくさん買い与えてやったら、内容を理解しているか甚だ怪しい目つきでそれでも毎日のように違う作品を眺めている。 美術品や絵画の本も揃えてみた。興味を引くものなら何だってよかった。 彼が彼としての時間を取り戻せるよう、愛したすべてを周りにおいて。 そして、その一つ一つを意識の中に取り込んでいければ。きっと。 少し肌寒さを感じる夜だった。 その日は亀山が教えてくれた花火を見ようと、彼の手を引き坂道を上った。 開催場所の公園では人が多くて疲れるだけだと返すと、調べをつけていた亀山は得意げに言い放った。自宅前の坂を上った公園からよく見えるそうです。 彼の言ったことは事実だった。 近隣の人間だけが集うそこはこぢんまりとした公園で、俺は五代をベンチに座らせ飲み物を手渡した。 不思議そうに眺める暗闇に突然咲いた大輪の花に驚いたのか、彼の指先が必至に腕を掴んでくる。 大丈夫。側にいる。 笑いかけると落ち着くのか、子供のような無垢な瞳で一心不乱に眺め始める。 色とりどりの夏の花火を、五代の眼差しが捕らえている。 鮮やかな、生命の象徴のような、それ。 長かった。 苦しかった。 闘いの日々は確実に様々なものを奪い、そして同じくらい大切なものを与えてくれた。 その大切な人は、今はこんな風に壊れた時間の中にいるけど、それでも共に歩くという生涯の誓いは貫ける。 添い遂げる。 やわらかな温もりが頬に触れる。 ゆっくりと巡らせた視界の中に、薄く微笑みを浮かべた口元が映る。 五代の指が、伝う涙を、拭ってくれる。 「………………ぃ、…、」 「ごだ…い?」 「…ぃ、……ぃ、」 取り戻した。 月が輝く。 虫の声がする。 夜の風が髪を撫で、家々の明かりが消えていく。 暖かな家。 あたたかな人。 待つ人。 恋しい人。 愛する人。 出逢えたことの意味。 理由などない、この思い。 きみを愛すること。 きみに愛されること。 そばにいること。 居続けること。 手を、取り合うこと。 ともに歩むこと。 ここに、いること。 「一条さん?」 「ああ…起きたのか」 俺を見る目。 生きている、瞳の中。 捕らえているのは俺の笑顔。 彼を愛する、心。 「気分はどうだ?」 「……………はい」 ぼんやりとした視界の中に俺を捕らえて、だけどまだ全てを取り戻しきれない彼は薄く微笑むことしかできない。 心を、開けない。 手を貸して立たせると、すっかり痩せてしまった体が不自然に傾ぐ。それでも自分の足で立とうとする力が感じられるからもう大丈夫だ。 きっと。 大丈夫だから。 「買い物に行こうか」 「……はい」 暖かな言葉を綴るはずの唇は、今はまだ語る術さえないけれど。 「上着を取ってる来るから、靴を履いて待っててくれ」 「…一条さん」 「うん?」 「………はい」 しょんぼりとした目で俯く。玄関に向けて進む。 ああ、そうか。 「雄介」 追いついて、手を取る。指を、握りしめる。 寂しくないように。 「おいで」 ひとりじゃないよ。 お前は、ひとりじゃないから。 「今晩は何を食べようか」 寝室のクローゼットまでの距離は近くて遠い。ゆっくり歩くその道のりは、彼と自分のペースでもある。 急がなくていい。時間は無限にあるのだから。 いつか二人、原子の塵になったとしても、それでもともにあると誓ったのだから。 今夜の月は、きっと綺麗に輝くだろう。 見上げる二人を照らすだろう。 暖かな太陽はまだもう少し先の未来にあるけれど、夜空に光るやわらかなその月光は、きっと優しく照らしてくれる。 道を、示してくれるから。 歩いていこう。 信じた道を。 この、目の前にある長い道を。 歩いていこう。 ふたり、いつかの涙を思い出に変えるその時を願って。 月光の明日に、思いをつなげて。 あなたを愛するから。 愛してほしいから。 その、清かなる月の遙かに。
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